第14話
陰鬱で腐った肉のようだった葬儀屋から、一歩足を踏み出す。妙な疎外感と、夏と呼ぶにはもどかしい程度の熱。夕刻の日差しは、こんなにも暗いものだっただろうか。
「それで、これからどうする」
先程まで言葉の一つ一つを躊躇っていた小清水が、外の空気を飲み込むと、そう笑った。彼があれだけ静かなのは、珍しかった。それだけあの空間が重く、小清水にとって悪いものだったのかもしれない。
「今度もう一度、先生に聞こうと思うよ。正直言って、葬儀屋よりも先生の方が僕の状態について見当がついている気がする」
やはり、韮井先生の方が、ある程度信頼がおける。何よりあの空間に二度と放りこまれたくなかった。
そんな僕を見て、小清水と霧子が少し驚いたようだった。小さな赤い唇を霧子がひっそりと動かした。
「あら、貴方知らなかったの」
「何をですか」
「韮井さん、今、行方不明よ。貴方が倒れたその日から、誰の連絡もつかないの。担当していた講義も無断休講らしいわ」
ただ、驚いた。病院で外からの情報を殆ど受け付けなかった間に、先生はいなくなっていた。
「何かあったんですか」
「わからないわよ。でも、何れ帰ってくるでしょ。こういう手合であの人が失敗したこと、ないんだから」
霧子がそんなことを言って、僕を笑った。行方不明という言葉に、重みを感じていない。さもいつものことだとでも言うように、彼女は先生をそう語った。
「霧子さんと先生はお知り合いなんですか」
「そうね、韮井さんには何度かお世話になってるわ」
「それは……大学で、ですか」
「そうじゃなくて、韮井さんは昔、葬儀屋の社員だったのよ。唯一の良心だったわ」
成る程、そうであれば先生が僕に葬儀屋を紹介したのも納得がいった。先生は、かつての職場であれば、解決が出来ると、まだ信じていたのかもしれない。
「だから今回も、貴方のために動いてくれてるんじゃないかしら」
霧子は少し満足げな表情でそう言った。彼女と先生の間に、何があったのかは、それ以上踏み込みたくなかった。ただおそらくは、彼女もまた、何かこういった怪奇事件に巻き込まれたのだろう。
僕は先生の過去を知らない。先生が今何をしているのかも知らない。
霧子は道中、何度も、いずれ帰ってくると唱え続けていた。小清水も僕も、その度に顔を合わせた。次第に、覚えのある道に出る。駅前まで来ると、霧子がふらりと僕達を見た。
「それじゃ、また何かあったら」
そう言って、彼女はスマホを差し向ける。連絡先の交換を済ませると、あっさりと霧子は駅の構内に消えていった。何処までも軽く、そして鋭い女性だった。
僕と小清水は画面にスマホの表示されている霧子の連絡先を見つめ合う。小清水が、やっとのことで飲んでいた息を吐き出した。
「……夕飯、食ってくか。退院祝いにでも奢ってやるよ」
「いや、胃が小さくなってるからあんまり食べれないし、そのまま帰りたい」
僕の返答に、眉間を寄せつつ、わかったと小清水は呟いた。僕を支えるように、彼は歩き出す。暫くして、僕達のアパートが見えた。これと言って何も変わらない、少し古びたアパート。数日ぶりに帰る我が家の玄関に、僕は少しだけ緊張していた。
素っ気なく開いた扉に、息を飲んだ。
「じゃあ、また明日」
小清水が隣からそう声をかけた。僕が返事をする前に、彼は自分の部屋に入ってしまう。僕は開いてしまった口をそのままに、自分の部屋へと足を踏み入れた。
緊張感は、相変わらず開いたままの冷凍庫によって解される。ここは現実で、確かに僕の部屋だった。少しも変わらない、小汚い学生の部屋だ。
ふと、ガタリと自分の背から音がした。隣人である小清水が、自室であの本の山でも崩したのかと思ったが、そうだとしても近すぎる。僕はゆっくりと後ろを振り返った。
吐き出す息が、共鳴していた。鼻でゆっくりと、唇を噤んで、僕達は息をしていた。
「……先、生」
僕の後ろで、ひっそりと佇んでいたのは、韮井先生その人だった。涅色の瞳が、こちらをいつもよりも優しげに見ている。
僕はホッと息を乱した。足で冷凍室の戸を閉めて、僕は冷蔵庫に寄りかかる。
「どうやって入ったんですか」
「鍵を閉め忘れただろう。開いていた」
「あ、確かに」
思い出してみれば、僕は鍵をし忘れていた。いつもであればチェーンまでしっかりと入れるが、すっかりと抜けていたのだ。
先生はいつものような溜息をついた。行方不明になっていたにも関わらず、先生の姿は何も変わりないように見えた。
「先生、何処に行ってたんですか。行方不明だって聞いたんですけど」
「大袈裟だな。少しフィールドワークに行っただけだ」
「そりゃあ、先生みたいな真面目な講師が無断休講すれば行方不明だってなると思いますけど」
「真面目だという自覚は無かったんだがな」
先生は似合わない笑顔で、ハハッと笑う。
「……先生」
僕が目を見据えると、先生はピタリと動きを止める。表情は床に落ちていた。
「何処に、行ってたんですか」
再度の質問。焦点を歪めるなと、僕は心の中で唱える。先生にそれが伝わっているかはわからない。けれど、先生は表情を失くしたまま、唇をゆっくりと動かした。
「お前の実家に行った」
膨らんだり萎んだりする、先生の細い首筋が、嫌に部屋の中で目立つ。僕はいつの間にか、緩い空気を吸う自分の気道を、自分の手で撫でていた。
「お前、私に嘘を吐いたな」
先生は一転して、僕を睨んだ。小さな気泡が、自分の喉を通ったのがわかった。
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