第49話
剥がれかけの鱗片のような、名も知れない羽虫にも似た、無意味にも手払いたくなるような感覚。それに伴って込み上げる吐き気。匡香が幽冥に向ける感情は、毒にも劣る存在らしい。ただ、意識が吸い寄せられるほどには、甘く、蠱惑的なモノなのは分かった。
「幽冥」
僕は停滞を始めていた彼の意識に、そっと声を渡した。
「もう行った方が良い。これ以上は話にならない」
二人を一度、遠ざけるべきと、脳が言った。正確には、幽冥から匡香を引きはがさねばならないと、直感が訴えたのだ。
数秒遅れて、先生も僕の意志を知ってか知らずか、そうだなと同調を口にした。
「霧子もお嬢さんを連れて行ってくれ。母親やらが探し始めるとも限らない。事情の説明と連絡をすることも考えてはいたが……今の所、ご理解頂けるとも思えん。何より、こうなると一枚噛んでいる可能性もある。黙って避難するのが賢明だろう」
酷く冷めた目で、先生は匡香を見ていた。ビクリと彼女は肩を震わせる。
「あの、私もその葬儀屋さんに行ってはいけないんですか」
駄目ですかと続けるよりも前に、霧子が彼女の口を止めた。赤い指先で、匡香の唇をなぞる。その様子は、一段と魔女のようだった。
「それはオススメしないわ。貴女、まだ巻き込まれ寸前で止まっているんでしょう。そこから先は、感情でどうにかなる程、甘い地獄でもないのよ」
多分、霧子は気付いている。否、気付いていないのは幽冥くらいだろう。匡香の情は極めて異常且つ、危険だ。幽冥が人ではない、または人の形をナニカであるということを知りながら、それでもなおコイツは、幽冥を求めている。常軌を逸している。ただの感情ならまだしも、何処か、狂信的というか、自然ではないようにも見えた。
一言で言えば、気味が悪い。たった一人に執着するその様が、僕の母と、父と、酷く似ていた。
故に、その精神を、極限まで踏みにじってやりたいとすら思った。
――――その意思を自覚した次の瞬間、僕は急いで口から息を吸った。
明らかに、絶対に、この意図は"僕のもの"ではない。頭が流転する。何かおかしい。目の前の状況に変わりは無い。僕の頭蓋の、その中身だけが、この数秒で異物と化している。
唾液が溢れる。喉を気泡が通った。その感覚だけが、僕が僕であることを示していた。
細胞の一つ一つの隙間に砂を噛んだような違和感に、僕はもう一度、息を吸った。
誰か、何かが、僕の無意識を食んで、共生せんとしている。その不快感の先に誰がいるか、漠然とではあるが、何故か僕は理解していた。
ゆっくりと、窓を見る。外には見覚えのある黒いワゴンがあった。件の"奴"を見つけるより前に、僕は霧子を見た。
「時間の無駄です。引き摺ってでも持って行ってください」
僕は
「恋愛ごっこは大いに結構。今なら吊り橋効果で成功率は五割増しかもな。だが今ここでやることじゃない。スマホは後で僕が送ってやる。それで好きにやってくれ。僕は恋愛ドラマがこの世で一番嫌いなんだ。吐き気がする」
急ぐ必要があった。黒ワゴンか、それとも別の場所かで僕を待つ阿呆――日比野の欲しい物は理解している。答え合わせがしたくてうずうずしているのも、重なっている指先から感じられた。奴は、ただ呼び出す程度で僕が出てこないことも分かっている。だからこそ、次に何をしたいのかも、予想がついた。
「呆けていないで表に出ろ。荷物は全部用意できただろ」
「何でアンタ、私を追い出そうとするの」
匡香がやっと出した僕への言葉は、存外、冷静だった。だが、その裏面には、熱い僕への嫉妬と疑いがあった。
「僕はこの場で別れた後、小清水とは今後一切、顔を合わせる気は無い」
僕の発言の数拍後、視界の外で幽冥が目を見開いて立ち上がった。どういうことだと声を上げようとするより前に、僕はテーブルに備えられていたフォークを彼の鼻先に向けた。目を合わせることは無かった。目線を交わせば、僕の弁論は台無しになる。
「その先を言わないくらいには、お前の知性を評価しているつもりだ」
匡香は僕を見ていた。僕の言葉を噛んで、飲み込もうとしていた。
「わかった」
無駄に重々しいフリをして、彼女は腰を上げた。霧子が半分呆れた顔で、彼女の腕をとる。
「話は終わったわね。タクシー呼ぶから、ついて来なさい」
引っ張り上げた先、淡々と、女は二人、テーブルを後にした。空間から立ち退く間も、匡香の目線は幽冥に向いていた。
カランカランと、店の扉が閉まる。僕は徐に窓の外に目をやった。
「葦屋、ストーカー被害とかあったら警察に行くんだぞ」
先生がそう言って、煙草を咥えた。そのすぐ後、幽冥は立ったまま首を傾げる。
「ストーカー? 何で俺が?」
キョトンといつも通りの彼を取り戻したのを見て、先生は溜息交じりに煙を吐いた。
「……異常とはいえ、彼女には同情せざるを得んな、全く」
火を灯した先、先生は深く白い息を吐いた。独特の苦みが鼻から口を惑わせる。僕は副流煙を肺に流し入れながら、外を注視し続けた。
黒いワゴンの傍を匡香達が通る。その次には、ワゴンのドアが素早く開いた。コマ送りの要領で、場面は過ぎていく。匡香は見知らぬ大男に車内へ引きずり込まれ、それを阻もうとした霧子が路上に倒れ込む。ドアが開いたまま、車体は大通りを消えた。
一連の数秒後、周囲がざわつき始める。サラリーマンやら学生やらが、霧子の周りを覆い店内では警察に通報する者もいるようだった。
「幽冥」
僕は外に気付いて口を開いたままの彼を呼んだ。
「アイツが好きになったのは幽冥じゃなくて小清水だ。小清水とはもう会わないけれど、幽冥とは関わらないとは言っていない。よって、お前はこの質問に答えろ」
コクコクと勢いよく首を縦に振った幽冥の、そのズボンのポケットを、僕はフォークで示した。
「日比野の電話番号、持ってるよな」
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