第3話

3、

 太陽の位置から〈鳥影丸〉が東に進路を取ったと知れた。夜が明けても船は順調に進み続けた。時折、痛みに顔をしかめつつ首をもたげるが、四囲にはひたすら果てのない大海原が拡がっているばかりである。帆船には予め水樽も食糧も積みこまれていたようだが、行き先を知らぬタルスにとっては不安極まりなかった。いざとなればレンス海に放り込まれ、魚の餌となることも覚悟せねばならないのかもしれない。

 タルスは交易船で見せてもらった海図を思い浮かべた。レンス海の東海域は、名もない小さな島が点在しているだけの、空虚な世界ではなかったろうか。

 かつてこの海域には、優れた文明を持つジンガリアという島があって、強大な力を誇っていた。往時、その民びとはレンス海全域を支配していて、その勢力は南北の大陸にまで及んでいたと云う。しかし五千年ほど前、海域に侵入してきた人間ゾブオンとの抗争でジンガリアは衰退した。最後の手段としてジンガリアは、魔術で人間ゾブオンの本拠地に大津波をけしかけようとした。が、人間ゾブオン側の魔術師に魔法を返され、逆に一夜にしてジンガリアは海中に没したという。

 そう、伝説の通りならばジンガリアは、人間ゾブオンの国ではなかった。ジンガリアの住人については、断片的な言い伝えが散見されるのみで、いかなる種族であったのか、もはや時間の靄の中に埋もれてしまっている。しかし今も残る東海域の島のそこここには、原始林に覆われた謎深き谷があり、古の文明の痕跡の石柱群が並んでいるという。

 往古の、今はなき種族の姿を、タルスは夢想する。傷による発熱がタルスを襲っており、今はただじっとしていることしか出来ない。思考は在らぬ方角に飛び、いつになくタルスを内省的にした。

 波止場での出来事を、タルスは朧気に憶えていた。鮮烈な感情に支配されたことを憶えていた。刺客たちが、次々と海に落ちていったのを憶えていた。

 あれが幻術めくらましの類いなのか、呪いの類いなのか知らない。ただひとつ云えるのは、あれがシスの持つ力だと云うことだ。そして、タルスが命を拾ったのは、怪我で躰が動かなかったからだけではないとも思っていた。

 あの、還りたい、という激しい欲動は、タルスにとってはっきりとしたかたちを成さなかったのだ。何故ならタルスは、己の還るべき場所を持たない存在だからだ。そこが刺客たちとは異なった。

 タルスは人間ゾブオンではなかった。ルルドとモーアキンの間の子であるタルスの総身は、筋肉の鎧を纏った強壮なものであるが、手足は短く不恰好でもあった。今はもう姿を見ることのないーー南大陸ではとりわけーー二つの種族がどんな者たちだったのか、何処に棲み、どのような文明を営んでいたのか、タルスが知らない。この先、己れという存在の元祖おおもとにまみえることがあるのか、いやさ、突き詰めれば己れとは何なのかーー。

 身動きできぬままタルスは、暗鬱な思惟に沈むのだった。

 東進すること三日、その島陰が見えたのは午後も遅い時刻だった。

 水平線に、峨々たる山並みがたち現れ、ヴェリタスは舵を取ってそこを目指した。

 その頃には、タルスの熱は治まりつつあった。ヴェンダーヤの邪行の中には、呼吸法によって肉体を操作する術があるが、タルスは今それを、傷の平癒に集中させ用いていた。元来それは、あくまで生体に内在する力を制御する技であり、弱りきって術の原資となる力が少ない今の状態で治療に集中させれば、体力全体はさらに弱まる道理だった。無から有を生み出すことなど誰にも出来ない。宇宙の法則に反するからだ。

 が、さりとて傷を治さなければこの先、身を守ることすら覚束なくなる。タルスは腹を括った。道連れの二人に命を預け、治療に専念することにしたのだった。

 

 *

 その島は、周囲を峻険な岩壁に覆われていた。夕闇の迫るなかでもなお、外洋から打ち寄せる波濤が白く砕け、泡立つのが映えていた。

 帆船は島をぐるりと廻った。すると島の北側の、堅牢な城壁めいた岩壁に一箇所、切れ目があった。ヴェリタスは巧みな操船でその切れ目に帆船をれていった。切り立ったいわおが此方に雪崩かかってくるようで、タルスは背中がムズムズとこそばゆくなった。

 細長い入り江の最奥部に、帆柱がぎりぎり通る高さの海蝕洞窟が見えてきた。ヴェリタスが、隘路の微妙な婉曲に合わせ、より慎重に船を進める。

 まさか、とタルスは身を強張らせた。波の上下左右によって、船が洞窟の口の何処にうち当たってもおかしくはなかった。当たれば斯様な小船なぞひとたまりもあるまい。

 タルスの懸念を他所に、ヴェリタスはいっさんに洞窟を目指す。怪物の口蓋めくそれが、ぐんぐんと近づいてきて、あっという間に視界を覆わんばかりになった。

 当たる、と云う瞬間、タルスは思わず目を瞑ってしまった。

 ごう、という唸りとともに気圧が変化した。絶妙の加減で、船が開口部を潜り抜けたのが判った。

 目を開けるとそこはすでに、広くて暗い空間の内部であった。いつの間にかシスが、手回しよく角灯を点しており、その明かりで周囲の様子が知れた。二人が此処にやって来るのは初めてではないようだった。

 うっすらした明かりに照らされたそこは、マーゴ原野の地下にいまも住まうという穴居人の原始王宮のようだった。海水に穿たれて天井と海底を繋ぐかのように残った縦長の岩が、あたかも列柱のように連なって見えるのだった。

 いやーー。

 傍を通りすぎた際に目に飛び込んできた〈柱〉には、浮き彫りらしき装飾があって、何者か意思を持つ者の手が入っているのが知れた。この地下空間は、純粋に天然自然の造形物ではなく、何らかの目的により手が加えられているのだった。しかしその浮き彫りの絵柄と来たら!

 そこには狂った詩人ザリ・アシャラクの幻視した、悪夢めいた姿の化け物が躍っていた。彼の者の譫言うわごとの中でしか顕れないような、おぞましい海凄の怪物どもの交歓の場面なのだった。

 やがて船は、洞窟の奥の、砂地になっている箇所に行き着いた。

 船が留まるのを待ちきれず、シスが水に飛び込んだ。

「還ってきた! ついに還ってきたよ!」

 シスの声は上ずり、昂奮しきっていた。

「おい、こら! 危ないぞ!」

 それまでの、冷笑的で愛想のない様子とは一変して、シスは無邪気とも云えるはしゃぎぶりだった。その様を、ヴェリタスが頬を緩ませ眺めている。

 船上の語らいによって、この二人が生涯を誓った恋人同士であると聞いていた。この逃避行はそもそもが、アスカランテ司祭に身請けされる直前だったシスを、ヴェリタスが横取りして逃げたのが始まりで、無論のことそれは斯界の禁忌なのだった。

 二人を強襲したのはアスカランテが動かしたダルファルの兵士であり、司祭の公私混同なのは間違いないが、さりとて、正規の代金を支払った「品物」を盗っ人から取り返さんとする自力救済なのも事実であった。

 ヴェリタスと一緒に船を浜に上げ、積み荷を砂に下ろした。まだ体力は万全の状態に戻っていないが、傷はかなりよくなっている。ヴェンダーヤの邪行の成せる業であるが、そのため二人に妖術使いのごとく扱われるのには閉口した。

 シスが消えていったのは、洞穴の中にぽっかりと拓けた砂地の端、左右を岩壁に挟まれた急傾斜の隧道で、その小径が上に向けて伸びているのだった。

 積み荷を担いだタルスとヴェリタスも、後に続いた。途中には幾つか枝道があって、うっかり迷い混めば、一人で抜け出られるとは思えない。タルスは、ヴェリタスを見失うまいと慎重になった。

 かなり長い隧道を登りきった先は、島を取り巻く崖の根元で、岩の裂け目から二人は外に出た。タルスはそれが秘密の隠し通路ではないかと怪しんだ。知らぬ者には、岩壁の亀裂の向こうに径を見いだすことは出来まい。

 少し前から洞窟に向けて強い空気の流れが吹き込んでおり、案の定、島全体が外海の沖つ風にさらされているようだった。

 タルスは初めて島の内側の全景を見た。歪な半月型をなす島は、周囲をぐるりと外輪山めいた岩山に囲まれていて、まるで己れが水盤の中に立っている心持ちになる。岩山は、外海の風を防ぎきれてはいないようだった。島の内側の植生は、丈の低い樹木と地面にへばりつく下草で構成され、風の影響を思わせた。

 異様なのは、水盤状の窪地の真ん中に、植物群から屹立して、半ば崩壊した建造物が聳えていることだった。周りの景色から隔絶し、まったく調和していないその神さびた建造物は、何処か禍々しく、忌まわしかった。

 今しも西の岩壁に隠れんとする落陽が、寂然たる遺跡の石柱に、最後の緋色を投げかけていた。東の空にはすでに星が瞬き始め、寒風に夜雲が千切れている。タルスは訳もなく寒けをもよおしたが、それが夜風のせいなのか、眼下に聳える太古の建築物のせいなのか、判然としないのだった。

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