第32話 元実家不法侵入
日付が変わったばかりの東京都。その夜空。
本日は快晴である。もしもこの日、夏の夜空を見上げる者がいれば、そして注意力が深ければ、気づいたかもしれない。雲の高さを移動する、薄紅色の光る飛翔体に。
ツーサイドアップの髪をたなびかせ、両足から竜巻状の風を吹き出し飛行する穂乃花。彼女の左手にぶら下がる優紀は、心臓をバクバクさせながら真夜中の摩天楼を見下ろしていた。
頭上から、穂乃花の声が聞こえてくる。
「えーっと、優紀先輩右側見てください。特に背の高い手前のビル群が都庁周辺でー、その奥にある大きい緑色のエリアが代々木公園でー、左の小さい緑色が新宿御園ですー」
「ぼ、防衛省はー?」
「うーん、こっちですかねー」
穂乃花は降下しながら左にゆるりと旋回。
小さな遠心力で、ぶら下がったままの優紀が揺れる。
「ひぃいぃ!?」
「落としませんから落ち着いてくださいな。……あの小っちゃいのが東京ドーム、となるといき過ぎだから……ちょいと戻って……ありました!」
穂乃花の右手が示す先、ヘリポートを二つ備えた、一際がっしりした建築物が見える。
「ありがとう! そこの道をあっち!」
「はーい」
どんどん高度が下がっていく。そうして優紀の道案内に従うこと、十分もしないくらいで辿り着く住宅街に、優紀と穂乃花は降り立った。
外観は、極めて普通の一軒家である。二階建てで、周囲の家に比べるとベランダが広い四LDK。
「ここが優紀先輩の元ご実家ですか。中々な住宅ではありますが……もうちょっと豪勢なのを想像していました」
「あはは……まあ、とにかく入ろうよ」
優紀はポケットから一つの鍵を取り出すと、堂々と玄関の鍵穴に刺しこむ。
――森で優紀が救出された後、優紀は一度自宅に帰り、いつもと変わらない夜を過ごした。もちろん、その前に作戦会議は終えている。
母が寝静まった後で物色すれば、五年ぶりに見ることになった元実家の鍵をすぐに見つけることができた。
離婚後も合鍵を持っているあたり、母はある程度、龍馬が離婚話を切り出した本当の理由を知っていたとしてもおかしくはないが……そんなことはもう、どうでもいいことである。
「お邪魔しまーす……」
言いながら、つい懐かしい家の香りに鼻が動く。
「いやいや先輩、先輩はただいまでいいと思いますよ? ただいまですー」
「いやいや穂乃花ちゃん、穂乃花ちゃんはお邪魔しますでしょ」
流れるようにツッコミを返して、いよいよSET色に染まってしまったと自覚した。
玄関に並ぶ二足のスリッパ。青い男物とオレンジの女物が一足ずつだから、龍馬と美空のものだろう。見覚えのない柄であることから、この五年の間に買い替えたのだと思われる。
優紀は自然に靴箱を開き、穂乃花の分のスリッパを出そうとして、手を止めた。
「すみませんお気を遣わせてしまって~――って、なぜ盗人にスリッパ出すんですか!」
「…………」
「……人が珍しくノリツッコミをしたので、できればなにか言ってほしいんですけど」
来客用スリッパのデザインは変わっていなかったが、それとは別に緑色の男物スリッパと、赤色の女物スリッパがある。デザインは玄関に並ぶ龍馬や美空のものと同じだ。
緑は優紀用、赤は母用なのだろう。
わざわざ帰ってくるはずのない二人分を新調したのは、美空だろう。少なくとも龍馬はそんな可愛いことをする性格ではなかったはずだ、と数少ない父との思い出を振り返りながら優紀は感傷に浸る。
「優紀先輩……無視ですか?」
「ああ、ごめん。早く済ませないとね」
どこか不機嫌そうな穂乃花に呼びかけられ、優紀はここへ来た目的を強く意識した。
目的は二つある。
「それじゃあ、作戦通りに行こう。僕は父さんをどうにかするから、穂乃花ちゃんはパソコンデータの押収をお願い」
「なに言ってるんですか優紀先輩、スリッパが玄関に二人分あるんですよ?」
「あ、そっか。姉さんはもちろん、父さんもいないってことか」
「もう。しっかりしてください。昨晩、誰より非人道的かつえげつない作戦を立案しちゃった優紀先輩はどこへ行ったんですか」
「あーあははー……。ホントどこ行ったんだろーねー」
照れるように頭の後ろをかく優紀に、穂乃花がジト目を向けた。
「…………。一応言っておきますけど、褒めてないですからね?」
気を取り直して、優紀は瞑目する。……そうなると、龍馬はどこにいるのだろうか。思いつく場所は一つ。旧辻見堂医院だろう。
一応家の中を確認し、誰もいないことを確かめた二人は書斎へ向かう。
優紀は龍馬のパソコンを立ち上げて、キャスターつきの高そうなチェアを穂乃花に譲った。
「さすがの僕も、パスワードはわからないよ?」
「ふふっ。お任せくださいな。そのあたりはわたしの十八番です」
穂乃花は得意げにUSBメモリを取り出し、ポートに刺しこむ。
「御開帳~。さてさて、非公然部隊の管理職さんの秘密、丸裸にしちゃいますよ~」
鼻歌まじりに楽々トップ画面を開く穂乃花。まるでおもちゃで遊んでいるかのような気楽さに、優紀は感心より呆れが先に出てしまう。
余裕があるのか、穂乃花が話しかけてきた。
「どうです? 五年ぶりのご実家は」
答えに迷う。ダイニングテーブルや冷蔵庫は記憶の通りだったが、電子レンジやテレビは、記憶のそれとは違っていたのだ。
それでも、スポーツ雑誌やぬいぐるみなど、龍馬や美空の面影を強く感じさせるものばかり。当然だ。今この家は、その二人で暮らしているのだから。
今現在、母と二人で暮らしている家に足りないものが、すべて揃っている。
「……そうだね。すごく、久しぶりな感じがする」
特に、ぽっかりと空虚になった優紀の部屋と母の部屋。
物置にされているものだとばかり思っていたが、引っ越しの際に持ち出したもの以外はすべてそのままにされていた。
しかも、丁寧に掃除されたばかりのようで、塵も埃もまったくない。
「また、四人家族に戻りたいな……」
つい気持ちが口に出てしまった。
穂乃花は優しく微笑んで、カチ、カチ、とマウスを動かす。
ディスプレイに時間のかかりそうなローディング画面を表示させると、穂乃花は眼鏡越しに穏やかな瞳で優紀を見た。
「なら、守らないとですね」
「父さんを?」
現在進行形で汚職の証拠を掴もうとしているのに、と優紀が肩を竦めるも、穂乃花の表情は変わらない。
「お父さん『も』です。お姉さんも、お母さんも、もちろん優紀先輩自身も。……生きていれば、どうにかなるんですから」
普段より二割増しで優しい声音は、優紀の脳の奥底まで届く。
思い返すのは、マリヤの過去を聞いた時のこと。同じ年に、将と穂乃花も文雄に目をつけられるような事態になっていたという話。
「穂乃花ちゃん……。ありがとう」
優紀の中の闘志が膨れ上がる。なんとしても、永和とSACTの争いを止めるのだ。
「いえ」
穂乃花が再びディスプレイに視線を戻すと同時、データのコピーが完了した。
慣れた手つきでUSBメモリを回収し、元の通りにパソコンを戻すと、穂乃花はウインクをしてみせる。
「さ、明日に――いえ。今日に備えて早く帰りましょう」
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