第3話 暴獣

 背後から、永和の返事はない。怖くて声も出ないのか。

 それならば仕方がないと、優紀は覚悟を決めて前を見据えた。

 影から出てきたのは……暴獣化した野犬だ。

 全身が黒く、艶やかな体毛をしている。体格は軽自動車並みに大きく、前脚は二本とも後脚より一回り太い。

「バウ! バウバウ! グルルル」

 荒っぽい吠え方で、野犬の怪物は優紀たちを威嚇してくる。

「うそ……!」

 怯えたように、永和が優紀の服を握った。瞬間、森が黄色く瞬く。

 遠く、バチィ、と、弾ける音。見上げれば初夏の青空、穏やかな昼下がりの空模様。

「今、雷落ちた……晴れなのに?」

 すぐに優紀は気持ちを切り替える。天候を気にしている余裕なんてないのだ。

「常磐さん、逃げよう」

「逃げるって、どこへ」

「常磐さんの家へだよ。ここから近いんでしょ?」

 背中で永和を押しつつ、じりじりと後退る優紀。

 野犬はまだ動かない。

「早く!」

 緊張に耐え切れず、優紀が叫ぶ。それが、合図となった。

 野犬が身体を鎮め、一気に土を蹴り上げる。まさに軽自動車の速度で迫ってきて、優紀は咄嗟に身構えた。永和の腕が、優紀の背中をぎゅっと抱きしめる。

 優紀は恐怖に目を閉じた。刹那、鈍い衝撃音。しかし優紀に痛みはない。

「え……!?」

 すぐに開けた目は、異様な光景を網膜に焼きつけた。薄紅色の、半透明な板。それが優紀の目の前に広がっていて、野犬をはねのけていたのである。

 それだけではない。板と同じ薄紅色の光が、優紀の全身にも薄く纏わりついていた。

「な、なんで……」

 優紀の背中から離れる永和。優紀が振り返るも、永和は光っていなかった。優紀の身体の発光も収まっている。

 再び野犬の方を向いた。先ほどの不思議な壁は消えていて、野犬は地面に落ちていたなにかを口に咥えるところ。そして体勢を立て直し、再び優紀めがけて突進してくる。

「くっ」

 今度は、勝手に足が動いた。

「田中君!?」

「こっちだ、バケモノ!」

 茂みの中に飛び込んで、振り返る。野犬は永和の前でブレーキをかけ、優紀を睨みつけていた。

「常磐さん逃げてぇええ!」

「待って田中く――」

 野犬が優紀めがけて飛び込んでくるのと、優紀が叫んで走り出すのがほぼ同時。スピードの差は歴然だ。優紀に稼げる時間などそう長くはないだろう。

 誰より優紀自身がそう思い、それでもがむしゃらに走り続ける。

 命がけ逃走劇の舞台は森。それも、とっくに道らしき道は失った。

 意外にもしばらくの間逃げ続けることができたのは、ひとえに体格差のおかげだ。野犬は小回りが利かないようだった。

 もっとも、優紀の体力が底を尽きれば、そんな利点などすぐ失うわけで。

「うがっ」

 背後から頭突きを喰らい、優紀は大きく撥ね飛ばされる。

 何回転も土の上を転がり、木の根元にぶつかって止まった。

「うう……」

 野犬はまだまだ体力が持ちそうだ。対する優紀は疲労困憊。頭突きを受けた背中が灼熱のような痛みを訴え、三半規管が視界をぐるぐる揺らす。腕や脚は転がった際の擦り傷でところどころヒリヒリしていた。

 それでも上半身を起こし、木の幹に背をもたれる。

「あ」

 ここで、ようやく。致命的な間違いに気がついた。

「僕は馬鹿か……!」

 どうして狂暴化した野犬が一頭だけだと思ったのだろう。あんなにもバケモノの威嚇が聞こえていたというのに。

 今頃、別の暴獣化した動物が永和を襲っていても、なんらおかしくはない。

「なにがこっちだ、だ。なにが逃げて、だ」

 拳を震わせ、地面を叩く。

 それを戦意アリと受け取ったか、野犬は身構えた。

「もういいや」

 すべてがどうでもよくなって、優紀は野犬の化け物へ微笑みを向ける。

 本能が恐怖に涙を流す。全身から汗が噴き出していくのがわかった。身体が必死に生きろと叫ぶ。

 しかし、心は……折れていた。

「せめて、いたぶるのだけはやめてほしいかな」

 優紀の握り拳がほどけたのを見て、野犬は戦意喪失と捉えたようだ。その利口さに感心しつつ、ただ迫りくる野犬を眺め続ける。

 すぐに見上げる形になった。やはり大きい。意外と牙は綺麗だ。白い。

 瞬間、野犬は向かって右を向いた。

 突然どうした、と思うと同時。

 快活な少女の叫び声が、優紀の全身に響き渡る!

「死ぬより前に諦めんなああああああ!」

 刹那、野犬の巨体が左に傾く。右からめり込む、鋭い跳び蹴り。

 輝く金色が視界を流れた。薄く紅色を纏った、長い金髪。

 野犬の身体が左へ蹴り飛ばされていく。優紀の目の前に、危なげなく着地する少女が一人。

 全身に紅色の光を薄く纏ったその人は、金髪をたなびかせて優紀の方を振り向く。

「無事かい? 少年!」

 美少女。アメリカ人だろうか。

 日本人離れした顔立ちと、鮮やかに綺麗な金髪。腰まで伸びた髪はサラサラと背中に流れ、エメラルドグリーンの透き通った瞳がぱちくりとまばたき、

「やあやあ、どうしてこんなところに入ってきちゃったのさ。だいじょぶ?」

 差し出された右手の薬指には、濃い紅色に光る小さな指輪が一つ。その手を半ば無意識のまま掴むと、驚くべき腕力で引き上げられた。

 目の高さがほぼ同じ。優紀の身長は一六九センチなので、女子だと高い方だろう。

 濃紺色のアサルトスーツの上から、分厚いチョッキを身につけている。肩から肘、膝から脛にかけても同様の防護素材を装着。重そうな黒い靴は、傷が目立つが丈夫そうだ。

「うへー、ドロドロだね! 早く帰ってシャワー浴びた方がいいよ、うん!」

 満面の笑顔で流暢な日本語を話す外国人美少女は、にししと笑うと優紀の左側へ回り込む。そして野犬と向かい合い、背中を優紀に向けたまま会話を続けた。

「あたしは、船橋ふなばしマリヤっていうの。君は?」

「田中優紀です……」

「優紀君ね。もう一度聞くけど、ニュースくらいチェックしてるよね? なんでこんなところにいんの? 肝試し?」

「そ、そういうわけじゃ……」

 永和のことを、どういうべきか。即座に浮かんだ「好きな人」が恥ずかしくて、置き換えた。

「友達と――」

「その友達はどんな子? 服装、背丈。詳しく」

「帽子とパーカーと半ズボン、白いポシェットを持っていて、身長は百五十センチくらい――」

 優紀が顎のあたりに手の平をかざすと、マリヤがすかさず質問を繰り出してくる。

「ポシェット? つまり女の子?」

「はい」

「洋服の色、わかる?」

「帽子は深い緑、パーカーは明るめな緑色で――」

「ありがとっ」

 マリヤと名乗った美少女は、野犬への警戒を解くことなく、右耳に手を添えた。

「クイーンからエース」

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