凍えるライクレター

あっぷるピエロ

第1話

 宙を、燃える金魚が泳いでいった。

「……は?」

 赤金楓(あかがねかえで)は思わず眼前を左から右に横切ったそれを目で追った。紅葉したモミジかと思ったが違う。ひらひらと大きな尾を布のように翻して、火を灯したように輪郭を揺らめかせた金魚だった。ただ赤いのかと思ったがそれも違う。燃えている。というより、火で出来ているようだった。

 なんだこれ。

 何で飛んでるのというか何で燃えてるの、ってか何これ。

 マジなにこれ。

 燃える金魚は輪郭もおぼろに明るい光と発しながら、目撃者の男子校生を気にも留めず帯のようなひれで空を掻く。足を止めて凝視していると、予想以上に早く冷え込んできた木枯らしが半袖シャツ下の剥きだしの腕を吹き抜けていった。肌寒い。思わず肩が縮こまる。10月になるとすっかり秋という気がするのに昼間はまだまだ全然暑く、しかし登校時間や帰宅時間は涼しいより寒いに傾くので、衣替えをするにもしがたく、楓は未だ夏服でいる。女子は一年中足が出るスカートですごいなぁと感心しながらスラックスに感謝する。

 腕をさすって明日こそは長袖のシャツにしよう、昼間は折っておこうと考えながらひらひらと未だ頭の高さに浮かぶ火の玉金魚を追う。先程の風で流されて火の粉をはらはらと散らしていたが、燃え尽きることもなくそれは優雅に泳ぎ続けていた。

 通学路の途中だったが学校からわりと離れており、通る生徒もまばらで、この瞬間楓少年以外に誰もいなかった。

 呆然と泳ぐ火の粉を追っていたが、そいつは逃げるわけでもなく水槽の中を泳ぐように平然と高さ一~二メートルのところを漂っていた。動きは緩慢で、見ている間も楓から離れていくが、せいぜい十メートルといったところ。例え半径十数メートルを泳いだとしても、開けた駐車場の中だったので、林に突っ込まない限り見失うことはない。

「…………」

 つい、後を追った。漂うそれはロウソクの火のように穏やかに、音も立てずそ駐車場の中程でとどまった。距離を置いて立ち止まるが、少しだけ漂ってきた熱に引かれた。

 風にぶるりと震える程度には寒かったので、手を伸ばしてみる。

 逃げていくかなと思ったが、金魚は逃げなかった。

 温かい。たき火に手をかざすみたいに、ストーブに手をかざすくらいの距離でゆらゆらと揺れる熱を頂く。

「あったけー……」

 ちょうど山の陰にあたるからだろうか、日はまだあるのに太陽が当たってなくて、一人だということにほっとしながらさみしいなと思った。

 揺れる金魚を目で追う。風に流されるまま、あっちへふらふら、こっちへふらふら。

 ふと思いついて鞄から封筒を取りだした。クローバーが全面に印刷されたファンシー寄りの封筒だ。しっかり口はのり付けされ、シールで留めてある。試しに封をした手紙をかざすと、音も立てずに着火し見る間に燃えていった。

 みるみるうちに火が大きくなり、封筒の柄を浸食してくる。三分の一まできたところで手を放して落とした。衝撃で火が小さくなったが、足下で残りが燃えていく。

「……」

 本物の火だ。この金魚が火でできているのは確かなようだった。

 そして燃え尽きていくのは自分が書いた手紙だ。戯れに書いた宛名は火に侵食されてもう読めない。

「あーあ……」

 燃えちゃった。出す気はなかったものだからいいのだけど。自分で燃やしておきながら自嘲する。

 手紙は、楓が好むものの一つだ。携帯電話やネットその他の通信機器が発達した現代、手紙は衰退し始めているが、それでも手紙というものが好きだった。シンプルなもの、可愛いもの、渋いもの、クールなもの、数々のレターセットを集めるのが楓の趣味だ。

 文通相手はいない。

 手紙を出す相手も特にない。

 ただ集めるのが好きで、だけどたまっていくだけなのももったいなくて、時々、気まぐれにペンを手に取る。

 最初は空想の相手に向けた手紙で、次に、イライラしたときやぐちゃぐちゃとした感情がたまったとき、鬱憤を晴らすために書き殴った。やがてそれは、胸を圧迫する感情を吐きだすための道具になった。

 これはその一つ。宛先に届ける気はない手紙。

 楓が見下ろす先で感情のかけらが燃え尽きていく。

「――……」

 それに、どこかほっとした。

 綺麗だ。炎は透き通るように色の薄いオレンジを抱いて、赤い火の粉を空へ飛ばしている。燃えるごとに、心の一部がじわりと侵されるように燃え尽きて冷えた。

「そっか……燃やすのもいいな」

 つぶやいて、手紙が燃え尽きるまで楓は炎を見つめていた。




 翌日の帰りにも、金魚はいた。

 目撃してつい立ち止まってしまった楓は、不思議現象に好奇心のまま惹かれ、またも金魚のあとをついていった。

 金魚が目の前を泳ぐのを眺めながら、秋風が冷えるなと人ごとのように思う。火の玉金魚はほおずきのように丸い身体で、火の粉を蛍の光のように散らせながらふらふらと楓の傍を漂っている。

「少しあたらせてもらってもいい?」

 寒いからさ、と話しかけてみる。言葉がわかるわけでもあるまいに、金魚はふわふわと胸の高さまで下りてきた。「あはは、ありがとう」と笑って手をかざす。そのまま少しの間暖を取っていたが、やがて、鞄に手を突っ込み封のされた封筒の束を取り出した。

 便箋がギリギリまで折りたたまれて詰め込まれたとわかるものから、一筆箋だけが収められた薄いもの、長細いもの、真四角いもの、カラフルなもの、おとなしいもの。まとめられた数は相当で、束は分厚い。

 手紙をかざす。金魚は害を与えないとわかっているのか、あまり身動きしなかった。ゆらゆらと炎の輪郭だけが手紙をあぶる。

 握った手紙の先が変色し、着火し、浸食して、楓はそれを地面に落とす。

 地面で燃え尽きていくのを見守らず、次をかざして燃やす。

 いくつもいくつも。




 それがいつの間にか習慣になった。学校の帰りはほとんどぶれがない時間で、友人はよくバイトで帰り道が分かれる。おかげで一週間近く、楓は金魚と夕方を過ごした。

 燃やすことで手紙に詰めた感情が昇華されることがわかってから(気分的な問題だがすっきりした)、楓はある時期からためていた手紙を出してきて火にくべることにした。昔の何を書いたか覚えていないものより、つい最近まで綴っていたものを燃やしたときの方が肩の荷が下りた気分だった。

 燃えているのを見ているのも落ち着いた。火は生物にとって潜在的な恐怖が湧くときいたことがあったが、距離感と扱い方の問題だろう。秋のさなかということもあって、じんわり温かい温度をくれるたき火と揺らめく炎を見つめるこの時間は、楓にとって心地よいものに変わっていた。

 また一枚引っ張り出した手紙をくべる。もうここまで来ると金魚も懐いてきたのか、今では足下で楓の手紙が作る山に埋まって自ら火種となってくれていた。ほほえましくて、餌をやっている気分で封筒を追加する。

 かがみこんでたき火にあたる。焼けていくカラフルなレターセット。妹に付き合っていった先で買った。中には折りたたまれた便箋が詰まっている。

「――あったかいなあ」

 凍えるように胸の中は冷えていくけれど、目の前の心地よさに楓は微笑んだ。

 と、足音が聞こえてきた。アスファルトを叩く音。聞こえてくるぐらいだからかなり力強く走っているのだろう。

 あ、高校生が帰りに火遊びって、怒られるかもと思ったとき、完全に背後に立った足音が途切れて、怒られると覚悟した瞬間想像以上の力で痛むぐらい強く肩を掴まれた。

「何やってんだ、楓!」

 怒鳴り声はせっぱ詰まっていて若く、不安と焦りのにじみ出たよく知ってる声で、勢いよく掴まれた肩に引かれるまま振り返った楓は、相手を見て驚きを通り越して絶句した。

「……梓」




 赤金楓(あかがねかえで)と黄海梓(おうみあずさ)。

 同じクラスの出席番号一番と三番。お互いよく女に間違われる名前だというところに共感し合って付き合うようになり、一緒に馬鹿をやる間柄だ。お互いに相手を相棒とか相方とか呼んでいる。目立つ二人組ではなかったがよくセットだと思われている。

 よくよく梓が回想しても、出会いに劇的な何かがあったわけではない、自然に仲良くなった。よくつるむグループの内の一人だ。ペアを作るとき真っ先に組む相手。声さえかけずにペアで行動することが決まる相手。

 趣味は読書派の楓とスポーツ派の梓と別れたが、まんがやゲームの好みは同じだった。おかげで話はよく合った。好物の話や思いつきや昔のおもしろ&失敗エピソード、話題には事欠かず、写し損ねたノートの貸し借りはいつもあった。

 楓からすると梓は明るくてわかりやすくムードメーカーと称されるが、梓からすると楓はじわじわと味のわかる不思議で謎なやつである。その不思議さがおもしろく、よくツボをついてくるので、梓は楓といるのが好きだった。何のてらいもなく親友を呼ぶには気恥ずかしいけど、そのくらい息の合った相手だ。 

 家は同じ方向だが、いつもバイト三昧の梓は途中で道を外れるから、実はあまり一緒に帰ったことはない。せいぜいバイトが休みの日ぐらいだ。

 一週間ほど別々に帰る日が続いたある日、梓が楓といつものように交差点で別れてしばらくして、昼に電話で日付を交代してくれと言われ代わったことを思い出した。あわてて引き返し、今なら追いつけるだろうと駆け足で帰り道をなぞっていて。

 その光景に出会った。


 たき火をしている。危ない。馬鹿だな、学校帰りに。違う、そこじゃない。何でたき火なんかしてるんだ。燃やして。寒そうに。そう、寒そうな格好で。

 そんな格好で。

「――ッ!」

 声を失った。

 こんな時期なのに、半袖だ。そうだ、これがおかしかった。

 変だな、と思ったはずだが、昼間の太陽は夏日かというくらい暑かったから、昼間になると忘れてしまう。だから、その違和感に気付いていながらおかしいとわかるのが遅れた。

 楓は10月の衣替え期間を過ぎても夏服でいた。シャツを長袖に変えることもなく、ベストやカーディガン、ましてやブレザーの類を持ち出すこともなかった。朝型の冷え込む時間帯でもである。衣替え期間はまだましだったが、過ぎるとあっという間に登校時間の気温がシャレにならなくなった。夏に慣れた体が悲鳴を上げて当然の時期だ。昼間は半袖Tシャツになってる野郎も確かにいたが、そいつらだって朝来るときだけはブレザーを着ている。あっと言う間に秋は進行してじわじわと冬支度をさせようとしている。

 今も、風が吹くとぶるりと鳥肌が立つほどに冷え込んでいる。

 なのに、その光景を見て、寒さを感じてなさそうな、表面上に変化のない楓を見て、初めて梓は恐怖という感情に思い当たった。


 急き込んで楓の肩を掴んだ梓は、直前までの感情をなんと表して良いのかわからず言葉につまり、その間に驚きに顔を染めていた楓は元の表情に戻ってしまった。

 しまった、今追求すればきちんと聞けたかも知れないのに。

 歯がみする梓の前で、楓は首を傾げた。

「どうした? 今日、バイトは?」

「交替してたの忘れてた……今日は休み」

 そっか、と楓は微笑んだ。おつかれさま。そんな日常の言葉が違和感になってぞわぞわと梓を撫でた。

「おまえ……何やってんの?」

「あー……たき火?」

「なんで」

「えー……? 金魚がいたから」

 はぁ? 露骨に訝しげな調子で聞き返すと、楓がすっと宙を指さした。目で追って、少し外れたところに浮いている金魚を見つけて梓は目を見開いた。梓が来たときに驚いたのかたき火の中から抜け出ていたのを、楓はきちんと把握していた。

「は!? 何あれ」

「さあ? なんか、火でできてるみたいだよ」

「は!? 何、なんて? 何あれ!」

「いや、おれにもわからない。数日前にここで見つけて、それから夕方にいつもいる」

 金魚だ。赤い、尾びれがでかい品種。名前なんかしらないが、夏祭りの金魚すくいなんかでよく見かけるタイプ。はっきりと金魚だとわかる姿をしているが、その赤さがゆらゆらと揺らめいている。泳ぐ軌道から火の粉がちらちらと舞っている。本当に火でできているような。

 火の玉金魚を凝視する梓の隣で、楓が火が付いていない封筒を拾い上げ火の元に差し込んでいる。本当にたき火をしているらしい。燃やしているのは、封を切られた様子のない手紙の山。

「何燃やしてんの?」

「手紙」

「誰の?」

「おれのだよ」

 座らないのか?

 言われて、梓は何を言っていいかわからないまま隣にしゃがみこんだ。

 燃えさかる金魚はまた楓の近くに戻ってきて、彼はそいつに手をかざして穏やかに微笑む。それが、妙に現実離れしていて恐ろしかった。

 おまえ、寒くないのかよ。

 寒くないはず、ないだろ。その格好。

 梓は口を突いて出るはずだったのに喉に引っかかった言葉を、そのまま呑み込んだ。




 楓は梓が来てからも手紙を燃やし続けていた。手元をじっと見ているが、どれもこれも無記名だ。封はしっかりされていて、中も膨らんでいる。しかし膨大な数だった。靴の先に崩れて滑り降りてきた真っ白な封筒が燃え尽きるのを見守ってから、今度こそ口を開く。

「なあ。……何やってんの?」

 動揺が一周回って静まりかえった声で尋ねた梓に、ようやく楓は応えた。

「うん。供養してるのかな?」

「は? 何を?」

「自分の気持ちというか、感情というか」

 んー、とのんきに首を傾げて、楓は言う。


 これさ、全部おれのなんだ。レターセット、集めるの趣味なんだ。かなりたまってきてさ、一回リセットしてもいいかなって思って。便箋詰めて、封をして、自分の中身も詰めて。燃やしてみたら、なんかふっと楽になってさ。気分が良いんだ。だからこうしてあつめて、リセット分、火にくべてるわけだよ。


「ふうん?」

 手紙を書くのが得意ではない梓は、イマイチわからず適当に相槌をうった。楓からは毎年年賀状が届くが、梓はいつも筆無精でメールで返してしまう。手紙が好きだと聞いたことはあったが、それを燃やすことでどうして供養になるのかよくわからなかった。

 楓は梓の反応に気分を害した様子はない。そういうところは許容範囲の大きなやつだからだ。

 金魚がゆらゆらとたき火の周囲を泳いでいる。だからこいつは何なんだと顔をしかめそうになったところで、唐突に楓が切り出した。


「好きな人がいるんだ」


 その一言は予想以上にがつんと梓に衝撃をもたらした。

 え、おいおいマジか。今までそんなこと一言もくそっなんか置いて行かれた気分、と焦燥と動揺に駆られていると、すぐに補足があった。

「LOVEじゃないよ、LIKEだよ」

「あ、おう、そうなのか……なんだよ、紛らわしいな」

「うん、ごめん。でも何でかな……何でだろ、好きなんだよな、その人のこと」

「おいおい、本格的に恋しちゃってんじゃないだろーな?」

「そう言うんじゃないな。別に恋人になりたい訳じゃないし、手を繋ぎたいわけでもないし、たまに遊びに行ける関係で十分。その人のものになりたいとかものにしたいとか欠片も思わない。べたべたしたくないしドキドキもしない」

「……なんなのそれ?」

「だからLikeなんだって。でも、友情っていうにはちょっと重いなって思って」

「重い?」

「独占欲」


 別に終始見つめたいとか傍にいたいと思わない。でも、相手が自分ではない誰かと一緒にいるとき、自分より親しい友人がいるんだろうなって思うとき、じりじりする。焦げてる感じ。なんかさぁ……一番親しいと思ってたのは自分だけなんだなって思うぐらいの寂しい気持ち。AさんはBさんにとって一番仲良くて、でもAさんにはBさんより親しい仲良しがいる、みたいな。なんでおれじゃないのかな、または本当におれが一番だって思ってくれてるかなってさ。ぐちゃぐちゃでもう最悪……あーひどいなー、おれ。


 楓はふにゃりとごまかすように笑って頭をかいた。

「…………」

 梓は何も言えず沈黙した。わかる。わかる、気はする。だがそれを、軽率にわかると言ってしまってはいけないんじゃないかという気がした。

 楓が立ち上がった。すわさすがに機嫌を損ねたかとつられてあわてて立ち上がると、きょとんとした顔をされた。違うのかよ。

 楓は鞄を開いて、中に詰まっていた封筒の残りを全部抱えると、あたりにばらまいた。なんて数だ。カラフルな絨毯がしかれたコンクリートは、足の踏み場がなくなってしまった。

「おい、何やってんだよ」

「やってみたかった」

 飄々と楓は言う。やってみたかっただけかよこの野郎。本当にそれだけが目的だったらしく、楓は封筒と一枚一枚拾い始めた。なんて無駄なことをと額を叩いてうなずいた。あー、そうだ、こいつはこういうやつだった。

 梓も真似して足下のオレンジの封筒を手に取った。白色の水玉模様。宛名も差出人もない。ご丁寧に可愛いシールがついているが、のり付けされていなかった。

「ずいぶんカラフルだな」

「おれの趣味だよ」

 手に掴んでも楓から何の反応もないので、シールをはがした。見えているはずだがそれでも反応がないので中を開けて折りたたまれた便箋を引っ張り出す。開いて、拍子抜けした。

 何も書かれていない。枚数、三枚。白紙だった。

 別のを拾い上げた。ライム色のストライプ。グレープフルーツのシール。はがして開ける。封筒と合わせた便箋が四枚。これも未記入。

 別のを拾う。ピンクベースに赤色の鳥がついた封筒。のり付けされていたから適当にちぎって引っ張り出した。静止の声はなく、開けて見るもやっぱり白紙。

 盆栽が描かれた渋い一通、空の写真のさわやかな一通、うさぎのイラストの和む一通、同じ柄のものも何通も拾って、中を確かめていく。

 無地のクラフト封筒を開いて一枚だけの真っ白な便箋を開き、梓は空を仰いでため息をついた。両手はすでに一杯で、なのに足下にはまだいくつか彼の感情のかけらが落ちている。

「何なんだよ、これ」

 拾ってはひらひらと落とし、封筒をたき火に一通ずつくべていた楓が、梓の声に顔だけ振り向けた。その人ごとのような顔に呆れすぎてすねたようになってしまった声で追求する。

「手紙、書いてたんじゃねえのかよ」

「自己満足だよ」

「何も書いてねえじゃねえか」

「気持ちはいっぱいなんだけど、形にならないし、しないほうがいい」

 穏やかな顔つきのまま、また彼は手紙を火にくべる。金魚は踊る。梓はひょっとして、詰めたのはさきほどの感情なのではないかと思い当たった。

 手紙は、かじかむ寒さの中で不思議と温かい。

「カイロみたいだな……」

 楓が詰めたという思いは、手紙からも滲むほど温かいのだろうか。

 開けてしまった手紙を楓に渡すと、彼はそれをそのまま火の上に落としてしまった。開けたことをとがめる文句はない。何も書いていないから、別段気にしない様子だ。一気に燃料を投下されて、炎の金魚が飛び込んでいき、たき火が大きくなった。

「いいのかよ?」

 こんなに大量に。もったいない。使い道さえ思い浮かばないがそう声をかけてみる。楓は当然のようにうなずいた。

「燃やすとほっとするんだ。心の一部が焼けて、浄化される感じ。いいんだよ、これで」

「この金魚なんなの?」

 再度たき火から飛び出してきた燃える魚が、楓の周囲で漂い始める。魚がなつくものなのかわからないが、その様子は、完全に懐かれている。

「さあ。おれの心かもな」

「こんなに燃えてんのか」

「愛の心は強いぜ、火傷すんなよ」

 楓がいつもの調子で軽口を叩く。「ばーか」と応えて、梓はかじかんだ手をブレザーのポッケに突っ込んだ。




 息を吸う。喉に詰まりそうになった声を、今度はちゃんと押し出した。

「楓。おまえ寒くないのか?」

「え?」

 楓が目をぱちくりとさせ、たき火に目を落とし、冬服にしている梓を見た。言われて今の季節に気付いた感じだった。

「たき火はあったかいぜ?」

「そうじゃなくて」


 おまえ、いつまで夏服で居る気だよ。


 梓自身、声が震えたと思った。それが怒りなのか嘆きなのか、呆れかおびえか、自分でもわからなかった。

 その震える声に困惑したように笑って――笑いやがった、こいつ。たぶん、ごまかすために――その身体が、ふっと揺らいだ。

「! おい!」

 間一髪、倒れかけたその肩を掴む。よろけた身体を支えてやるが、自分とほぼ同体格の人間を支えるのは重たくてきつい。だが重さに文句を言う前に掴んだ相手の腕の冷たさにぞっとした。指先がびりりと痺れそうな、氷のような冷たさだった。たき火に一番近いところであたっていたのに、なんだこれは。

 息を呑んだ梓に寄りかかっていることに自覚がないのか感覚がないのか、体制を整えようともしないまま楓がぼんやりとした声で呟く。

「寒い……」

「馬鹿、当たり前だ!」

「どうしてかな……さっきまであったかくて……」

 ぱちり、と耳元で音がした。バッと振り向くと、燃えさかる赤い金魚が眼前を泳いでいた。なぜ気づかなかったのだろう。最初は手のひらに収まるほどだったはずの金魚は、今や握り拳ほどに大きな火の玉になっている。比例してその熱量も上がっており、その近さに皮膚が焼けるように熱くてのけぞった。楓の身体も引いたものの彼は動けず、金魚から離れることには成功したがバランスを崩して冷たいコンクリートに尻餅をついた。

 金魚は楓の傍まで下りてきて、心配しているかの動作で周囲を漂う。熱い。それでも楓の身体は冷たい。こんなに近くにいたのに。まるで、楓の体温を金魚が奪っていっているみたいに。

「――ッ! まさか、ホントに!?」

 慌てて金魚を手で払いのける。ぶつかる前に金魚がひらりと逃げていったので火傷はしなかったが、そんなことには構わず自分の上に崩れたままの楓の肩を掴んだ。

「おい、楓! しっかりしろ!」

 ジリジリと、手紙の燃える音が耳に付いた。手紙の山は今はもう半数以上が灰になって、小さな山は火の粉を吹いている。火が揺らめく度、金魚の中身も連動して揺らいでいる。

 さまざまな衝撃で凍り付いた梓の頭は、一方で冷静にこの状況を眺めている。コレは何だ? 現象とか物理法則とかはどうでもいい。この事態は一体何が起きている?

 楓の体温を吸い取る金魚。金魚は火でできている。たき火とおそらくつながっている。たき火で燃えているのは楓の手紙。その中身は白紙……いや、あいつが、『自分の中身を詰めた』と言ったんだ。中身。想い。感情。つまりは、心。

 手紙が燃える度に金魚が熱くなっていく。互い違いに、心が燃え尽きていくから、楓の身体が冷えていったんだ。

 梓にもたれかかったままの楓は、すでに自分で動こうとしていない。目を閉じた表情は死人のように白い。梓が掴んだままの腕は雪像のようだった。

「冷てえ……このままじゃ死んじまう!」

 忍び寄ってきた冷たい死の影の恐ろしさに手を引きかけた梓は、我関せず悠々と宙を泳ぐ金魚を視界に捉えた途端いきなり感情メーターが振り切れた。それは怒りに近いものだと思う。

「てめえのせいか!」

 楓の身体の下から足を抜いて飛び上がり、激情のままに火の塊を両手に握りこんだ。大きな尾がびしばしともがくように揺れて手の甲を叩く。熱いなんてものじゃない、手先が焦げる感じ襲ってくる。焼ける痛みが激痛になって両腕を走った。

 それでも頭に登った血は炎より熱かったらしい。歯を食いしばって手のひらで暴れる金魚を渾身の意志で引き寄せ、楓の胸に叩きつけた。

「戻れ! 暖めろよ!」

 確信は何もない。根拠も勘もなかった。ただ楓は金魚が近くにいても熱を吸収しなかった。その熱さ自身を楓は自分かも知れないと言った。感情の塊を捨てるために、燃やして燃え尽きるために外に飛び出した心の欠片なんだとすれば。

 金魚を胸に抑える。じたばたもがくそいつを、上から両手で押さえて中に押し込む。楓は眠ったように無反応のままだ。

 梓は力みすぎて出なくなった声で、それでも必死に楓の目の前で叫んだ。

「捨てんな! おまえの心だろうが! 捨てて燃やして……なかったことにすんな! そんな大事に、大量に持ってたってことは、捨てたくないんだろうが! そんな無理して、我慢すんなよ!」

 ごう、と強い風が山から吹き下りてきた。冷たい冷気が火をすくい上げ、燃えた手紙の灰が雪のように舞い上がる。目を開けてられなくて、「ちくしょう!」と叫び鼓動も定かではない彼の胸を殴りつけた。

 そのタイミングで、根負けしたように金魚が胸に飛び込んでいった。

 灰が目に入るのをかばうため腕を上げていた梓は、ふとその光景に気づいて息を呑んだ。

 残った手紙が風で舞い上がり、時間差で降ってくる。ばらばらと、ひどく緩慢に。まるで綿毛のように。

 桜色の手紙。紫の手紙。朝顔の手紙。エアメールを模した手紙。

 くるくると、釣り糸で垂らした七夕の飾りのように、封筒はゆっくりと宙に浮かんで下りてくる。一つ一つ、どんな色でどんな模様の手紙か確かめられるくらいのんびりと。

 それらを呆然と目で追っていた梓は、一つの封筒に目を留めた。

 少し離れた位置で、頭の上ぐらいの高さに浮かび踊っている、黄金色のイチョウ模様がついたもの。

 回転する間にちらりと覗くそれは、一通だけ宛名が書いてある。

 楓の体温が少しずつ元に戻っていくのを思考とは別のところで理解しながらも、何も考えられず、梓は引かれるように立ち上がって手を伸ばした。指先が触れた瞬間、封筒は糸が切れたように手の中に落ちてくる。

 ずっしりと重い。ぱんぱんに封筒はふくれあがっている。何枚便箋が詰められているのだろう。それはほかの封筒が持つ温度より熱い。

 差出人の書かれた裏から、表返す。切手の貼られていない表面に、丁寧な字でよく知る名前が書かれていた。

 このくせ字を、知っている。

 感覚のない指先で、封をするシールを切る、ふくらみすぎてノリがきかなかったのだろう、ふたは勝手に開いた。手こずりながらめいっぱい折られた便箋を取り出す。

 文字は、罫線に従ってみっしりと書き込まれていた。

 日付。時候の挨拶。前置き。近況報告。雑談。それから、本題。

 途中何度も書き直したあとがあり、感情のままに書いたのだろう話し言葉がそのまま文章に使われていた。まとまらないまま話は終わり、始めの挨拶とつながないまま手紙は終わっていた。

「…………」

 とても、長くて、重たい上に、熱い内容だった。

 梓は深いため息をついて、便箋に額を押し当てた。

「んだよ……そういうことかよ……」

 ばか。今更、思い出したように絶えきれず、目元からぼろりと涙がこぼれた。

「ちくしょう……ホント、死ななくてよかった……」

 幻想の時間が終わる。

 宙を舞っていた手紙が、音を立てて地面に転がった。

 梓が握りしめた手紙の最後には、筆記者の名前と宛名が書かれている。

 この上なく大事な親友から、親友への手紙だった。




 翌朝のこと。

 カーテンから差し込む光が朝をさしていることはわかっても、今がいつなのか記憶がつながらなかった楓は、目覚めてまず混乱した。

 見慣れた天井、勉強机、本棚、クローゼット。間違いなく自分の部屋で、自身はベッドに寝ている。いつ寝たのかさっぱり覚えていない。

「寝落ちたのかな……?」

 身体を起こして、背を伸ばす。何か胸元に違和感があった。

「?」

 何か胸が熱い。ちょうど心臓の位置だ。カイロが貼ってあるみたいにじんわりと熱を発している。シャツをめくってみたが何もない。

 首を傾げながら部屋を出てリビングに出向くと、母親が挨拶をしてくる。おはようと返しながら朝食をよそって席に着くと、調子はどうかと尋ねられた。どうやら楓では夕べ調子が悪くなり、梓に電話してもらい迎えに来て貰ったらしい。記憶になかったが体調は問題ないよと答えて朝ご飯を平らげると、部屋に引き返して制服に着替えた。スラックスを履き、長袖のカッターシャツを着て、ネクタイを締め、ブレザーを着る。もうじきマフラーがいるかなと考えながらカーディガンも引っ張り出しておく。準備が整った頃、階下から母に呼ばれた。迎えが来ている、とのこと。

「いってきまーす」

 弁当を鞄につめて玄関を出る。予想通り向かいの塀にもたれて梓が待っていた。家の方角がかなり近い二人は、片方が早く出て寄れば朝から苦もなく出会える距離にいる。

「よー、おはよー。何か昨日すまなかったな」

「……」

「?」

 いつもなら楓より三倍ぐらいテンションの高いオーバーリアクションで出迎える梓が、神妙な顔で沈黙していることに首を傾げた。

 梓が楓を足下から頭の先まで視線でなぞる。体調不良がそんなに出ていたのかと思いガッツポーズを取ってみるが反応は鈍い。なんかしたのかと不安になりかけたとき、梓が人差し指と中指に何かを挟んだ腕を挙げた。その指先が白い包帯で巻かれているのに気を取られかけたが、示されたのはその手にあるもの。

 掲げられたのは、よく見覚えのある、自分の字で目の前の人物の名前が宛名に書かれた手紙。

「……!!?」

 理解した瞬間が声もなく叫んで、楓は梓につかみかかった。だが間一髪胸ぐらをつかみ損ねて逃げられる。

「ちょっちょっちょっと待ってそれ何で待て! おれのだ、返せ!」

「これはオレのだ。なんつたって名前書いてあるからな」

「読むな!」

「もう遅い」

「ああああ――……」

 今度こそ完璧に状況を理解して、楓は顔を覆って地面に丸くなった。絶望にうちひしがれる楓に、いつも救済の手を差し出してくれる相手は今や手の中に楓の破滅ボタンを握っている。

 覚えている。何で今それが梓の手にあるのかはさっぱりわからなかったが、その手紙は、いつしか楓の胸の中で留まりくつくつと火にかけられ続けていた感情の中身だ。恋に近くて、愛より重いもの。ラブレターならぬライクレター。それも、今持っている相手に対してのもの。

 伝えるつもりがないから赤裸々に全部書いてあるのに。

(絶対ドン引きされた……)

 単純な恋愛感情だったらまだマシだった。恋愛感情に誤解されたくない部類のものだというのに。

 膝を抱えて落ち込み身を震わせる楓の背を叩いて、梓はいつも通りに飄々と言った。

「行こうぜ、楓。帰りに文房具屋つきあってくれ」

「え? 何で?」

 顔が上げられず立ち上がるのを拒んでいた楓は、襟首を掴みあげられ強制的に立たされて、ごにょごにょと歯切れ悪く問い返した。

 梓は先立って親友の前を歩きながら、悪戯っ子のように歯を見せて明るく笑った。

「オススメのレターセットとか探しにいこうと思ってよ。手紙の返事を書かなきゃな」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凍えるライクレター あっぷるピエロ @aasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ