全部僕のためならば

 いてくれればいいと思う。


 いなければいいとも思う。


 美術室の前を素通りして、さらに人気のない廊下を進む。深呼吸してから手をかけると、美術準備室は簡単に開いた。



「なあに、この買い物メモ」



 緊張した面持ちの僕を見て、床に座った花宮さんがクスクスと笑う。彼女の手には、昨日書いた手紙が握られていた。



「やっぱり、花宮さんだったんだ」


「探偵みたいだね、菅谷くん」



 後ろ手に鍵を閉めると、花宮さんがびくりと肩を揺らした。今までに見たことのない反応に驚いていると、彼女はさっきまでの余裕のある笑みをしまって困惑したように目を泳がせる。



「それで、えっと、なにから聞けばいいのかな……」



 花宮さんの前にしゃがみ込んでそう言うと、彼女は頬を膨らませてそっぽを向いた。



「呼び出したのはそっちでしょ」


「そうだけどさ……」



 少し考えてから花宮さんの顔を無理矢理こちらに向かせると、彼女は目を見開いてからわかりやすく動揺した。



「な、なに……」


「どうしてここに来なくなったの?」


「ひ、必要なくなったから」


「他の場所でご飯食べてたの? クラスの人と? この前帰ってた人? 僕には飽きたの?」



 何から言えばいいのだろうと考えていたのに、一度口から言葉を出してしまえば次々に疑問があふれてくる。


 僕の勢いに押された花宮さんが、何度か口をパクパクしてから小さく息を吐いた。



「菅谷くんはさ、バレてもいいの?」


「え?」



 こんなこと、といって花宮さんが僕の首に手をまわす。至近距離に端正な顔が近づいて、今度は僕がたじろぐ番だった。少し動いたら唇が触れてしまいそうな距離で彼女が瞬きを繰り返す。



「そりゃ、バレたら困るよ」


「でしょう?」


「だって、花宮さんの秘密もバレるってことでしょ?」


「なにそれ……?」



 僕の言葉を聞いた花宮さんが少しだけ距離を開ける。


 長い上下のまつげが絡み合う様子が綺麗だ。その奥にある瞳がいつもより少し潤んでいる気がした。



「菅谷くんが困ると思ったんだけど。私と一緒にいるとこ見られたら」


「それは困らないけど、説明を求められたらうまくごまかせる自信はないかな」


「はあ……?」



 花宮さんは怪訝な顔をしたあと僕から腕を離して、ああもうと頭をかいた。



「見られた」


「え?」


「ここに向かっているのを見られたの!」



 花宮さんはそう言うと、少しだけ頬を染めて口をきゅっと結んだ。


 本当に、優しい人なのだと思う。



「僕のために来なかったってこと?」



 小刻みに首を縦に振る。


 僕が花宮さんと一緒にいるところを見られたところで、せいぜいクラスメイトから好奇の目で見られるくらいだ。元から羽虫くんなんて呼ばれている僕の立場がこれ以上悪くなることなんてないだろう。



「それで、ここに来ずに他の人と仲良くしてたの? そいつのこと好きなの?」



 今度は、大きく首を振った。



「じゃあ、ここに来ようとしてたことをネタに脅されたとか?」


「ち、ちがうよ! 一緒に過ごしてたら、あの人も私を見たことを忘れてくれるかなって……」



 最初の威勢はどこに行ったのか、花宮さんは恥ずかしそうにもにょもにょと口を動かした。



「それって、僕のためってこと?」



 花宮さんはは答えない。いつもは挑発的な彼女がしおらしくしている様子を見ると、何かがこみ上げてくる。



「ねえ、花宮さん」


「なに……」


「絵を拾ったのはどうして?」


「だって、あれ、あたしでしょ?」



 さっきまで弱っていた彼女が、今度は目をつり上げる。


 こんなにコロコロと表情が変わるなんて、きっとクラスの誰も知らないはずだ。


 しゃがんでいるのが辛くなってきて床に座る。僕が黙っていると、彼女は言葉を続けた。 



「捨てちゃうなんてひどいじゃん。しかもあんな破ってさ」


「でもよく見つけたね」


「美術室から見てたの気づいたから……」


「それでわざわざ朝から美術室に行ったの?」



 言葉を詰まらせる花宮さんがやたらと可愛く見えて、彼女に迫るように近づく。



「ちょ、ちょっと、きゃっ!」



 よけようとした彼女の上半身が床に倒れて、まとまりのいい髪が散らばる。覆い被さるように彼女の顔の横に手をつくと、観念したように僕の目を見つめてきた。



「ちょっとは気にしてくれてるかなって思ったの。そしたら、自分の絵が破られてるんだもん。悲しいに決まってるでしょ」


「悲しかった?」


「悲しくなかったら、こんなことしない」


「そんな遠回しなことしなくても、僕はいつでも美術室にいたのに」


「だって……!」



 大きな声を出した花宮さんが、聞こえるか聞こえないかくらいの音量で続きを漏らした。



「嫌われちゃったかと思って、行けなかったの」



 なんだそれ。なんだそれは。そんな言い方、まるで僕に嫌われたくなかったみたいじゃないか。



「返して貰えるかな、可愛い口が足りないんだ」



 こんな体勢でいるのに核心に触れる勇気はなくて、そう言うのが精一杯だった。

 僕の言葉を聞いた花宮さんがいたずらっ子のような笑みを浮かべる。



「ねえ、手を使っちゃダメだよ」


「えっ?」



 そう言うと、花宮さんはポケットから出した最後の絵の破片に絵の具を塗りたくった。僕が止める間もなく、彼女はそれを口にふくんでしまう。



「た、食べんなっ」


「とってひょ」



 僕の唇を指でなぞった彼女が唇を薄く開く。


 手を使うなと言うのは、そういう意味か。


 絵の具を美味しいと感じるのは、この学校、いや、この市内を見ても花宮さんくらいだろう。一度舐めたことのある絵の具の味を思い出すと口が渇く。



「どういうつもりか、後で聞かせて貰うからね」



 そう言ってから、覚悟を決める。


 彼女の頬に手を添えて、ゆっくり体を落とす。花宮さんのことだ、口の奥に隠してしまうに決まっている。長期戦を見越して触れやすい体制になって、彼女の唇に触れた。


 柔らかい感触と甘い香りを楽しむ間もなく、絵の具の苦みとも酸味ともとれない味が舌の表面に触れた。



「んっ……」



 くぐもった声を出した花宮さんの舌が絵を渡すまいと小さな口の中で逃げ回る。


 あたたかいだとか、気持ちいいだとか、そんなことを考えられないような味にえずきそうになりながらも、彼女の舌を追いかける。唾液とも絵の具ともわからない液体が口の周りまで濡らしている。紙片を舌で掬って口を離すと、花宮さんは浅い呼吸を繰り返していた。


 ふやけた紙を吐き出して、青い色をした唇に再度口付けた。



「ねえ、帰ってきてよ。皿なら僕で間に合ってるでしょ」



 彼女の唇を親指で拭って、返事を聞く前に口の中に押し込んだ。


 涙目で笑った彼女が小さくうなずいたのは僕の見間違いではないはずだ。

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