見送る沙耶

洞田太郎

見送る沙耶

すっかり暗くなった細道の片側に二階建ての賃貸アパートが一棟。道に面した階段の陰の自動販売機が暗がりに一つ光っている。電灯のジーッという音が小さく響く。

沙耶はスマートフォンの画面を見ながら、ゆっくりアスファルトの細道を歩いている。道路は軽トラがすれ違えないほどの幅で、中央はアスファルトだが両端は一メートルほど灰色のコンクリート舗装がされており、その所々には跳び箱の手付き台ほどの大きさの、格子状に成形された金属がはめられて、その下を水がちろちろと小さな音を立てて流れている。

アパートの反対側、沙耶が歩く道の右側に、大谷石が二段積み上げられて小さな石段になっている。その向こうの草っ原の中に真っさらな畑が二つ。最近耕したのか草の芽一つ生えていない。畑のすぐ向こうには大きな柿の木が一本、その奥には岩盤があって、人が三人入れそうな洞穴が八つほど掘られている。

ふと、沙耶は何かの気配を感じて右を見た。何かわからない、しかしこっちへ来ている。スマートフォンを見続けていた目は暗闇にまだ慣れていない。最初は洞穴のあたりから始まった気配が、ゆっくりと畑の周りを通ってこちらへ来ている。草のかき分けられる音が聞こえる。ウネウネと蛇行しつつ、何かがこちらへ近づいている。沙耶の目が暗闇に慣れてきた。じっ、と見つめる草の間に何かがいる。黒いぼんやりとした塊が蹲っているように見える。目を細めてもはっきりとは見えない。しかし、何かがいるように感じる。と、またその何かが草をかき分けて近づき、そして止まった。どれだけ待っても次の音は鳴らない。沙耶はしばらくその暗闇を見ていた。何もない。誰もいない。そこにいるはずだが、何もいない。

沙耶は夜道を歩き出す。心臓破りの坂が目の前に聳える。坂道の両側は砂岩の壁で、街頭はあるが人影はなく、岩壁はいつも湿気で濡れていて、小さな音は吸収されて、静かな中にコオロギの声と街灯の電気音、そして沙耶の地面を踏み締める足音だけがこだまする。なんとなく、ジョギングで上がってみる。沙耶はジョギングの綺麗なフォームなど知らない。ただ、いつもより早く脚を降ろし、いつもより強く地面を押す。いつもより手を大きく振る。見るものにはそれは大股の早歩きにしか見えないが、沙耶にとってそれはジョギングである。いつもより少し早く坂の上に着く。なんとなく心地良い。沙耶はいつも通り坂を下る。

坂の下は二車線の車通りで、右の角には流しそうめんの店、左の角は寺。名を白蓮寺という。その白蓮寺の角に、人が立っている。沙耶はゆっくりと歩きながらちらっとその人を見た。黒っぽい服を着た男が俯いている。沙耶は

「どうしたの」

と声をかけた。男は顔を上げて

「俺に言った…?」

と小さな声で確認した。

「うん、他に誰もいないよ」

男はゆっくり周りを見渡して、確かに自分しかいないことを確かめると、小さな声で沙耶に言った。

「待ってる」

「じゃあ、暇なの」

男は小さく頷いた。沙耶は

「どれくらい時間ある?」

と聞いた。男は俯いて少し考えて

「一日」

と言った。

「ちょうどいい、あたし明日休みなの。家族も友達もいないし、よかったらうちに来てよ」

男は何か言う。

「なに?」

「迷惑…」

「いいよ、別に」

男が顔を上げて

「ありがとう」

と言った。

「いいって、そんな」

沙耶は歩き出す。男がゆっくりついて来る。沙耶は今晩の飯を考え始めた。中華が食べたい。


「ただいまー、お客さんだよー」

部屋には誰もいない。沙耶は歩いて仏壇の前に座り、線香の一本に火をつける。チーン、と音を鳴らして手を合わせ、目を瞑る。数秒して目を開け、ふぅと一息つくと立ち上がってキッチンへ向かう。リビングを見ると、男はテーブルに入っていた椅子を引き出して座っている。その席は沙耶の席ではない。

少しするとキッチンからにんにくとごま油の混ざった匂いがし始める。油で水分が弾ける軽やかな音と、まな板に包丁がリズム良く当たる音がする。それからちょっとして、大皿に盛られた炒飯が運ばれてきた。男は立ちのぼる湯気を見つめている。

「食べよう!」

沙耶はそう言って自分の皿に大きなスプーンで炒飯を取り分けて、男の皿も取ってよそう。男はじっと湯気を見つめたまま動かない。


二十分ほどして沙耶は腹一杯食べ終わった。男は全く動かなかったが、皿の炒飯は無くなり、二十分前より明らかに腹が膨れていた。

沙耶は大皿に自分の皿を重ねて台所に持っていき水を張った。リビングに戻ってソファに座り、テレビをつけて見始めた。

男はずっと椅子に座っている。沙耶は三時間ほどテレビの前に釘付けになって撮りためたドラマを見ていたが、

「あたし寝るね」

と言って寝室に戻った。テーブルには男が残され、誰が消したわけでもないが、照明が消えた。


「おはようー」

昼前になって沙耶が起きてきた。

「あたし紅茶飲むけど、飲む?」

男は首を小さく横に振る。沙耶はキッチンに行って白い縦長のやかんで湯を沸かす。先週買った紅茶葉の袋を開けると、仄かにバラの香りがする。乾燥したバラの花弁が入った紅茶で、休みの朝のささやかな楽しみである。ティースプーン三杯分の茶葉をガラスポットに入れ、やかんの湯を注ぐ。湯の流れに茶葉が巻き込まれる。透明だったポットが黄金色に照らされ、華やかな薫りが辺りに広がった。

「やっぱり、俺も」

沙耶の横に来ていた男が静かな声で言う。

「はいはい、そうなると思って多めに淹れてるから待ってて」

男は大人しくテーブルに戻る。

テーブルに黄金色のポットとガラスのコップが二つ運ばれる。沙耶が注ぐ前に男のコップには黄金色の液体が半分ほど注がれている。沙耶は柔らかく笑って

「これいいヤツなんだもん、飲みたくなるよね」

と言って自分のコップに注ぐ。顔を上げると男が悲しそうな顔をしている。沙耶はコップに目を落としてから

「熱かった?急いで飲むからそうなるんだよ」

と言って笑った。


沙耶は気になっていた映画をいくつか見て、男はずっと椅子に座っていた。気づくと外は真っ暗になって、沙耶は見ていたテレビを消した。

「そろそろだね」

男が頷く。

「何か話しておきたいことある?」

男は俯いて、ぽつぽつと話し出した。

「俺、誰にも必要とされなかった」

沙耶はソファに横になって聞いている。

「働いた。でも、ずっと死んでた。自分の代わりはいくらでもいる。」

沙耶は曲げていた脚を伸ばす。足先がソファからはみ出した。

「死んだら楽になると思った。でも何も変わらない。死んでもまだここにいる。このあとは、どうなるんだ」

沙耶は足先を小さくぶらぶらさせている。

「知ってる?」

そう聞かれて沙耶の足の動きが止まる。足を地面に下ろして身体を起こし、背もたれに身体を被せて男の方を見る。

「ごめん、知らないんだよね。でも紅茶美味しかったでしょ」

男は小さく頷く。

「あたしはあなたみたいな人見つけるとさ、うち連れてくるんだ。そんで紅茶淹れるの。皆それ飲むの。紅茶って人が作るけど、葉っぱは人が作るわけじゃない。そりゃ今は栽培してるけどさ、一番最初は勝手に生えてきたはずなんだよね。たぶん世界が葉っぱを必要としたんだ」

男は黙って沙耶を見ている。

「あんた生まれてきたのはさ、世界があなたを必要としたからだと思うよ。あたしはずっと一人だけど、世界に必要とされてる。あんた連れてくることだって別に好きでやってるんじゃない、嫌なわけでもない、楽しくてやってるんでもない、やることになったからやってるんだ。それは誰かに言われたわけでもなくて、世界がそうしろって言ってるんだ」

男は俯いて黙っている。

「死ぬことだって人生の一部だよ、世界はみんなを殺すために生かしてる。でも嫌いだから殺すんじゃない、憎いから殺すんじゃない、殺すことで世界はみんなを取り込むんだ。世界はみんなを自分自身として必要としてるんだ」

「世界って、なんだ」

沙耶が男の目を見て答える。

「これからのあんただよ」


 静かに、電気が消える。



色彩の消えた、ただひたすらに暗い闇の部屋から見ると、その窓枠はただの白であった。その窓枠に窓はなく、大人一人やっと通れるほどの大きさの、白く塗られた木製の枠が嵌められている。枠の間は空(くう)である。その空に差し込む光は白である。その、ただひたすら白であるべき位置に、光沢も色彩もない真っ黒な、重そうな一枚の布で全身を包んだ、猫背の男が立っている。真っ黒の布から骨と皮だけの両足がぬっと伸びてその足裏が窓枠に着き、動けない窓枠はその足を拒否できず、その男の体重を支えている。また、布の端から出た左手は窓枠の左側を触り、骨張った手首と指関節の一つ一つを晒している。男の顔には全く主張しない目と鼻があり、唇だけが仄かに微笑を浮かべている。額、頬骨、頬、顎の内側はつるりとして毛がなく、その周りは細くて長い灰色の毛がびっしりと波打つように生えている。

窓の男はテーブルの男を見て止まっている。温度のない風が窓の男の布をゆっくりと波立たせているが、その風はテーブルまで届かず消えている。どれだけの時間が経ったか、もう誰もわからない。ある瞬間になって、テーブルの男に風が吹いた。窓の男はゆっくりと体を曲げて、窓枠の上で蹲り、左手を離して膝の前で手を組んだ。そして、男の身体が足の裏を支点にゆっくりと後ろに倒れ始め、そのまま落下し、窓枠から姿を消した。程なく窓枠も消え、電気がついた。男達のいない部屋に、沙耶は一人で座っている。沙耶は歩いて部屋の窓を開ける。生暖かい風が入ってきて、沙耶の頬を緩く撫でた。


その晩、白蓮寺に新しい墓が一つ掘られた。



沙耶は夜の細道を歩いている。静かな雨が降り、濡れたアスファルトに白い街灯が光を落とす。

傘を持つ左手が疲れて、右手に持ち替える。その拍子に右側の畑が目に入って、視線を伸ばして眺めてみる。畑の周りの草は刈り取られて跡形もなく、畑の土には小さな若葉がいくつか芽吹いている。洞穴の手前の柿の木の、葉の落ちた裸の枝と、そこに成ったままのいくつかの柿の実に隣家の暖かい灯りがぼんやりと当たって、夜の暗闇にぼうっと浮かんでいる。あ、そこにいる、と沙耶は思った。

その全体を眺めて、沙耶はゆっくりと細道を歩き出す。



坂の下では首に青痣のある女が一人、黒い服を着て立っている。

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見送る沙耶 洞田太郎 @tomomasa77

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