第60話

 ハラヤと望の呼吸音が揃った頃、日比野は私から手を離した。その途端、視界が歪んで、足元が崩れた。膝が床に着く。すぐに駆け寄ったのは、望だった。


「大丈夫? 顔色が悪いよ」


 あれだけの問答をしておいて、未だに平然としている彼女がおかしいのだ。そう言いたくなる口を抑えて、私は望を見上げた。


「大丈夫、疲れただけ」


 外は既に夜に向おうとしていた。日差しは薄らいで、けれど湿度は変わらず、私達の体力を奪っていった。


「帰る」


 ふと、そう言ってハラヤが私の手を掴んだ。反射で抵抗するが、ハラヤは見た目以上に力強く、その身体は微動だにしない。


「僕達に対話は無駄だった。僕達は本来、交わるべきじゃなかった」


 悪意を晒したその口で、呪いを唱える。感情は何処か悲しみを伴っていた。


「関係を断つことができるなら、それが良い」


 自暴自棄になっていることくらいは、客観的に明らかだった。それを受けて、悪気も無く、何故と呟ける望のことも、私には理解出来なかった。


「僕はもう、お前の夢に潰されるのはごめんなんだ。お前だって、僕の過去を見て、解釈の表面をただ舐めるだけ舐めて……何が楽しい。お前の精神構造から言えば、猛毒も良いところだろうに」


 私を立たせるハラヤの声には、心配、配慮があった。決して私には向けないそれを、彼は望に見せていた。


「僕を欲しがるなら、代わりに隣を見たらどうだ。日比野と僕の遺伝子は、大変腹が立つことに、同じだ。自分で言っていて殺したくなるが、恐らく違うのは外に出た性だけだ」


 代替品に示された日比野は、私の後ろでククッと笑った。これで笑える感性がわからない。ハラヤや望のようにわかりやすい反応をするならまだしも、彼の場合、次に何をするのかも予想が出来なかった。それを自分の代わりと言うハラヤは、自分が酷なことを行っている自覚がないらしい。確かに、二人は今、同化が進んでいた。端々から見える所作の重なりも、その他二人にしかわからない現象も、それを示しているのだろう。それでも、二人は違いすぎる。生物学的な相違以前に、そもそも、一人の人間として、あまりにかけ離れている。


「誰も君の代わりにはならないよ。君は君だし、豊は豊だ。僕はまた君と、豊と、匡香ちゃんと……次は君のお友達も含めて、お茶会がしたいな」


 ごく普通の、幸福を極めた言葉を、望は送り出す。彼女はブレることを知らない。それが酷く不気味だった。ハラヤが望に抱く不快感を、少しだけ理解出来た気がした。


「今日はもう、匡香ちゃんを休ませてあげた方が良い。また会おう、ハラヤ君」


 まるで次が確定しているかのように、否、次を望むように、彼女は笑った。強く握られていたハラヤの手が緩む。一瞬、その手で、望の顔でも打つのかと、全身の筋肉が硬直した。


「次はない。勝手に一人でガバガバ飲んでろ」


 牙を見せるハラヤは、私の腕を引いた。小さく、行くぞと言って、ドアノブに手をかけた。


「ハラヤ」


 それを止めたのは、ずっと静かだった豊かだった。


「条件、忘れないでくれよ」


 彼の無表情に、望が隣で目を丸くしていた。ただ、呼び止められた当の本人は、二度瞬きを挟んで、再び口を動かしただけだった。


「……頃合いになったと思った時に、別荘に来い。僕がお膳立てしてやる。頃合い、わかるだろ?」


 変わらぬ無表情で、ハラヤはドアを開いた。茶菓子の余ったるい香りと、血潮の生臭さが廊下に漏れた。望も、日比野も、私達を止めようとはしなかった。

 初めて来た筈の高級マンションの一室を、ハラヤは迷いなく歩いていく。重たい玄関の扉でさえ、彼は躊躇いなく開く。


「お帰りか」


 ずっと見張りをしていたらしいシバが、私達を見下す。ハラヤはそれを認識しようとすらしていないようだった。


「じゃあね」


 自ずと口から出たのは、ただ、その一言だけだった。夏の日差しに、非日常が焼かれていく。今の冷静さなら、あの部屋の出来事が、どれだけ現実を壊していたのかがわかった。そしてそれが、私の脳を侵して、その世界に引きずり込んだのだということも、気付くに至る。今日だけで幾何も遠のいてしまっていた小清水君に、私は近づくことが出来たのだ。それを解した歓喜に、脳が溶けかけていた。


「ハラヤ! 匡香!」


 ふと、足の下から声が聞こえた。どうやらマンションの前に、兄が来ているらしかった。私達は揃って、声の方に首を向けた。そこには兄と、昼間店で出会った霧子という女性、先生と呼ばれていた男、加えて見知らぬスーツの巨漢が一人と、兄とも年の近そうな青年が一人、こちらを見上げていた。そんな有象無象より前に、私の目には、一人しか映っていなかった。ただ一人、私達を見るより前に、マンションのロビーに駆け込んだ足だけが見えた人。

 私とハラヤは急いでエレベーターに飛び乗った。人を待たせているという焦りよりも、私はただ一人に会いたかった。

 ゆっくりと、機械音は鳴り響く。重みを以って、私達を支える鉄ロープは下る。


「匡香」


 唐突に、ハラヤが私を呼んだ。その口から私の名をしっかりと聞くのは、実に久しぶりのことだった。


「幽冥を好くのは構わない」


 ポロと零れた声に、私が思っていたような嫉妬だとか、怒りは無かった。


「だが困らせるな。お前はアイツを絶対に理解出来ない。逆も然りだ。だから黙るな。口を開いて思想を見せろ」


 文句を、言おうと思った。アンタに私と小清水君の何が分かると。けれど、そう口にするより前に、鉄の箱は開かれた。重く鈍い扉の向こう、ロビーのガラスの外側に、彼はいた。


 ――――ななかまど。


 彼は私を優先しない。わかっている。声を聞かずとも、口の動きだけでそれは理解出来た。


 だからこそ私は、ハラヤに私の優位を示さなければならない。


 ただ冷徹に彼を見るハラヤを余所に、私は彼に駆け寄った。


「小清水君!」


 熱を持った外気に包まれて、私は彼の胸に飛び込む。困惑は、心臓の動きで分かった。かけられる筈の無い、私への配慮を待ち望んで、私は耳を立て続けた。

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