第46話 狂気

「常磐さん! 常磐さんッ!」

 優紀が呼びかけても、紅色の繭から返事はない。それどころか、秒を重ねるごとに繭は膨らんでいく一方だ。

 隣で、倉林が膝を折る。

「どうしよう……私のせいだわ……!」

「倉林さんも常磐さんに呼びかけてください! 止めないといけないんです!」

「永和ちゃん……! 永和ちゃんッ!」

 二人の呼びかけもむなしく、高さ二メートルを優に超えた繭から、永和が孵化した。

 その姿は、とても一言では表現できない。

「常磐……さん……なの……?」

 神と悪魔の悪ふざけでも、こんなデタラメな生き物は生まれまい。ランダムに様々な動物の部位を選んで無作為に繋ぎ合わせたような、おかしな見た目。

 辛うじて上半身だけが永和の面影を保っているものの、着ていた服が破けるくらいには全身がおかしくなっている。

 特に恐ろしいのは、全長の三分の二が異形と化した下半身だ。高さにしておよそ一六〇センチ。この時点で、以前の永和の背丈を超えている。

 腰から下は彼女の脚がなくなっていて、犬、馬、ネズミ、猫、牛、ゾウ、タヌキ……多様な動物の尾のようなものが何十本も伸び、タコのように地面に広がっていた。実際の長さは二メートル以上あるはずだ。

 倉林はつい目を覆ってしまう。

「あああああ……ッ! 永和ちゃんがぁ……!」

 見上げる上半身。アゲハ蝶のように広がる背中の翼は六枚に増え、一枚一枚が掛け布団にできそうなくらいの羽を蓄えている。

 背中から脇腹にかけて柴犬のような明るい茶色の体毛が生えていた。胴体における人肌は、綺麗なへその周囲とささやかに膨らんだ胸周りしか残っていない。

 黒猫の尻尾が腰の後ろから三本ほど伸びており、胴体に巻きついている。その一部と、肩からぶら下がる下着の切れ端が、辛うじて永和の女子としての尊厳を守っていた。

 首から肩にかけては、スズメを彷彿とさせる柔らかそうな毛が覆っている。

 腕は綺麗な肌色と細さを保っていたが、手の甲からは鳥の嘴のような棘が突き出る。指の一本一本も嘴のようにぱっくりと割れて鋭く尖っており、パクパクと開いて閉じてを繰り返していた。

 顔立ちは、特に永和の面影が色濃く残る。胡乱げな瞳が虚空を撫でた先、優紀を捕まえると、爛爛と瞳孔を開く。

 前より艶やかな唇を動かして、小鳥のさえずるような甲高い声で、嬌声をあげた。

「きゃははっ! 田中君だー!」

 左右の小さな耳は少し尖り、嬉しそうにぴくぴくと動く。額から二本伸びている角は、トナカイのように立派な枝分かれを重ねていた。角の一部が頭部を護るように円環上に巡っており、ところどころに目立つ棘は王冠のような雰囲気すら称えていた。

「と、きわ……さん?」

 それにしても、声色がかつてないほどにハイテンション。

「うふふ! そーだよー。ごめんねっ! こんなことに巻き込んじゃって!」

 元気いっぱいに、反省していないかのような謝罪の言葉。

 見た目どころか、性格までおかしくなっているというのか。

「う、ううん……それは、いいんだけど……。本当に、僕の知ってる……常磐さん、なんだよね?」

「うんっ! なんならおっぱい触ってみるー? なんちゃって」

 音を立てて優紀のあごが外れた。いつもの永和なら、死んでもそんな発言はしない。

 彼女の心が壊れている……しかし会話ができるなら。

「あの……心臓のサイコストーン、壊れちゃったんだよね……?」

「うんっ」

 倉林との戦いにおいて、優紀の覚醒は十秒と持たなかった。しかし永和は、もう十秒以上、その姿を保ったままだ。

「生きているなら……ほっとしたよ」

 安堵した声を出す優紀に戸惑ったのは、永和以上に、倉林だった。

「ほ、ほっとしたって……田中君?」

 優紀は微笑を浮かべ、指を立てていく。

「今後の課題は、とりあえず二つですかね。常磐さんの壊れた性格……というか、心をどうやって元に戻すか。同様に、異形と化した身体をどうやって元に戻すか」

「え……え? 気持ちの切り替え、早すぎない……?」

 倉林の優紀を見る目は、覚醒した永和を見る時と同じ……いや、それ以上に恐怖に満ちた色をしていた。

「生きているなら、ちゃんと考えてちゃんと動けば、助けられます。なにも戸惑うことはないでしょう?」

 心の底から信じている。このわずか数日間の超常な出来事の連続が、優紀にそう信じ込ませていた。

 この回答に倉林は絶句したが、今度は永和が黙っていなかった。

「あーもーう! どうして嫌ってくれないのかなー」

「え?」

「こんなに気持ち悪い見た目になったんだよーっ!? なんでまだ、私を見放してくれないの!?」

 咄嗟に「見放されたかったの?」と尋ね返すところだったのを、優紀は飲み込む。

「僕は常磐さんを助けたいんだ」

「おねがーい。諦めて?」

「嫌だよ」

 即答した。

「常磐さんは僕を救ってくれたんだ。いつだったっけ、黒歴史の話をしたの。はじめて僕が両親の離婚について打ち明けた時のこと、憶えているよね?」

 永和はぶんぶんと首を横に振るばかり。

「去年の秋くらいだったかな……」

「今年の春だよぉ!」

 涙が一粒、永和の瞳から飛んだ。心はダメになってしまっても、大切な思い出は、まだ彼女の中にあるようだ。

「憶えていてくれたんだ」

 つい破顔して、優紀は続ける。

「常磐さんと出会うまでは、ずっと親の離婚が黒歴史だったんだ。毎日どうしようもなく気にして、いじけて、コンプレックスだった。でも、常磐さんと一緒にいる時間が楽しかったから、どうでもよくなったんだ。だから、常磐さんは、僕を救ってくれた大切な恩人なんだよ。だから今度は、僕が常磐さんを助ける番だ」

 倉林が驚いたように優紀を見た。

「じゃあ、それが好きになった理由?」

 優紀は顔を茹で上がらせる。

 さっきまでの堂々とした態度はどこへやら。口ごもりながら答えた。

「……それは……好きになった理由は、そんなんじゃなくて……。その、一目見た時、可愛いなって……つまり、一目惚れです……けど……」

 バチン! 腰から伸びる縞模様の、おそらくはタヌキの尻尾が異形化したであろう足の一本が、大地にひびを入れる。

「もうやめて、やめてやめてやめてぇー! そんなこと聞きたくない!」

 気持ち悪く生えそろった尻尾たちが、バンバンと地面を叩く。地面が割れていく。

 まるで子供が駄々をこねているようだった。破壊力は、桁違いだが。

「常磐さん……」

 優紀は自分の心に叱咤する。考えろ、彼女を救うためにはどうするべきか。

 だが、タイムリミットはすぐに訪れた。

「見放してよ! 突き飛ばしてよ! いっそ殺してくれたっていい! 私は田中君を人質に取ってお父さんを殺そうとしたんだよ!? 命を助けてくれた恩人なのに、そんなことも知らないで! 惨めで仕方がないんだよ!」

 声がひっくり返っている。いつ永和の心が死んでもおかしくない。

 どうすればいい、今何があって何ができる!?

 優紀が必死に頭を回したほんの一瞬で、永和は不気味な笑顔になった。

「そっか。殺しちゃえばいいんだ」

 背筋をゾワリと殺気が撫でる。

「優紀君を殺せば、嫌うもなにもないもんね」

「永和ちゃんそれは――!」

 倉林が叫んだ刹那、永和の腰から伸びるネズミのような尻尾が唸った。

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