第10話 目覚め/将と穂乃花

「兄貴のばーか。ばかばかばーか。なに熱くなってんのばか兄貴」

「チッ……言ってろ」

 開けっ放しになった荷室の中、穂乃花と二人きりになった将は、バツが悪すぎて顔を上げられなかった。

 マリヤがいる時の穂乃花は猫を被っているが、本性を知っている将や文雄しかそばにいないと、彼女は途端に口が悪くなる。

「兄貴、もしかしてまだあの事件ひきずってんの? いい加減吹っ切れてよ」

「うるせぇ。黙ってろアホ妹」

「言ってろっつったり黙ってろっつったりなんなの兄貴。ばかなの?」

「だーもうなんなんだよばかばか言いやがってやかましい!」

「静かにしたら兄貴潰れるじゃん。ばかだから。勝手に心を重くして自重で潰れるの目に見えてんじゃん。物理的に存在しない心の重さで潰れるとかホントばか」

「お前ホントなんなんだよ……」

 否が応でも思い出す。まだ二年と経っていない、あの夏休み明けの記憶。


 ……――将が中学三年生、穂乃花が中学二年生だった年のこと。

 二人は揃って、屈強な体格の男性教師、岡村から、職員室に呼び出されていた。

 当時将が部長を務めていた野球部が、都大会で優勝。穂乃花は個人的に参加したプログラミングコンテストで文部科学大臣賞を獲得。明日の全校集会で表彰されるので、その段取りのために呼び出されたのだ。

「――というわけで、明日の六時間目は体育館に入ったらすぐ、クラスの列から抜けて、先生たちの列に来てくれ」

 二人が返事するのと同時、職員室の隅、パーテーションで区切られた応接間の方から、女性の金切り声が聞こえる。

「だから何度もお願いしているじゃないですか! うちの息子のひきこもりをなんとかしてくださいッ! もう夏休みも終わっているんですよ!?」

「で、ですから。子供の心はデリケートなんです、まずはお母様も落ち着いて……」

 騒ぎに目を向ける将と穂乃花。二人の視線を遮るように、岡村が立ちふさがった。

「聞かなくていいから。……表彰式当日は、胸を張って堂々としていなさい。すごい結果なんだからな」

 瞬間、パーテーションの向こうから、乱暴に人が立ち上がる音がする。

「――表彰?」

「ちょ、松野さん?」

 応接間から、目の下に大きなクマを作った女性が顔を出した。松野さんっていうんだ、と、岡村の脇から将がその人と目を合わせる。

 瞬間、松野という女性は大きく目を見開いた。

「うちの子が、あんなにも結果がでなくて落ち込んでいるというのに、さぞいい気分でしょうねえ! ええ!?」

「ひっ」

 怯えた穂乃花に罪はない。なのに松野は咎めるような視線を向けて、穂乃花に近づいていく。

「こ、こないで……!」

 完全に怯え切った穂乃花が、岡村を壁にして隠れる。それが、松野を壊すトリガーになった。

「ああああぁぁあぁあぁあぁあああぁあ!」

「ま、松野さん!」

 地団太を踏む女性をなだめるべく、先ほどまで話を聞いていた女性教師が肩を叩く。

 刹那、松野は鞄の中から刃先が赤い包丁を取り出し、女性教師の首を斬りつけた。

「あの子はねぇ! この包丁でねぇ! 自分の手首を切ったのよぉ!?」

 真っ赤な血しぶきが、職員室に点線を描く。

 目の当たりにしてしまった別の女性教師が悲鳴を上げて、職員室が地獄に変わった。

 将と穂乃花の前に立っていた岡村が、取り押さえるべく跳びかかる。松野ともつれ合って倒れ込んだ。ピクリとも動かない両者。

 数秒後、立ち上がったのは松野だった。

 スカートとブラウスに赤い大きな染みをつけて、穂乃花を睨む。

「岡村先生……?」

 穂乃花の瞳孔が震えていた。あの屈強な体育教師が、床に伏せたまま、胸の周りに赤い色をゆっくりと広げているだけ。動かない。

「岡村先生ッ!」「おい警察よべ!」「救急車が先だろ!」「誰か穂坂君たちを!」

 ダン! 松野が足で床を叩き、全員の注目を集める。

 ゆっくりと前傾姿勢を取り、その口角を限界まで引き上げて、穂乃花を見て、駆け出した。

「やめろぉぉぉぉぉおおおおおああああああ!」

 キャスターが五つもついた立派な椅子を振り上げて、将が迎え撃つ。穂乃花しか見えていなかった松野の顔面に、鈍い音を立てて椅子の脚が直撃する。

 松野が倒れた。将が肩で息を吐いた。

「お兄ちゃん逃げよう……!」

「あ、ああ……!」

 しかし松野は立ち上がる。額から血をドバドバ流して、怪しい目つきで、将を睨む。

「おお兄ちゃんっ」

「くっ」

 将は逃げるどころか、なんと松野へ襲いかかった。本能が、このまま逃げたら追いつかれると叫んだのだ。

 松野の動きを止めなければ、生きて帰れない。

 そんな強迫観念に駆られていた。

「はああわあああ!」

 松野も奇声を上げ応戦。再び鈍い衝撃音。もう一度、松野が倒れる。その脇に、ゴトンと椅子が落ちる。

「穂乃花……」

 将が振り返った。穂乃花の口から上がる、小さな悲鳴。

「お、おにい、ちゃ……」

 震える穂乃花の指先は、将の脇腹を指していた。将が顎を引くと、確かに自分の左腹部に、包丁が浅く刺さっている。それからようやく、痛覚が仕事をした。

「うわあぁあ!」

 全身を震わせただけで落ちる包丁。幸いにも傷は浅く、痛みよりパニックが上回る。

 ばたん、と力なく人が倒れる音。将ではなく穂乃花だ。刺された将本人より、兄が刺される光景を目の当たりにした妹の方が、心へのダメージは大きかった。


 教師二名と、犯人が死亡。男子生徒一名が軽傷。この大事件は、事件を耳にした来嶋文雄が早急に手を回したことにより、公的な報道は一切されなかった――……。


 ぶおん! 将は突風に襲われ、ソファから吹っ飛ばされて我に返る。

 起き上がりながら、サイコオーラを纏った穂乃花に睨みを利かせた。

「なにしやがるッ」

「ばか兄貴がばかなことで後悔してるっぽいから目ぇ覚まさせてあげただけじゃん?」

「じゃん? じゃねえよアホ妹。これ見よがしにばかばか言ってくるんじゃねえよ」

「だってホントのことだもん。なにが『引くとこ弁えないと』なの? まさかばか兄貴が刺されてわたしが気絶したこと真に受けて、あの時逃げていればよかったなんて思ってないよね」

 図星を突かれて、立ち上がりかけていた将は動きを止める。

 穂乃花は一瞬でそれを読み取り、盛大にため息を吐いた。

「はあー……そんなこと今まで気にしてたとかホントばかでしょ意味わかんない」

「ああ!?」

 穂乃花はオーラを引っ込めて、髪の毛をいじる。

「別に……生きてたんだから、それでいいじゃん。ばか兄貴のやったことは、間違ってなかったんだよ。死んじゃったら、わたしも気にしていただろうけど……今、こうして生きているなら、わたしはそれでいいんだよ。そういうものでしょ?」

 将は声を失ったまま穂乃花を見つめた。視線を受けて、穂乃花が顔を朱に染める。

「べっつに、カッコよかったなんて思ってないから! むしろ反撃されて悲鳴上げてカッコわる、とは思うけど」

「お前慰める気ある!? ないだろ! 絶対ないだろ! さっきの感動返せ!」

 ギャーギャー騒ぐ兄妹の耳に、文雄が鼻で笑った音声は届かない。

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