第1話 告白
田中優紀の覚悟は、張り詰めた場の空気が物語っていた。
七月半ば、夕暮れの図書館。他に誰もいない階段のそば、その二階側。
突き当たりの窓の向こうから、ささやかにセミの鳴き声が届く。
細いオレンジ色が、ブラインドの隙間からリノリウムの床に線を長く伸ばしている。
そんな風景をバックに立っているのは、常磐永和だ。小柄な彼女は、身長一六九センチの優紀の顎ほどにしか背丈がない。
素朴なパーツで構成された童顔は、まるで無垢な天使のよう。少なくとも、優紀にはそう見えるくらいに可愛い女の子である。
「どうしたの? 大事な話がある、なんて」
彼女の声は、いつもあどけなく可愛らしい。唐突に連れてこられた疑問を含んでなお、優しく優紀の耳に沁みこむ。
「訊きたいことがあるんだ」
「なに?」
優紀は靴のつま先で床を叩いたり、背中の後ろで手遊びをしたりしながら尋ねた。
「今、つき合っている相手って、いるの?」
永和はむっと唇を突き出し、眉を顰める。つい、優紀の声が大きくなった。
「つまり答えはノーなんだね?」
「……だったら?」
つい優紀の頬が緩んだことが、永和には気に喰わなかったようである。目と眉を真顔のまま、頬と口元だけを笑顔にするその表情は、彼女特有のお怒りサインだ。
だが、優紀は構わずに本題を告げた。
「ぼ、僕とつき合ってください」
「…………ッ」
永和の目が丸くなる。とても潤った、水晶玉のようなそれは、まるで魔力に満ちているかのように優紀の視線を釘付けにする。
しかしそれも長くはもたない。先にまばたきをしたのは優紀で、その瞬間、息が詰まるほどの緊張がほどけた。
「ダメ……だよね」
ぎゅっと拳を作って立ち去っていく。タン、タンと靴がリノリウムを叩いて五段……階段の踊り場で優紀が振り返った時、永和とすぐに、目があった。
オレンジの薄明を背に受け、羽衣のように纏いながら、咎めてくる。
「なんで……すぐ、諦めるの?」
その声音は、永和には珍しく、責めるような鋭いものだった。
言われ、優紀は息をのむ。
脳裏で反響するのは、五年前に姉から言われた最後の言葉。
『そうやってすぐ諦めるのが、あんたの悪い癖よ』
当時、優紀よりも背が高かった姉は、凛々しい声と鋭い目つきでそう言って……それきり、優紀は姉の声を聞いていない。
優紀はかぶりを振って古い記憶を追い出し、永和のセリフの真意を確かめる。
「じゃあ、よかったの……!?」
「極端過ぎ。そうじゃないから」
イエスかノーしかない選択肢、そのどちらでもないらしい。
問い詰めたくなった優紀より先に、永和がその答えを告げる。
「いきなりそんなこと言われても、困るよ。だって私たち、さっきまで一緒に勉強していた友達。違う?」
「う、うん」
「だから。明日……デートしてよ。そこでちゃんと、答えを出すから」
「で、デート……」
「うん。だから答えは、保留」
まばゆいオレンジ色が永和を包む。
幻想的とすら思える美しさに見惚れて、優紀の返事は気の抜けたものになった。
その日の夜。
「ほ、保留、かぁ……」
リビングのソファに座って、ついため息を吐いてしまう優紀である。
お断りよりは希望のある回答だが、おつき合いしましょうと決まったわけではない。
デートできる、という喜びと、成功させなきゃ、というプレッシャーが、あれからずっと不定期に交互に顔を出すのだ。
気晴らしにつけているニュース番組もまた、芸能人の結婚を祝うことに区切りをつけたところである。
『次のニュースです。再び、突然変異した動物が発見されました』
スタジオからVTRに、画面が切り替わる。
東京は恵比寿。恵比寿駅のそばにあるタクシー乗り場だ。そこに三羽のカラスがいるのだが、明らかにそのうち一羽の見た目がおかしい。他二羽に比べ、一回り以上も大きな身体を持っているのだ。そして瞳が、薄く紅色に光っている。
『こちらの映像は一般の通行人から提供された映像です。嘴をよくご覧ください、明らかに返しのような突起が見えます』
映像がスタジオに戻り、女性キャスターが映る。恵比寿駅タクシー乗り場の映像は、画面中央に続きが流れていた。
『突然変異を遂げた動物は、人に対して攻撃的になることが判明しています。都はこの現象を暴獣化現象と名付け、引き続き調査を行うと――』
撮影者に気づいた暴獣化カラスは、二秒ほどカメラを見つめた後、一直線にカメラへ突っ込んでくる。瞬間、撮影者が腰を抜かしたのか、映像が乱れた。
異形の嘴になにかが挟まっているのが映った瞬間を最後に、優紀はテレビを消した。
暗い話や怖い話を聞ける精神状態では、とてもない。
スマホを開き、緊張した手つきで検索をかける。デート、成功、秘訣……!
翌日。
永和はスマホを持っていないので連絡手段がない。つまり遅刻は厳禁だった。そこに緊張も合わさって、約束より一時間以上前から優紀はずっと待っている。
永和が到着したのは約束より五分前のこと。完成されたボーイッシュスタイルで、優紀の目を釘付けにした。
華やかなオレンジ色のスニーカーを履き、デニムのハーフパンツと若草色の半袖パーカーを着て、斜めに白のポシェットをかけている。頭には、リボンの飾りが可愛らしい、深緑色のキャスケットを被った格好だ。細くしなやかな腕と足は健康的な肌色をしており、優紀の瞳に魅力的に映った。
「お待たせ」
にこりと可愛い永和の微笑みを向けられ、優紀は上ずった声で答える。
「う、ううん! 待ってないよ! それより服……綺麗だねっ」
「……そういう田中君は、まさか夜更かししたの?」
「うぅっ」
バレている。目の下にクマがあったか、表情がやつれていたか。緊張してろくに眠れていなかったことを一目で看破され、優紀は泣きをみた。
「でも、ありがと。今日は無理しないでね?」
じっと見つめてくる永和に対し、おもわず目元を隠す優紀。
畳みかけるように気遣われ、もう胸が張り裂けそうだ。
「あはは……それより、どこ行こうか」
「うん」
永和は相槌を打ったまま、なにも言わない。それならば、と優紀から提案した。
「実は映画の席、ネットで買っておいたんだ。よかったら見に行く?」
「え? うん……いいけど」
目を丸くする永和を見て、優紀も目を丸くする。
「な、なにかな、常磐さん?」
「ここで私が別の提案をしたら、映画のチケットどうするつもりだったの?」
「あ……」
咄嗟に視線が泳いで、青と白の大空へ。動く黒い点は、カラスだろうか。
「ふふ。いいよ、そこに行こう? その映画館って、あっちだったかな」
肩を竦めて歩き出す永和の背中が遠い。優紀の足は重くなる一方だ。それでも決意はまだ胸にある。追いかけるべく、早足で距離を詰めた。
男子高校生と、女子高生の恋愛もの。今高校生の映画デートで一番お勧めされているのがそれだった。
恋愛映画を謳っている割には、ホラーミステリー感に溢れている。物語途中で実はヒロインが既に幽霊だったと判明したり、幽霊は幽霊でも生霊で、ヒロインの魂を肉体に戻すために思考錯誤する話になったり……といった感じだ。
主題歌とスタッフロールが終わり、照明がつき始めた頃、永和が優紀の横顔を覗く。
「……おお、すごい感動している……」
「ぐっす……うう……あああ……!」
永和の温度なき視線の先。優紀は、両腕で交互に、目元を強くこすり続けていた。
「大丈夫?」
差し出されたハンカチを受け取りながら、お礼を告げる。
「ううああ、あいあおぉああっえあえう」
「何語かな……」
呆れられた。そう思い、優紀はおそるおそる永和を見る。しかし、永和の浮かべていた微笑は、どこか悲しげに見えた。
場所は変わってフードコート。子供連れから老夫婦まで、様々な客層で賑わう飲食スペースの二人席を陣取って、お昼ご飯を広げている。
塩味の強い山盛りフライドポテトと、チキンナゲットをシェアしながら、優紀はさっそく不安を解消しにかかった。
「さっきの映画、つまらなかった?」
永和はもぐもぐと口を動かしながらきょとんとし、飲み込んでから首を横に振る。
「ううん? 面白かったよ?」
「よかった……。いや、最後の方、常磐さん遠い目していたから」
安心して、すぐに口が乾いた。炭酸が口から喉の奥まで染み渡っていく。
「そんなことないと思うけど……。ハッピーエンドが羨ましいなって思っただけだよ」
羨ましいとは、またどこか不思議な感想だ。彼女の中のネガティブななにかと重なったのだろうか、と優紀は思量する。
永和はストローでオレンジジュースを一口飲むと、優紀に訊ねた。
「そろそろ、聞いていいかな」
「え、うん。なにを?」
永和からジェスチャーで「優紀君も食べなよ」と促され、ナゲットをマスタードソースにつけて口に放り込んだ。五回ほど噛んだところで、質問が飛んでくる。
「どうして、私のことを好きになったの?」
「んぐっ、っ……!」
おもわずむせる優紀。なんとか堪えきると、永和が口元を手で隠し、目を細めた。
「ふふっ」
「ね、狙ったな……!」
明らかに、飲み込もうとするタイミングを狙った質問。しかし、時折仕掛けてくるこういったイタズラが、優紀にはとても愛らしく思えるのだ。
なんとなく周囲を確認し、盗み聞きしている人がいないか――いるわけないが――確認してから、大きく咳払い。
恥ずかしさに活舌を悪くしながらも、優紀は素直に、ありのままを語る。
「前にもちょっと、話したと思うけど――……」
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