第34話

 ふと、義兄が顔を上げた。


「ハラヤ、そろそろ時間だ」


 病室の時計を見る。既に正午を過ぎようとしていた。


「じゃあ、時間切れということで」


 そうして、立花と目を合わせた。彼は頷くと、比較的小さく口を開いた。


「また出直しだ」

「今度顔を合わせるときは、二人きりでも構わないよ」

「偉そうに」

「下に出る理由が無いんでね」


 ベッドから降りると、霧子と数センチの距離で対面する。近くで見る彼女の印象は、大人びた少女にも似ていた。


「小清水、反省してる様子でしたよ」


 そういえば、と僕が付け足すと、霧子の眉が中央に寄った。


「そう、それは良かったわ。彼にも宜しく言っておいて」


 言葉に僕も頷きつつ、義兄からスマホと財布を受け取る。淡々とベッドの周囲が片付いていく。黒い死人は僕の中に再び隠れていた。

 看護師としての矜持か、霧子が丁寧にリネン類をはぎ取っては畳んでいく。それをひっそりと棗が見つめていた。痛ましい包帯が、彼の遠い退院日を示している。


「棗」


 僕が呟くと、彼は柔らかな小動物のように首を傾げた。


「また」


 小さな僕の手でも、棗の頭を包むには十分だった。彼の肩が、一瞬だけびくりと震えた。反射的に、肘が浮いた。僕はそのまま引いた手を病室の扉にかけた。

 温い廊下の空気が、顔を撫でた。熱の次にやって来たのは、僅かに聞こえる、外界の人々の声だった。

 目線の少し先から、老医――――稲井医師が歩き、僕の下に向かってくるのが見えた。


「お加減は如何ですか」


 顔を見るや否や、彼は僕の全身を舐め回す様に見る。昨日、目の前で嘔吐と鼻血の狂乱を披露したのだ。この反応も納得だった。


「悪くは無いです」

「もう外に出るおつもりですか」

「まあ、退院の時間ですし」

「そう、ですか。それは少し困りましたね」


 稲井医師はそう言って、下顎を撫でた。目を伏せながら、彼は再び重々しく口を開く。


「どこから漏れたのか、病院の前にマスコミが押し寄せているんです。退院する貴方に話を聞きたいと」

「え、そんな、人払いはした筈ですよね」


 義兄が、僕の背後で声を上げる。着替え等が入ったリュックサックを抱えたまま、彼は稲井医師と問答を繰り返す。二人の話は平行線を極めていた。門前で待ち構えている人々を、病院ではどうすることも出来ない。警察を使うにしても、そう簡単には動かないだろう。

 いつの間にか僕は、それなりに有名人になっていたらしい。


「義兄さん」


 僕は義兄の肩を叩いた。


「喉が渇いた。自販機行ってくる」

「あ、あぁ、そうか。行ってらっしゃい。ナースステーションで待ってるよ」


 義兄の応答を待つことなく、僕は彼に背を向けて歩き出していた。

 幾つもの病室の扉があった。僕はそれらを数えながら、壁を撫でた。規則的な並びが、何よりも心地よかった。

 その中で、一つだけ、不規則にも、扉の無い部屋を見つける。機械的なLEDの白さが、外に漏れ出ていた。音こそ無いが、販売意欲の点滅が、目に毒だった。

 煙草の販売は無いかと近寄るが、部屋に足を踏み入れた瞬間に、敷地内全面禁煙のポスターが目に入った。そういえば、ライターも無い。そもそも、買ったところで楽しむことは出来なかった。

 僕は諦めを肩に落として、千円札を機械に吸わせた。目の前にあった、コーラのボタンを押す。


 出て来たのは、一つ上にあった缶コーヒーだった。


 ジャラジャラと小銭が吐き出されていく。僕より先にボタンを押したのは、僕の背後から延びる、入院患者とは思えない健康的な腕だった。その腕は、僕の隣に屈んで、取り出し口から缶コーヒーを拾い上げる。


「ごめんごめん、つい手が出ちゃった」


 言葉に反して、嬉しそうな表情を浮かべる。それは、黒く生気も感情も無い目を細める、日比野だった。

 彼は、返すね、と口角を上げると、左てに五千円札を見せつける。


「どうして、ここに」


 僕は裸の樋口一葉をポケットにねじ込んだ。表情を崩さない日比野は、二秒だけ考えるふりをした。


「君が大変なことになってそうだったから、とか」

「今日、昼、ピンポイントでか」

「うん、今日の昼頃、退院したくても出来なくなってそうだなー、って」

「……嫌われるぞ、お前」

「そう? こう見えても結構女の子にはモテてるよ、僕」


 少なくとも僕には嫌われだしている。が、僕はその言葉を飲みこんで、息を吸い直した。


「それで、お困りかな。七竈君」


 日比野が、僕の鼻を突く。その指が唇に向かおうとした。噛み千切ってやろうと口を開けると、彼はすぐに手を引いた。


「……そうだな、まず、腹が減った。それと、ヤニ切れだ。何でも良い。ニコチンが欲しい」


 日比野は、パッと口を大きくして、笑った。


「じゃあ、一緒に焼肉食べに行こう。個室を予約してある」


 意気揚々と、彼は僕の腕を取った。近くに人の気配は無い。僕達二人は、廊下を早足で進んだ。


 暫くすると、日比野が徐に「非常用」と書かれた看板の下、赤いボタンを押した。同時に、けたたましいサイレンが鳴る。

 僕達はそのまま走り出し、病院職員達に逆流して、階段を下りた。一階の、ふと目に入った窓を開けて、日比野が飛び出る。吹き抜ける風が、停滞した院内の空気に混じって、心地よかった。ずっと握られている彼の手に引かれるまま、僕は続いて地面に落ちた。


 敷地の木々を掻き分ける。広がった裏道に、黒いワゴンがひっそりと停まっていた。

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