盲点
第50話
警視庁の奥の奥、薄暗い廊下、お世辞にも居心地が良いとは言えない。しかし、薄い鉄扉の向こう、漏れ出るコーヒーの香りは、素人の僕にも素晴らしいものだとわかった。
「失礼します。嘉内です。立花さんいますか」
ノックと共に、空間に足を入れる。大学の研究室にも似た、雑然としたデスクが六つほど目に入る。その奥、コーヒーを持って、男が一人、こちらを見つめていた。独立した、やたらと置物の多いデスクには、"室長"と名が置かれている。男はそれに腰を落ち着けると、にっこりと口角を上げた。
「立花君なら、すぐに戻るよ。コーヒーでも飲んで、待っていると良い」
「ありがとうございます。室長さん」
僕は空いている椅子に体重を乗せた。室長さん――――警視庁異失物資料室の室長さんとは、実に四回目の対面だった。それでも僕はこの人の実名を知らないし、ここの室長がどんな仕事をしているのかを知らない。わかることと言えば、室長さんは立花さんの直属の上司で、怪異に関する犯罪を"どうにかして"”一般的な事件”に加工し、公表できるようにしている、ということぐらいだ。
先生はこの人には大人しく従うこともあるし、葬儀屋の女社長と旧知の仲とも聞いたことがある。ただ、後者とは犬猿の仲で、人材を取り合っては、お互いに態々正式な手続きをした上で苦情を申告し合ったりしているらしい。
そう、国家組織でありながら、人材を取り合うのだ。何をとち狂っているのか、あの葬儀屋と。それ程に、特殊な場所だった。
だから僕も先生も、協力を断ち切れない。先生と僕の怪異憑きないしは怪異としての存在意義は、真実を究明することにある。だがここは違う。民衆の安全を謳って、出来る限り怪異を隠蔽することが、彼等の正義なのだ。故に、根本的には力を貸したくはない。けれど、国家組織の持つ特権を借りるには、ほんの少しだけ、信念を曲げる必要があった。このコーヒーも、その一つだった。
そして何より、団体の掲げる理念と、個人の思想は容易く乖離する。僕と先生が協力しているのは、資料室ではなく、主に立花さんに対してだった。デスクを見れば、立花さんがどんな人物かよくわかる。出鱈目のような分類のファイルは、実際には自分の手がどのように動くか、精密に思考した上で配置されている。私物と業務用品が混ざってはいるものの、そこに理論と正確性を感じる。立花竜胆とは、そういう人だった。一見して不作法で、だがその芯は真っ直ぐすぎた。それこそ、一人の一般人としては、使い物にならない程に。
「待たせたな」
唐突、背後から件の男の声が聞こえた。
「いえ、美味しいコーヒーが飲めて、得しましたよ」
「そりゃあ良かった」
真夏日、着込んだスーツの隙間からは、じんわりと汗が見えていた。
「韮井さんはどうした」
「先生は七竈君の義妹さんの保護と、七竈君の正体暴きに」
「正体暴き?」
「本人に自覚を持たせた方が、良いんだそうです。自分がそういう存在で、何処に向かうよう仕向けられているのか。周囲……家族とか、葦屋君みたいな、友達、とか。関わっている人を自分で判断できるように……――あれ?」
ふと、違和感に気付く。僕の口は、自然と、一人の青年の名を唱えていた。ついさっきまでは、塗り替えられて、出て来ることさえなかった名前。
「葦屋……葦屋幽冥……何故? 今、解いた?」
怪異の、その事象が、現実に帰した。僕の知らない所で、彼はその認知を収めたらしい。
「葦屋幽冥がどうかしたのか」
立花さんは、不思議そうな表情でこちらを見ていた。"小清水"君を知らない彼は、元々その認知の歪みの中にはいない。
「説明が難しいんですけど、事が動いたっぽいです。先生、葦屋君とも会えたのかな、多分」
「元々とっ捕まえる予定とか言ってなかったか」
「それも含めて僕が情報欲しさに、ここに来たんですよ、確かに。事情によっては、脅されてたりするなら、助けてあげたいですし」
「じゃ、ちょっと空回りってわけだ」
「多分、そうですね。うーん、立花さん、一緒に先生と合流しませんか。葦屋君、フィジカル的に多分、先生と僕でも対処しきれないんで」
僕の提案に、彼は一呼吸置いて、そうだな、と頷いた。その手にあった厚い封筒を手に、立花さんは車の鍵をポケットへしまった。それと同時に、立花さんは、そうだそうだと、思い出したように宙を見た。
「七竈……義兄の方な、こっちで調べたことを説明してみたんだが、納得してくれなくてな。少し大人しくしてもらおうと思って、さっき一発ぶん殴って車の中に入れてある。相乗りだが勘弁してくれ」
「大丈夫です、僕は」
こういった思い切りの良さも立花さんらしいといえば、そうだった。その粗暴さは、警察官として案外利用価値があるものらしい。上司である室長さんも、穏やかな表情を崩してはいなかった。
「立花君」
室長さんは、ゆるりとその表情のまま、立花さんと目を合わせた。
「夜咲のことにはあまり首を突っ込まないでね。調べるだけ。解決、真相究明は望まないように」
良いね、と、彼は笑う。
「どうしてですか」
自然と、口が動いた。室長さんは僕を見て、その口角を落とした。
「それは私達の仕事ではない。それだけだよ」
何より、と言葉を挟んで、彼は光の無い瞳を立花さんに見せる。
「部下を殉職させたい上司なんて、そんな人でなしではないからね」
そう言って、室長さんはまたコーヒーを口に含んだ。僕は立花さんと顔を見合う。どうやら僕達は、死を予期される程のことと、対峙させられているらしい。
ならばより一層、先生を一人にさせてはいけない。僕の足は極自然に、廊下へと向かっていた。
――――突然に、僕のスマホが鳴った。画面には、先生の名前があった。
それと同時に、インターネットのニュース速報が、一人の女性が拉致されたことを報せていた。
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