第2話 返事
優紀はそもそも、昔からこの地区にいたわけではない。東京二六区の住宅街、それも防衛省にうんと近いところに自宅を構えていた。
五年前までは宮藤という姓で、厳格な父親と、美人で意地っ張りな姉と、包容力の高い優しい母親の四人で暮らしていたのだ。
しかし五年前。厳密には、四年と半年前。突然、両親が離婚した。
優紀が事態を理解するより先に、あらゆる準備が進み……ようやく母親に「離婚なんてやめてよ」と言えた時にはもう、今の家で母との二人暮らしが始まっていた。
当時、優紀が十二歳になったばかりの、冬のことである。
それから、優紀の日常は学校と図書館に満たされていた。
新しい家にいると、寂しさに耐えられないのだ。
小言を言いながらも世話焼きだった姉がいない。それだけで、今の家は暗くなったように思える。
父親は仕事の都合上、家にいる時間が極めて短かったが、それでも父の面影がたくさん家にあったことは、引っ越してからひどく実感した。写真立て、ゴルフバッグ、スポーツ雑誌。ひとつひとつは些細なものでも、どれも全部、一緒に暮らしてきた証だったのだ。
母親は小学生向けの塾でパートを始めている。二人暮らしになってからというもの、母親からの話題は塾に通う子供たちのことばかりだ。お父さん今日帰ってくるよとか、ママ友と遊びに行ってきたよとか、そういう話題は一切なくなった。
今の家は、寂寥感だけが支配している。それがどうにも居づらくて、学校の宿題があれば図書館で消化し、学校の宿題がなければ図書館で読書する、という習慣がついてしまった。
大雨の日でも欠かさず足を運んでいたのだから、相当なものだろう。事実、倉林という職員が入ったばかりの頃は、館内で迷子になった彼女を案内したこともあるほどだ。
そうして去年。本と静寂に満ちた図書館で。
「あれ、さっきはここにあったんだけどな」
優紀が読もうと思っていた本を見つけられずに困っていたところを。
「これ、ですよね。さっき気にしてたの、見てました」
永和が助けてくれたのだ。
一目惚れである。
「……――それからは、常磐さんも知っている通りだよ」
倉林に頼まれて、優紀は永和と一緒に勉強するようになった。
少しずつ、彼女の魅力に触れていく。
趣味は小物集め。手帳やボールペンなどの文房具を中心に、可愛らしいシールや、アクセサリーなどをコレクションすることにハマっている……とか。
背の低さと童顔のせいで時々子供扱いされてしまうことがコンプレックス……とか。
そういうことを知っていくうちに、自然と、永和に惹かれていたのだ。
「それが、好きになった理由」
つい頭の後ろをかく。
「そう」
短い、抑揚のない相槌。
勇気を込めて永和を見れば、彼女は含羞を堪えるようにさり気なく唇を噛んでいた。
「……そっか」
永和の瞳が少し揺れて、ほんの一瞬、頬が緩む。まるで、ときめいてくれたように。
「……!」
感極まって、優紀の喉が甲高く鳴く。
喜びを隠さない優紀に対し、永和はすかさず言い放った。
「ち、違うっ。私、友達、他にいないからっ、それで嬉しかっただけで……ッ!」
それを聞いて、優紀は少し、安心した。
戸惑っているのは自分だけではなかったのだ。永和も、優紀と共に過ごす時間を大切に感じてくれている。
しかし、それを恋と呼べるかどうか、永和自身はまだ答えが出せていないらしい。
咄嗟に「友達」という言葉が出たことから、ここまで押しても恋愛対象として見られていないということは、直感した。
おそらくこの後、そう時間がかからないうちに返事は貰えるだろうが……きっと、友達のままでいたいというような、そんな内容になってしまうに違いない。
残念なような、それでも少しだけ嬉しいような、おかしな感覚。まるで、ポテトをケチャップにつけるはずだったのが、マスタードソースにつけてしまったような……。
「んぐっ」
というか、本当にソースを間違えていた。
「ふふ。ぼーっとして」
永和は最後のナゲットを食べ終えると、指先をチロリとなめる。
お昼ご飯を食べ終えた優紀は、永和の案内の元、なぜか森の中に足を踏み入れていた。
「常磐さん、あんまり森の中に入っちゃいけないって、ニュースで……」
昨日だってそのニュースを見たばかりだ。カラスの暴獣。
「大丈夫だよ。この辺り、暴獣が出ないのは私が知っているし」
「よく通るの?」
「縄張りだから」
また不思議な言い回しだが、彼女なりの冗談なのだろう。
そんなことより気になる点が一つ。
「じゃあ、今向かっている先は……」
「私の家だけど」
まさか初デートから永和の自宅に招待されるとは。そこから男子高校生らしい妄想が展開し……最初に優紀が心配したことは。
「ご両親への手土産、途中で買えそう?」
「必要ないよ」
永和の横顔を覗くと、眉が下がっている。
「それって……」
ご両親、外出中なの? と言おうとしたところで、永和が唐突に足を止めた。
そして、優紀と向かい合い、真剣な眼差しを向けてくる。
「告白の返事だけれど」
「う、うん!」
断られるとはわかっていても、どうしても期待してしまう。
優紀はごくりと息をのむ。永和が、口を開いた。
「今から私がなにを言っても、田中君の気持ちは変わらない?」
「えっと、というと?」
「私には」
突如、森中から轟く、動物たちの威嚇の鳴き声。少なくとも、鳥類と犬は確定であり、他にもたくさんの敵意が混ざっていた。
「――たい人がいる――」
永和はそこまで言って、俊敏な動きで四方八方に視線を巡らせる。
途中が聞き取れなかった優紀だが、それ以上に豹変した森の様子が気になって仕方がない。
「グルルルル」
茂みの向こう、木々の向こうに、なにかがいる。
優紀は恐怖に肝を潰しながらも、永和を隠せる位置に身体を置いた。
「な、なにが起きているの……!?」
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