第67話

 ただ震える義母に肩を掴まれ、身動きが取れなかった。腫れた皮膚の隙間をぬって、水が滴る。それが涙であることに気付いたのは、そこに血管の浮いた眼球を見つけたからだった。


「政子さん」


 歯を鳴らして怯える彼女と目を合わせる。小さな悲鳴が聞こえた。暫くして、彼女は僕を認識すると、周囲を警戒しながら、小さく口を開いた。


「ハ、ハラヤ君、おおおお遅くまで、何処に、行ってたのかしら。おおお、お父さんが、しん、ししっ、心配、して、たのよ、うん、心配、してたわ、確かに、していたの、よ」


 用意されていた台詞を思い出しながら、義母は口の端を震わせながら上下させる。誰がそう言えと、僕を確保しろと言ったのかは、大抵想像がついた。


「あの、政子さん、逃げるなら今ですよ」


 顔面以外に、手足に傷は見られない。胴体部には、服で隠されてはいるが、確かに打撲痕があった。


「泣く程のことがあるなら、這ってでも出て行ったら良いじゃないですか」


 義母の手を払いのけて、鍵のかかっていない扉を押した。ゆっくりと、夜風を受けて、木の板が開かれる。既に、僕が乗っていたセダンは消えていた。遠くに街の光を見る以外には、暗闇が続いていた。

 目の前に暴力から脱却する術を見せられているというのに、震えるばかりで、泣く以外に何も出来ない義母の、求めているものがわからなかった。


「どんなに耐えたって、義兄さん達は助けに何て、来れませんよ」


 義兄の名を唱えた瞬間、天地がひっくり返った。義母が僕を押し倒したのだとわかるには、数秒を要した。


「友美、友美は、無事、なのね?」


 たどたどしい口元からは、しっかりとした意思が聞こえた。


「義兄さんは警察の、同僚の方に保護されましたよ」


 匡香は、と言葉を続けようとしたとき、義母は声も無く蹲った。僕の耳に途切れ途切れに届く言葉は、安堵ばかりだった。言葉の端と共に流れる唾液から、義母の顎骨にひびが入っていることが察せられた。歓喜は彼女の脚を動かした。義母は震える四肢を抑えつけながら、立ち上がった。僕は扉を開けたまま、夜風を浴びた。


 出て行けばいい。傍から見て、義母に僕への信仰も、興味もない。あるのは恐怖だ。ただ、その恐怖の対象は、僕ではない。

 時間切れが迫る。柑橘の香りと共に、その人は現れた。


「――――父さん」


 義母の首を掴んで、変わらぬ表情を僕達に向ける男。その人は、奇声を張り上げる自らの妻、その顔面を、壁掛けの鏡に叩きつけた。加工された硝子板が割れる。破片は義母の頭皮と頬に刺さり、汚らわしい血液を撒き散らす。彼女の心臓が動く度に、赤色が噴き出した。鼻は完全に潰れ、歯は疎らに落ちている。


「ただいまくらい言わないか」


 その平坦さは、この現状を理解する者の証。血と暴力に塗れた父は、ごく当たり前のように、死にかけの女を右手に携えて、僕を見下していた。


「政子さん、夜食の準備を。食材は冷凍庫に用意してある」


 手放され、支えを失った義母の身体は、床に落ちた。


「……食材? あれが、食べ物?」


 虚ろに、義母の口から零れた。崩れた顔の隙間が動いて、表情が変化したのだけはわかった。


「貴方、本当に、うふふふふふふふ、鼻も、耳も、腐ったのね。悪いことばかりしてきたから、罰が当たったんだわ。私みたいに慎ましく、耐えて、生きていれば、うふふふっ、ふふ、そんな、はははは、顔を、切り刻まれも、焼かれも、しなかったのに」


 床を叩きながら、彼女は笑い尽くした。高らかな声が終わった頃、義母は我に返った様子で、再び口を震わせた。


「あ、あ、あぁ、ちッ違う、違うの。いいいい今のは、本当に、思って、なんか、いないのよぉ? 私の、心じゃないの。貴方のことは、ずっと、大切に、思っているの」


 蟻の巣穴に、石膏を注ぎこむと、似たような焦り具合を固めて観察できる。きっと義母は、戸惑っているのだ。短い寿命の中で、言われた通りに働いていただけだというのに、突然、終わりを見せつけられているのだから。


「言いたいことはそれで全てか」


 この場で法を司るのは、父だ。僕がどんなに彼女を哀れに思っても、今一息に殺してやることも出来ない。全ての決定権が父にある。その父の感情は、冷え切っていて、僕にはわかりそうもなかった。だから、取り入る言葉も、助け船も、出すことは出来ない。


「嫌、嫌! 何でもするから! まだ! まだ殺さないで!」


 ここまであからさまな命乞いを僕は見たことが無かった。十年で奥底まで染みついた義母の父に対する恐れが、ここまでさせるのか。長年の痛みと苦しみが、この汚物の塊のような義母の土下座を作り上げたのか。


「なら、早く食事にしよう。ここで私に頭蓋を見せたところで、蹴り上げられる以外に貴女が出来ることは無いだろう」


 そう言って、父は義母の頭髪を掴んで、引き摺り出した。摩擦は肉と血の跡を作って、僕が歩く道となった。

 台所に近づくにつれて、臭気が強まっていく。義母の新鮮な体液ではない。夏の熱気に晒された。腐敗ガスが僅かに混じっている。それが死肉から聞く香りであることは、経験からわかった。

 扉が開けば、清潔なキッチンテーブルに、一人、少年が横たわっていた。心臓が、一回だけ強く脈打つ。白い髪、白い肌、小さな体。纏うもう一人の気配は、既に死んだ彼の一時にして永久の友。


「棗」


 その少年の名を呼ぶ。ゆっくりと開いた瞼から見えた明るい瞳。そこには、虚空だけが映っていた。


「政子さん、今日は冷凍庫のものを使ってください。少年、ご客人にも何か食べさせてあげないと」


 父はそうして、義母を床に放り投げた。蹲って、何とか立ち上がろうとする彼女を余所に、僕の脚は棗に向っていた。他人の血液を浴びて、赤くなっている棗は、やはり僕のことを認識していない。頭の傷は、以前からあるものだった。身体に真新しい傷はなく、父に暴行された様子はなかった。

 棗は、ただ、壊れた精神で、息をしていた。頬を撫でても、髪を漉いても、彼の視点は動くことは無かった。

 そうしているうち、足元に冷気が伝う。和泉と出会った夢を想起する。悪寒にも似た冷気の元は、巨大な業務用冷凍庫だった。義母はその中から、ゴミ袋を取り出した。百均でも買えるだろう透明ビニールから見えたのは、凍りかけの血液と、それに包まれた見知らぬ女の顔だった。


「おかあさん」


 ポツリと聞こえた棗の声が、その女の素性を表していた。直感で、棗の瞳と鼻筋が、母親似であるとわかった。

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