信仰

第61話

 もう小清水と呼ばれることなんてないと思っていた。数時間前には全く逆のことを感じていたというのに。それでも、俺にしがみつく彼女は、俺を小清水と、これからも呼ぶのだろう。七竈が、「小清水とは関わらない」と言ったから。

 俺が迎えたのは、匡香ちゃんではない。その隣で、鼻を鳴らし、侮蔑の目で彼女を見ている小柄で弱々しい男の方だ。二人とも七竈であるが、俺は彼女をそうだと認知していなかった。

 故に、混乱していた。だが、納得も、理解も、追い付いてはいた。否、頭は今まで以上に鋭く動いているのに、体が上手く動かなかった。匡香ちゃんを退けようにも、小清水はそんなことしない。だから、葦屋幽冥は動けなかった。

 七竈が、匡香ちゃんを突き飛ばすのを、期待していた。攻撃と嫌悪は七竈の十八番だ。いつもなら、そうやって、目の前の不快感を除く。

 その期待は、ほんの少しの溜息に消えた。

 口を閉じたまま、七竈は俺の隣を過ぎていった。目を合わせることも無く、二日酔いの時のような顔で、彼はマンションを出た。背後からは、先生たちの声が聞こえた。誰も、俺のことを気にしてはいない。匡香ちゃんは小清水に心配して欲しいと、その独占欲を昂らせている。

 今、この世に葦屋幽冥を欲しているのは、俺一人だけらしい。


「匡香ちゃん、怪我はない? お兄さんが外で待ってる。霧子さんも」


 他人の欲しい物は、何でも分かった。彼女は特にわかりやすい部類だ。彼女が欲しいのは、洞察力に首を絞められる自分を、労って、心配してくれる人。七竈に奪われた、家族からの配慮を補う人間。真の意味では、俺はそのどちらにもなれない。けれど、似た者を演じることは出来た。

 騙すのは得意だ。十年やって来たんだ。今更、特別でもない女一人、どうということはない。

 俺の一言に、心を躍らせている匡香ちゃんが、ただ単純に、浅ましく、滑稽だった。自然と、俺は笑っていた。その笑顔が嘲笑の類であることを、彼女は気付けるのだろうか。自分が特別であると信じて疑わないヒロイン擬きに、理解できる知能があるのか。考えて言葉を示すことも出来ないただのホモサピエンスが、七竈を越えられるとでも思っているのか。


「もう怖くないから。皆の所に行こう」


 だから、とっとと離れてくれないか。


 彼女の体は一般平均よりも女性的なつくりをしていた。人並みの男なら触れられていることに喜びを示すだろう。けれど、俺にそんな精神は残されていなかった。生まれつきなかったのかは定かではない。けれど、今の俺に、およそ恋愛感情を呼ぶものは一切存在しなかった。

 だから、七竈と匡香ちゃんを比べることに意味は無い。彼女を認識したところで、彼女の評価に変動はない。


「そうね、和泉さんに迷惑を掛けちゃったし……」

「そうだね、心配していたよ」


 やっと腕を広げた彼女の、その手を取った。爪先まで温かい彼女の体は、ただ高揚だけがあった。

 高級マンションの硝子板を隔てた七竈の背中は、酷く小さく見えた。そこから見えるのは、落胆と僅かな怒り。そして、何かを決心した一人の大人のそれ。


「僕は一度、父の下に戻ります」


 夏の熱気と共に耳に入ったのは、そんな一言だった。七竈は義妹のことも、義兄のことも見ず、ただ真っ直ぐに韮井先生を見ていた。


「その心は」


 先生は吸った煙を吐き出して、頭を掻いた。理解出来ないのだろう。七竈を神に据えようとしているのは、間違いなくあの人だ。


「約束を、してしまったので」

「約束、ねえ。どこぞの兄弟の父親殺しでも手伝うつもりか」

「事の理解が早くて助かります」


 眉間の皺を明らかに、先生は人差し指をリズムよく叩いた。首をこきと鳴らす。


「反対はしない」


 冷静に、先生は七竈を見ていた。きっと先生から見ても、幕の引き方は、それしかないのだろう。


「だが賛成も出来ない。全てを捨てて逃亡する選択肢もある」

「そのプランに興味はあります、が」

「成功率を無視する勇気が必要だな」

「勇気を信じるタマじゃないと、自負しています。それに、そこまで来れば、きっとコストパフォーマンスも最悪だ」


 機械的な言葉の応酬を、ただ、俺は見ていた。その中に、以前のような形で入ることは許されない。

 俺に、七竈と、元の生活に戻りたいと叫ぶ権利はない。全ては俺一人を置いて、進んでいく。

 七竈の父親が死ねば、もっと俺達の間は開くのだろう。俺が七竈と出会ったのも、ずっと隣を歩き続けられたのも、あの人のおかげだった。俺が七竈から突き放されたのも、あの人のせいだ。

 神なんて、いなくても良いじゃないか。七竈がいるんだ。それだけで良い筈だ。


「七竈」


 存在を確かめたくて、また彼を呼んだ。全ての注目が、俺に集まる。先生は俺を排除したいようだった。


「……さっき、前期の成績が出てさ。一つ、再試だったんだ。水圏生化学、お前が得意なやつ。明日教えてもらいに、お前の部屋に行っても良いか」


 二人で他愛もない日々を過ごしたい。ここまではきっと友情と呼ぶものだ。だが、それがただの理由に過ぎないのもわかる。

 数メートル離れた夏の大気の中、七竈は口から放った。


「ただでやるんじゃ割に合わない」


 脳の表面は乾いて、笑うことしか許してくれなかった。彼への感性は、友情より深く面倒なモノを表していた。


「今度お詫びに肉を奢ってやる。安いやつだけど」


 あぁ、納得がいった。これは友情じゃない。一方的な信仰だ。

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