第3話 幸村

『真田……源次郎よ。それがしの名を継いだ者よ』

其方そなたは誠に、某のような人生で満ち足りるのだろうか?』

『確かに、某は死した時畏れ多くも兄者や謙信公に惜しまれ、今でさえ讃えてもろうておる。武士として、これ程の名誉があろうか』

『だが、それだけだ』

『其方は、某など比べ物にならぬ喝采を浴びるに値する才と勇を持っておる』

『故に、某の名を継いだが為に、単に兄者の慈悲で取り立てられた某程度の武勇で打ち止めとなる事は誠に遺憾である』

『本日をもって、信繁の名は捨てよ』

『代わりに其方の父、昌幸より一字拝領すると良い。幸、の通字が良いか』

『なに、もう一字は、其方の友が自ずと指し示すであろう。其方は何も恐れる事は無い。其方の運命は、既に決しておるのだからな――』


「――しげ……どの……。信繁のぶしげ殿!」

「? ……はい!!?」

 心配そうに顔を覗き込む団右衛門だんえもんに叩き起され目覚めると、広間には既に豊臣家家臣や諸牢人、それどころか秀頼や淀君、その近習まで集結していた。

 淀君の隣に控える老女が、寝惚け顔の信繁に畳を叩いて食ってかかる。

「秀頼様の御面前で居眠りとは、如何いかなる事ですか!」

「も、申し訳ございませぬ!」

 顔を真っ赤にして平伏する信繁を前に、牢人達の中からせせら笑いが聞こえてくる。淀君と治長はるながは笑い声が聞こえた方を睨み付け、老女を宥(なだ)める。

「落ち着きなさい。信繁が、普段は主の前で居眠りをしでかすような者でない事は其方もよく知っておるでしょう? きっと疲れておるのです。一度くらいは大目に見ましょう」

「まあまあ母上。信繁殿は我々の中で一番乗りで広間に控えておられたのです。お疲れになるのも当然の事」

「う……、確かにそうではありますね……。えへん、それでは、今日は大目に見ましょう。しかし、今後この様な無礼は無いように」

 老女は小さく溜め息を吐くと、その場に座り直した。

(治長殿の母君……という事は、大蔵卿局おおくらきょうのつぼねだろうか。確か淀君の乳母だったような……)

 信繁は老女のしかめ面をちらりと見て、頭を下げた。

「おいおい信繁。お前大丈夫か? 居眠りにしては様子がおかしかったよな?」

「一度薬師くすしに診てもらった方が良いのでは?」

「確かに、うつらうつらして眠るというよりは、失神しておるようでしたな」

「熱はございませぬか? ……良かった。無さそうです」

 又兵衛またべえ勝永かつなが盛親もりちか全登てるずみまでが信繁の弁護に入る。大坂城内の実力者達相手にはさすがに勝ち目が無いと思ったのか、信繁を笑っていた牢人達は、ばつが悪そうに顔を見合わせた。団右衛門が、ほっとした面持ちで定位置に座り直す。

「……では、本題に入りましょう。今回集まって戴いたのは、皆様も御承知の通り、皆様の指揮役を決定する為でございます。指揮役は五人とする予定で、我々豊臣家中ではその五人を予め推薦しております」

 牢人達は色めき立ち、俺が俺がと仲間を押し退けて手を挙げる。よく見れば団右衛門の目も爛々と輝いている。

「うるせえ! こっちで推薦してるって言ってんだろうが!」

 治房はるふさに一喝され静まる牢人を見渡し、治長が議事録らしき書物を広げる。

「ではまずお一人目。後藤又兵衛基次もとつぐ殿。牢人衆の中でも指折りの歴戦の勇士であり、その経験に裏付けられた戦略は最早神がかりに近い物がある。異論のある者はおりませぬか?」

 牢人衆も、又兵衛自身も深く頷いている。

「ではお二人目。長宗我部ちょうそかべ土佐守とさのかみ|盛親殿。かつて一国を治められた大名であり、この度は牢人衆の中でも最も多くの兵を率いて参戦して戴きました。異論のある者はおりませぬか?」

 盛親は辺りを見回し、大きな体を小さく縮こませて一礼した。

「では三人目。毛利豊前守ぶぜんのかみ|勝永殿。父君の代より豊臣家に仕えておられ、そのお人柄は皆様御存知の通り。異論のある者はおりませぬか?」

 静まり返る中、勝永は深々と頭を垂れる。

「では四人目。明石掃部かもん全登殿。関ヶ原の戦の前に仕えておられた宇喜多家にて、混乱する家中を見事に纏められた手腕は御承知の通り。また、この豊臣家でも、皆様を招集すべく西へ東へと走って戴き、既に多大な貢献をなされております。異論のある者はおりませぬか?」

 牢人達も皆一様に頷く。

「そして五人目……」

 牢人衆が、固唾を呑んで耳を澄ませる。

「……真田左衛門佐さえもんのすけ信繁殿。父君は表裏比興と呼ばれた真田昌幸まさゆき公。太閤殿下のお傍で仕えられた経験を持ち、上田では既に徳川家を翻弄し大勝利を収められました。異論のある者はおりませぬか?」

「えっ!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、誰あろう信繁だった。

「わ、わ、私でございますか!!?」

「先程申し上げた通り、後藤殿、長宗我部殿、毛利殿、明石殿、そして真田殿に牢人衆の指揮を執って戴きたく」

 牢人衆の視線が、一斉に信繁に突き刺さる。

「私は城に来てまだ日が浅く……」

「日が浅かろうが何であろうが、才ある者を取り立てる事の何が悪いのでしょうか」

 牢人衆からの不満を抑える為だろうか。治長の語気は荒い。

 そんな中、勝永がおもむろに手を鳴らすと、ふふ、と小さく笑う。

「まあまあ皆様。我々が指揮役になったとはいえ、それはあくまで戦略上の事。皆様に服従を強いる事も無ければ、手柄を分捕る事もございませんよ。ですので、皆してそんな怖い顔をなさらないで下さい。むしろ信繁殿の戦才は折り紙付きなのですから、この大坂城に来て下さったのは好機というもの。戦術は信繁殿にお任せして、皆様は手柄を獲る事に専念すれば良いのです。悪い話ではないのでは?」

「まあ、そう言われれば確かに……」

 身を乗り出していた牢人衆は、少し目をきょろきょろさせながら居住まいを正した。

 そんな中、信繁は未だ居心地悪そうに首を竦めている。

 と、

「それでは信繁殿、これからもよろしくお願い致します」

 全登が穏やかに微笑み会釈してきた。

「わ、私が指揮を執って本当に良いのでしょうか……。又兵衛殿や勝永殿のような武勲も無く、信繁殿のような戦略も立てられず、全登殿のような家中を取りまとめる手腕も無いというのに……」

「大丈夫でしょう盛親殿は。家を改易されて十五年も経って、それでもなお千人以上の家臣がついて来る主など、そうそういないでしょう。我等五人が、皆様が力を合わせれば無敵でしょう」

「そういうこった。そんじゃあ、軍議は気張らねえとな」

 それに続いて盛親、勝永、又兵衛が、信繁や全登をも巻き込んで肩を抱き合い子供のようにはしゃぐ。信繁も最初こそおろおろして振り回されるがままだったが、四人の満面の笑みを見ていると自然と頬が緩んだ。

「えー……おほん。親睦はお部屋で深めて下さいますよう。本日は軍議はお休みですが故。では、今回はこれでお開きと致します」

 牢人達の喧騒に、治長の片眉がぴくりと動く。

「ああそうそう。城内城下問わず、大坂の秩序を乱すような行為はなさいませぬようお願い致します。くれぐれも! 私闘、あるいは特定の者に乱暴を仕掛けるような事はなさいませぬよう! 了承戴けますね!?」

 首を竦め縮こまる牢人達を他所に、指導者となった五人、そして何故か団右衛門と重成(しげなり)は、和気|藹々(あいあい)と広間を後にした。


「しかし、私が指揮役に選ばれるとは思いもよりませなんだ……」

「盛親殿はもう少し自信を持ちましょうよ。一杯いかがです?」

「それでは戴きましょうか。又兵衛殿もどうぞ」

「いやぁすまん。俺はあまりお酒は呑まねえんだ。乾杯くらいでいいや」

「そういえばそうでしたね。他の黒田家臣は皆浴びるように呑むというのに」

「あいつらが異常なんだよ。てかお前俺の前で黒田の話すんじゃねえよ」

「分かりますぞ又兵衛殿!! いくらかつて世話になった主君とはいえ、仲を違えた後は主君への礼賛も聞きたくなければ罵倒を聞くのも心苦しいというものですぞ!!」

「私としては黒田家時代の又兵衛殿の武勲も聞いてみたいと思っていたのですが……」

「いや、この人、私の前では思いっきり黒田家の事褒めちぎっていましたからね!? あ、信繁殿も一杯いかがですか?」

「では有難く戴きます」

 広間から退場した信繁達七人は、くりやでたむろして昼間から小さい酒宴を開いていた。

「あ、この機会ですし身の上話でもしますか?ではまず私は山内殿との組んずほぐれつの蜜月の話から」

「勝永お前鬼かよ。長さんに身の上話なんてさせたらひたすら落ち込む羽目になるぞ。てか真っ昼間からそんな猥談すんじゃねえよ」

「わ、私は別に話してもよろしいですが……」

「いや皆が落ち込むのでやめて下さい」

「……明石殿って、結構辛辣ですよね」

 苦笑しながらも、ふと、先程の夢の事を思い出した。

「勝永殿の蜜月……そ、それはしゅ、衆道でございますか……!?」

「あえて私は何も言いませんぞ!!」

「団右衛門丸聞こえだよお前」

「おや重成殿、耳まで真っ赤になって。衆道の話は初めてですか? 土佐では割と普通でございますよ、ね? 盛親殿」

「えっ……」

「勝永殿、盛親殿も巻き添えにして重成殿をからかうのはやめて下さいね」

「あ、あの……私から一つ」

 信繁は、重成を弄り倒して騒いでいる六人におずおずと割って入った。

「お、どうした信繁。何だ?」

「実は私事ではございますが相談がありまして、……実は徳川との戦の前に、名を変えたいと思うておりまして、是非案を戴ければと思いまして……」

「知らね。そんなもん手前てめえで考えな」

「冷たすぎやしませんかな又兵衛殿!?」

 信繁にすっかりそっぽを向いてごろりと寝転がる又兵衛の背中に、団右衛門が抗議する。

「しかし、いきなり改名なんてどうされたんですか? かく言う私も、勝永と名乗るようになったのは最近なんですけどね」

「実はですね……」

 信繁は、先程の夢の一部始終を話す。

 すると、今までそっぽを向いていた又兵衛が、体を半回転させて一同に向き直った。

「紺地の母衣ほろを着けた赤備えの武将だぁ? 何だそりゃあ。かの武田信繁公かよ」

「……かもしれませぬ。確かに私に向かい『某の名を継いだ者』と仰せになっていましたので」

「一字は『幸』を、という事ですね」

「そして、もう一字は友が指し示す、と……ほほぅ……」

 あからさまに信繁をちらちら見てにやにやする全登に、又兵衛は怪訝な顔をする。

「急ににやにやしてどうしたんだお前?」

「…………又兵衛殿って本当に感情の機微に疎いですよね……」

 脱力する全登を、まあまあ、と重成が宥める。

「『幸』の字は決まっているようなものとはいえ、残る一字をどうするか、ですよね」

「縁起の良い字がいいでしょうか。あ、でも『幸』自体縁起が良いですね」

「あるいは、秀頼公から一字拝領するのもいいかもしれませぬな。重成殿に掛け合って戴きましょうか?」

「いっそ洗礼名をつけましょうか? そうですね、ミゲルとか如何でしょう」

「さらっと耶蘇やそ教に勧誘してんじゃねえよ」

 又兵衛は大きく溜め息を吐くと、頭をぼりぼり掻く。

「縁起が良い字だろ? なら、家康を怖がらせたって噂の大名から勝手に拝借してもいいんじゃねえか?」

 団右衛門が膝を打つ。

「それは名案ですな! ところで、家康を恐れさせた武将となると、一体誰でしょうな!」

「そこ、なんですよね……」

 勝永が頭を抱える。

「先の関ヶ原での戦で徳川方を震え上がらせた武将と言えば、島左近清興殿、島津義弘殿……。以前の家康に恐れられていたであろう武将は、武田信玄公、織田信長公、次点で今川義元公、あるいは太閤殿下……。意外と多いんですよね……」

「まあ、仮にも天下人となった男ですから、その分強者と相対する事は多かったでしょうからね……」

「清幸、幸清、興幸、幸興、義幸、幸義、弘幸、幸弘、晴幸、幸晴、幸信、信幸……殿はいるな、長幸、幸長、元幸、幸元、秀幸、幸秀、吉幸、幸吉……ううむあまりしっくりこないなぁ……」

「正直な所、同じ名前の人間は数人くらいいそうですね…… 」

 五人が首を捻る中、またしても切り出したのは又兵衛だった。

「なら、『村正』から取るのはどうだ? 家康の祖父と父、両方の暗殺に使われた刀だ。徳川にとっちゃ縁起が悪いだろうが、俺達にとっちゃむしろ縁起が良いだろ? そうだな……幸正はそこら辺にいそうだから、『幸村』、なんてどうだ?」

 信繁の中で、何かが爆ぜる気配がした。

 まるで、運命に出会ったかのような――。

「幸村……! それは名案ですな!」

「又兵衛殿にしては風流な名前ですね」

「うるせえ!」

「流石です又兵衛殿!」

「せっかく受洗してもらおうと思っておりましたのに……」

「幸村! いい響きですな! それでは本日より、幸村殿とお呼びしてよろしいかな!?」

「え? ええ……」

 暫し惚けていた信繁は、団右衛門に肩を叩かれて我に返る。

「では、信繁殿、改め幸村殿の改名を記念し、祝杯を挙げますかな」

「おや、盛親殿がいつになく積極的ですね」

「というか俺達もう飲んでるだろうが」

「既に徳利一個空けたおじさんは黙ってて下さい。……では、幸村殿の改名を祝して!」

「勝永殿! そこは盛親殿が音頭を取るべきでは!?」

 文句を言いながらも、信繁――否、幸村は盃を傾けた。

 

 さて、時は変わり翌朝。

「幸村様……幸村様! ほら幸村様ったら!!」

「ん……」

 お竹に肩をつつかれて目が覚める。

「もう! 幸村様ったらいくらお呼びしても全然起きないんですから!」

「幸村……」

「もうお忘れになりましたか! 昨晩はあれ程『私は信繁という名前は捨てた。これからは幸村と呼んで欲しい』と仰せられていたというのに!」

「……ああ」

 まだ改名が昨日の今日だからだろうか。お竹に幸村と呼ばれるのは少し不思議な気分だ。

 ――あるいは、これより徳川を滅ぼす刃と化し、自らの死をもって喝采を受けんとするための名を、妻に呼んで欲しくは無いのか。

「いかがなさいましたか? 大坂へ来て以来、どこか虚ろでございますよ?」

 夫の寝間着を剥ぎ取り着々と着替えを手伝いつつも顔を覗き込むお竹と、目が合う。

「……ああ。すまないね。最近考え事をする事が増えてね」

「んもう……。ひとまず本日は、軍議の前に改名の報告、でございますよ」

「そうだな。忘れぬようにしなければな」

 冷水を顔にはたき、寝惚けた頭を叩き起こす。

「では行って参りませ、幸村様!」

 妻に背中を押され、幸村は大坂城を見上げる。

「ああ。行ってくるよ」

 朝の光が、その姿を赤く彩っていた。

 

 軍議の前、「真田殿より、個人的な報告がある」と重成に聞かされていた豊臣家中や諸牢人達は、朝から些か落ち着きが無かった。

 もしや離反だろうか、否それは有り得ぬなど、様々な憶測が飛び交う中、又兵衛、全登、盛親、勝永、団右衛門、重成の6人は、主役の登場を欠伸をしつつ待っていた。

「失礼致す。只今到着致しました」

 金箔に彩られた襖が開き、真紅の陣羽織を羽織った影が見える。

「おい! こっちだこっち!」

 手招きする又兵衛に静かに微笑みかける男は、よく見知った顔でありながら別人のような空気を纏っていた。

 まるで、紅蓮の炎を纏ったかのような。

 あるいは、修羅が乗り移ったかのような――。

「報告ってのはこいつの改名の事だ。そら、手短に済ませるぞ」

 男は静かに腰を下ろし、秀頼に向かい深々と平伏した。

「私事ではございますが、本日より、真田左衛門佐信繁改め、真田左衛門佐幸村と名を改めた次第でございまする」

 

 この日、戦国の世の最後を飾る伝説が、静かに幕を開けた。

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