第4話

4、

 建造物のことをシスたちは〈王宮〉と呼び習わしているようだった。

 しかし〈王宮〉とは、云いも云ったり、建っているのが不思議な有り様の代物であった。屋根は落ち、壁の石積の多くは倒壊してとうに風化している。それでも幾つかの室房はまだ健在で、三人はその一郭に陣どって、干し肉と、固く焼締めたパンと、葡萄酒の夕餉をとった。

 急拵えの竈で薪を燃やし暖を求めたが、潮臭い湿気が夜風とともに忍び寄り、底寒さを拭い去ることは出来なかった。頼りない竈火の光が、原型を留める壁龕に影を揺らしているが、その装飾は見たこともない様式のもので、〈王宮〉が想像も出来ないくらい永い年月をけみしているのをまざまざと思い起こさせるのだった。

「シス、それは?」

 ヴェリタスが指したのは、シスの華奢な腕にはめられた銀の細い腕輪で、血のような紅い石が象嵌されたそれは、絡み合う蔓草にとまった蝗を象ったものだった。

「これ? へへっ、アスカランテが寄越した贈り物さ」

「莫迦っ! 残らず置いてこいっていったろう」

「だって気に入ってたんだものーー」

 シスが唇を尖らす。それは其方の気のない筈のタルスですら、ドキリとするような愛嬌のある仕草だった。

 しかし恋人たちのやり取りは、他愛ない痴話喧嘩ですむ領分ではなかった。ヴェリタスが腕輪に触れると驚くべきことが起こった。

 ギィ……という哭き声が何処からともなく沸いて出た。

「きゃあ!」

 シスが、日ごろの高慢さも台無しの可愛らしい悲鳴をあげた。タルスもヴェリタスもギョッとして見守ってしまった。

 三人の目の前で、ただの金属である筈の腕輪の蝗が、ゆっくりと翅を開いた。鈍い光沢を帯びていた蝗は、みる間に生々しい、生物のそれに成り変わった。紅い石が昆虫の複眼になって煌めいた。そして再び、ギィ……とひと哭きすると、羽音も高く飛び上がったのだ。

「掴まえろ!」

 タルスは叫んだが遅かった。飛蝗は嘲弄するように天井付近を一周すると、物凄い速度で戸口を抜け、外に出ていった。

「クソッ! 不味いぞ」

 追いかけても無駄だと悟ったタルスが毒づくと、シスが不安そうな目を向ける。

「ねえ、どいうこと?」

 タルスは苦虫を噛み潰したような顔で答える。

「あれは魔術の仕業だ。よく呪い師が失せ物探しをするだろう? その類いに、予め大事な物に術を掛けておいて、その物の居場所を知れるように出来る術がある。おそらくあれは、術を仕掛けた主の元に戻ったに違いない。この島に居ることを知られてしまうぞ」

「アスカランテか!」

 ヴェリタスが勢い込んで云う。

「ああ。間違いなく、やって来る」

 僅かな灯りでも、二人が青褪める様がまざまざと伝わってきた。

「どうしよう……」

 半ば泣きそうな声でシスが呟く。

「〈儀式〉が終わるまで間に合わないかも」

「〈儀式〉?」

 タルスが聞き咎めた。

「私たちはこの島でやらなければならないことがあるのです。どうやらーー」

 ヴェリタスは強ばった顔をタルスに向けた。その表情は悲愴に満ちていた。

「もう一度、貴方に助力を請わねばならないようだ」

「待て待て、話が見えん」

 タルスは慌てて云う。

「船があるんだ。逃げれば、よかろう?」

 しかしシスとヴェリタスは憂い顔で、互いを見合わせた。タルスは、波止場での出来事を持ち出した。

「そうだ。シスは? あんたのあのうたは? 魔術だか何だか知らないが、何人やって来ようとも関係ないんだろう? あの、還りたい、という奴は」

 今度は、シスが声を挙げる番だった。

「あんた、あれの中身が判ったのかい?」

「そうだが……」

 タルスは焦れた。今はそこが問題ではない。

 魔法使いたちの広言を信ずるならば、彼らの使う言語は、古に、数多くの異種族が使用していた上古語の末裔なのだという。そしてその上古語の単語の中には、あまねく種族の言語に取り入れられていたものも存在する。タルスは、ほんの僅かばかり、その「共通語」を知っているにすぎない。

「今まで、意味を理解出来た人間はいなかったんだよ」

「俺は、人間ゾブオンじゃない。南大陸では、異種族は珍しいのか? 魔法使いだっているだろう?」

「南方世界には、呪い師はいますが、北大陸のように上古語を使う正統な魔術師はほとんどいません。それに、異種族は五百年この方、もうほとんど見掛けられていないのです」

 ヴェリタスが付け加える。

「だからこそ、シスは特異なのです。彼はーージンガリアの古の民の血を引く、最後の一人なのです……」

 

 *

 旅装の厚手の長マントで剛軀をくるんでいても、硬い石床の冷たさが深々と染み入ってくる。夜明けとともに、迫り来るアスカランテへの対処を考えねばならない。タルスはいっそうきつく躰をこごめ、眠りの国へ戻ろうとした。

 しずかな闇の片隅から、くぐもった情熱的なやり取りが聞こえてきていたが、若い二人が草敷きの褥で睦合うのを咎めるほど野暮ではないつもりだった。

「欲しい……ヴェリ……嗚呼!」

 シスの淫声は、洩れないように忍んでいるため、より胸騒がせる妖しさであったが、また一方では、男娼の手練手管とは違う直截さが感じられ、驕慢な態度の奥に潜むか弱さやヴェリタスへの愛情深さを窺わせた。ヴェリタスも、慈しみつつも激しく応じていて、昂る声を抑えかねているようだった。

 律動を刻む二人の営みは、不思議とタルスを逆に穏やかな心持ちに誘った。北大陸での変転ーー幼い時分からの放浪や、出逢いと別れや、南大陸にやって来る直接の契機となった彼の執政殿との対決がつらつらと浮かんでは消えた。二人が果てて互いを強く抱き締め合う頃、タルスは気づかぬうちに眠りへと落ちていった。

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