花宮さんの秘密
お上品に目を細めて談笑する花宮さんを見て、集まっていた男子グループがため息を吐いた。おしとやかで可憐、大きい瞳に小さい唇、鼻筋の通った顔はその辺のアイドルや女優でさえかすむようだと言われている。
もっとも、僕は芸能関係に疎いので本当にその人たちよりも花宮さんが可愛いのかどうかはわからない。可愛いから、という理由で彼女を見たこともない。
「その席……」
僕の席のあるあたりに集まっている男子グループに声をかけるが、彼らはチラリと僕を見てから視線を花宮さんに戻した。
「僕の席なんだけど」
聞こえているのに無視をするというのはずいぶん性根が悪い。続けてもう少し大きな声でそう言ったが、今度は誰もこちらを見なかった。
僕が今まで花宮さんを好きになれなかった理由はここにある。
花宮さんを鑑賞しやすいという理由で、僕の席は新学期早々男子のたまるスペースになった。席を替わってくれと言う人がいないのは、抜けがけ禁止のルールなんかがあるからかもしれない。
チャイムがなって、教室に入ってきた担任が金切り声をあげると渋々といった様子で解散していく。
「あ、羽虫くんいたんだ」
わざとらしく僕の肩にぶつかったリーダー格の男がそう言って席に戻っていった。虫の鳴くような声で話す丸眼鏡の男に対して羽虫というあだ名を付けた人は、きっとセンスがいい。
席に座ってから視線を感じて顔を上げると、花宮さんがこちらを向いていた。どきりと高鳴る心臓を押さえつけて、絡まった視線をほどく。
簡単な連絡事項を話した担任が教室を出て行って、男子たちは再び僕の席の周りに集まり始める。花宮さんが教室から出て行くとき以外、休み時間のたびに毎回こうだ。
いっそのこと、誰か特定の人間と付き合ってくれたらいいのに。それか、みんなが幻滅してしまうような大きな秘密があればいい。ずっと、そう思っていた。
そんな僕の学校生活において、唯一の癒やしは放課後だった。
誰もいない美術室に入って、スケッチブックを開く。高校生になったら、美術部に入るつもりだった。けれども、現実は甘くない。部活に入ることが義務づけられているこの高校では、人気のない美術部はヤンキーたちに目を付けられていた。入部したところで、実際の部員は僕だけ。名前ばかりの顧問の先生は僕に美術室の合鍵を渡して、あとは職員室にこもりっぱなしだ。
「あれ、菅谷くんもう来てたんだ」
誰も来ないはずの美術室の扉ががらりと開く。
「花宮さん……」
不満そうに頬を膨らませた顔を覗かせたのは、僕の平凡な高校生活を脅かしている彼女だった。
「今日も席とられてたね」
「誰のせいだと……」
「はっきり言えない自分のせいでしょ」
つんと澄ました花宮さんが眉を寄せてそう言う。あたしのせいにしないでちょうだい、とでも言いたげな表情だ。
「席替えしたいよ」
「そしたら隣になっちゃうかも」
「それはごめんだね」
「あ、ひどーい」
みんなが言う花宮さんの良いところというのはわからない。顔が可愛いというのは好みの問題だし、お上品だというのは表向きの彼女だ。けれども、こうしてコロコロと表情を変えるところは魅力的だと思う。
「それで、何の用?」
花宮さんの用事がわかっていながら、興味がないふりをしてそう尋ねる。
「本当にわかんない?」
「なんでわざわざそんな……」
「だって、スリルがある方が美味しいんだもの」
そう言った花宮さんが僕の手を引いて美術室から出る。
みんなが求めている花宮さんの手はやたらと冷たい。これを知っている男子生徒はきっと僕だけなのだろうと思うと、意図せず口角が上がってしまった。
「なににやけてんの」
廊下を歩いた先の行き止まりにある扉の前で花宮さんが振り返る。
「すけべなんだから」
「違うよ、別のこと考えてた」
「あたしのこと考えてないわけ?」
花宮さんがおしとやかで可憐だなんて言うのは、真っ赤な嘘だ。
「花宮さんのことだけど、別のこと」
「はあ?」
実際の彼女は、すぐに不機嫌になるしわがままだし、意外とがさつだ。
美術準備室の扉を開いた花宮さんが僕を招き入れて内側から鍵を閉める。
床に座った花宮さんが、近くに置いてあった絵の具を持って僕を手招きした。
「手、だして」
「今日は何色がご所望ですか、お姫様」
「馬鹿にしてんの?」
「とんでもない」
彼女の正面に座って手のひらを差し出す。これから始まる行為の背徳感に潰されないように少しふざけてみせると、彼女はわかりやすく不快感を露わにした。
手のひらに、黄色い絵の具が遠慮なく押し出される。
「いただきます」
僕の指先に彼女の小さな唇が軽く触れる。このキスは、彼女なりの礼儀だ。
少しだけ出された舌先が中指を這って、手のひらの中央部に到達する。くすぐったさに漏れそうになる声を抑えて、僕の手を賢明に舐める花宮さんを見下ろす。
空いた手で頭を撫でると、一瞬だけ動きを止めてすぐに食事を再開した。
「美味しい?」
「おいひい……」
花宮さんは絵の具を食べる。もっと正確に言うのであれば、絵の具しか食べることができない。
彼女の秘密を僕が知ったのは、もうずいぶん前のことになる。
美術部の活動中にこの学校にある他の画材が気になって訪れた美術準備室に花宮さんはいた。あのクラスのアイドル的存在が顔を汚してまで絵の具にむしゃぶりついている姿はひどく非現実的で、すごい力で引き倒されて頭を床にぶつけるまでは夢を見ているのかと思った。
僕の上にまたがった花宮さんの泣きそうな表情を思い出すと、今でも心臓が大きく音を立てる。
「ちょ、ちょっと……」
結局、いつも我慢できなくなるのは僕の方だ。
花宮さんの肩を押してゆっくり押し倒しながら、反対の手についた絵の具を彼女の口に押し込む。
茶色い床に、薄いピンクのカーディガンがよく映えている。
最初は苦しそうな表情をする彼女だが、勝ち誇ったように僕の顔を見ながら美味しそうに舐め始めた。
彼女の食事と僕らの食事というのは、根本的に違うのかもしれない。絵の具を前にするととろけた顔をする花宮さんは、そんな表情をしながらも僕を煽るのを忘れない。
しばらくそうしていて満足したのか、にっこりと笑った彼女が手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
顔についた絵の具を拭き取ってやると彼女が満足そうにのびをする。
「じゃ、また今度ね」
美術準備室を出て行く彼女を見送って、手を洗うために美術室に戻った。
僕は彼女の皿だ。たまたま秘密を知ったのが僕だっただけ。僕が誰かに言いふらさないように共犯者にされているだけ。
わかっていながらも、熱くなる頬をおさえることはできない。
「はあ、クソ……」
他の人みたいに、見た目で彼女を好きになったわけじゃない。
指に残った絵の具を舐めると、人が食べてはいけない味がした。
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