第68話

 父は、その女性を食材と呼んで言い直すことはなかった。歪んでいるだろう視界の義母でも、自分が何を調理しようとしているのかくらいは、わかっているはずだ。

 僕は棗をテーブルから引きずり降ろして、床に座らせた。硬く冷えた床材に驚いたのか、彼は何度か瞬いて、僕を見上げた。


「ハラヤ、さん」


 やっと僕を認識した棗の、頭に手を置いた。ふっくらとした肉感が、以前より増していた。髪も整えらえ、台所の白光を透いていた。


「少年も目を覚ましたか。二人とも食堂で待っていなさい」


 テーブルの端で体重を支えながら父は不変の表情で僕達を見ていた。そんな父に焦点を合わせた棗は、再び硬直し、今度は青い顔で歯を震わせた。父が彼に、否、彼の家族に何をしたのかは、想像がついた。動けずにいる棗の手を引いて、僕は食堂に向った。

 僕が前を歩くと、拙い足取りで、棗は進んでいた。度々彼が転んでやいやしないかと、背後に目を向けるが、案外、地に足はついていた。血液も全て乾燥していたらしい。だらだらと流れ出るものはなかった。

 言葉にせずとも、棗は僕を見るだけで、次に何をすべきか理解していた。食堂に着けば、彼は僕の前に座り、僕と目を合わせた。


「棗」


 僕は再び名を唱えた。すると彼は黙って目を瞑り、また開いた。


「これから出て来る食事は口にしない方が良い。どうしても腹が減っているというなら、肉ではないものだけにしろ」


 義母が用意する"食事"を、棗が食せるとは最初から思っていない。温暖で平和だったろう家庭に生まれたこの少年が、実の母親を口にするということが、どれだけ不快かは理解出来た。


「うん、わかってる」


 生気無く応える棗に、ほんのひと匙の塩を含んだような、不安と後悔があった。今なら先生達が匡香を僕から引きはがそうと躍起になった理由がわかった。必要以上の関係者は、重荷であり、悲劇の演出にも劣る存在だ。


「……僕の部屋に入れるよう、父さんに言っておく。明日までゆっくり寝ろ。朝が来れば、少しは状況も変わるだろうから」


 僕にしてはやけに優しい言葉を並べている気がした。無理に言わされているのではない。自然と、棗に対しては出てしまうのだ。


「うん、わかってる」


 同じ反応しか示さない棗を、もう一度観察する。四肢の青白さには、美術品にも似た鋭利な美しさがあった。冷房に揺れる前髪と動かない顔を合わせれば、雪の精を彷彿とさせた。


「何」


 僅かにほころんだ頬に、僕はある一人を思い起こした。


「棗、赤檮望って知ってるか」


 この少年は、何処か望に似ているのだ。あのどっちつかずな人間と、棗の肉体は、正反対だが近いところにあるのかもしれない。


「それ、誰かの名前? 珍しいね、赤檮なんて。七竈も不思議な名前だと思ったけど」


 全く引っかかりもしなかったらしい。棗は宙を見て、黙ってしまった。無音が響く。未だ、食事は運ばれてこない。会話を続けられる気がしなかった。僕は棗の返答に、そうかとだけ置いた。


「ハラヤさん、僕からも、良いかな」


 再び切り出したのは、棗の方だった。僕が好きにしろと言うと、彼は歯を見せて笑った。


「どうしたら、ハラヤさんみたいに、人を殺しても罪に問われないでいられるの?」


 先程とは打って変わって、棗は無邪気に言葉を吐いた。


「知ったことか、僕が隠そうと思って隠したんじゃない」


 僕に用意できる答えは、それだけだった。自分の周囲が考えていること、行いの全てを、知っているわけではない。僕の殺人が何故表沙汰にされなかったのかは、父に直接聞くほかないだろう。


「何か、そういう不思議な力を、ハラヤさんが持ってる……とかではなかったんだね」


 ふと、棗がそう言った。表情こそ俯いていてわからなかったが、声には安堵が含まれていた。


「そんなものがあれば、人殺しくらい、もっと


 僕の背後の男と目を合わせた棗は、青ざめ引きつった顔に戻っていた。音も無く僕の背をとった父は、静かに僕の首を撫でた。それが何故だか、気に障って、僕は大きく息を吸った。


「父さん、棗は気分が優れないらしいので、僕の部屋で休ませてやってください。食事は僕が持って行きますから」


 食事が運ばれる前に、棗は立ち去るべきだった。あの義母の状態を見れば、真面な料理をしてくれるとは思えなかった。


「駄目だ。何か腹に入れてから寝なさい」


 父は棗の背後に回ると、彼の肩を掴んだ。まるで、少年期の僕のように、棗は黙って座っていた。彼は数秒目を瞑ると、少しだけ口角を上げた。


「ハラヤさん、僕は大丈夫だから」


 気丈に振る舞っている、というよりも、本当に、平然と、棗は自然な脱力感を纏っていた。今し方、覚悟を決めた。そんな感じだった。

 そんな僕達を交互に見て、父は満足したのか、席についた。父の横には、新たな傷を作って震える義母が、キッチンワゴンのタイヤを鳴らしていた。料理はワゴンの一段目にしか無く、その実態はクローシュで隠されていた。銀の皿とクローシュの僅かな隙間からは、肉汁と共に焼けた肉の臭いが漏れ出ていた。いつもなら、クローシュなどという被せものは使わない。ガタガタと震えた義母の手と、強張った表情を見ると、単純に彼女が目を背けたかっただけだとわかった。

 金属が触れる音を繰り返す。人の毛髪は燃えると含有する硫黄が元で、強い異臭を放つ。一瞬、美味しそうだと思えた肉の臭いも、その異臭に押し出されてしまった。

 銀の皿の上で焦げ付いていたのは、確かに、人間の頭だった。料理としての可食部は少ないが、今、目の前にあるのが、人間だったのだと理解するには十分だった。


「さあ、ハラヤ、残さず食べ――――」


 父が出来得る限りの優しい声で、僕にそう指示しようとしたとき。皿をひっくり返して、熱い肉汁を浴びる少年がいた。


 棗は目に見える全ての脂質とタンパク質を口に入れた。絶対に、誰にも渡してなるものかと、彼は獣の如く這いつくばって、母の肉で口を汚していた。

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