第13話
茶を啜る八百原が、うんうんと頷く。その表情が一瞬たりとも曇らない様子が、やはり不気味で、日常的でありながらも、非日常たると思えた。
「不思議ですねえ」
八百原の口から溢れたのは、そんな軽い一言だった。僕をじっと見つめると、ころころと笑いながら、彼女は菓子を摘む。
「韮井君からも聞いていましたが、貴方が見舞われている現象は、怪奇的で恐怖に満ちていて、それでいて不可思議です。貴方は怪異に憑かれていると言うにふさわしい」
聴き慣れない言葉だった。怪異、それは、僕が今まで生きてきた間には、触れてこなかったナニカ。
ふと、大学での先生の言葉を思い出す。先生は僕に、予知夢を見たことがあるか、そういった不思議なことに関わったことがあるか、と問いを溢していた。その上で、先生は、この葬儀屋を紹介したのだ。先生は何か知っている。その、知っている先が、この八百原という女であると、直感する。
彼女は黙っている僕を見て、湯飲みをおいた。
「怪異とは、死や生、感情、記憶といった、概念的でありながら、物質的な性質を持つモノを観測した結果の副産物のことを言っています」
抽象的で分かりにくい言葉だった。哲学に近い、具体的だが複雑な言葉選びになっている。
「要は怪奇現象ですよ。都市伝説だとか噂話から生み出される空想ではなく、現実に存在するもの。人の想いや歴史が作った、観測に条件がある、特別な存在ではありますが」
「つまり、幽霊とか、神様?」
「そんなようなものも含んでいます。宗教や歴史、誰かの死を踏襲して存在する、というものなら」
小清水の一言で、なんとなく僕もそれを掴めた気がした。ここにこそ現れないが、病院で目を合わせていた和泉恭子は、幽霊と呼べる存在だった。
「僕は、和泉恭子さんの霊……怪異になった彼女に取り憑かれているということですか」
「何故そう思うんですか?」
「……病院で、天井に張り付いて僕を見ていたのは、彼女だったので」
八百原は僕の考えを舌で転がすようにして、また微笑んだ。
「そうですねえ、そんなことがあったなら、そう考えても良いと思います。ただ、貴方の夢と彼女は直接は関係ないと思います。今のところは」
彼女は指を僕に向ける。長い爪が、手の一部に見える鱗が、彼女と自分自身の異質さを、僕に提示していた。
「もっと貴方の奥底の部分。そう、フロイトが発見した無意識だとか、深層心理、だとかの、そういう自覚無き世界のこと。そういう部分が、人食いの彼と繋がってしまっているのではないでしょうか」
「人食いの、彼?」
「そう、だって貴方の夢に出てくるのは、その彼なのでしょう? 最初の夢も、貴方は彼の目線で和泉恭子さんの死体を見ていた。猟奇的経験を加害者目線でリプレイするということは、それをするだけの素養が、貴方にも備わっているということ、ですよ」
「それは……」
「私は韮井君から聞いた話や、貴方の様子を見て言っているだけですから、可能性の一つでしかありません。ですが、案外、当たっているのではありませんか?」
だって、と、八百原は笑う。
「貴方、人を殺めたり、食べたりするのがお上手に見えますもの」
妖美な口元と指先が、酷く穢らわしく感じた。戯れで言っているようには見えなかった。本心からそう思っているのだろう。ただ、それは僕にとっては、深く腹立たしいものだった。僕は人を食べるなんて野蛮なことはしない人間だ。
「僕はカニバリストではないです」
「あら、そうだったんですか」
軽々しい口が、僕の瞼を痙攣させる。苛立ちが胃から喉の奥まで出かかっている。不快だった。感情を撫でまわされているようで、癇癪でも起こすようだった。
何だか、感情の流転が激しい。自分がまるでわがままな子供のようで、上手くいかない制御に嫌気がさし始めていた。
「そう怒らずに。私は貴方を愚弄しているわけではないのですから、ね」
八百原は手を合わせて、幼子でもあやすように僕に放つ。どうも自分が彼女の口の中で転がされる飴玉のように思えて、僕は黙ってその言葉の続きに耳を立てた。
「我々の方でも、その人食いの方を調べてみましょう。それなりに良い宛てがあります」
「警察に通報でもするんですか?」
小清水が首を傾げると、八百原がまた鈴のように笑う。
「いいえ、彼らでは解決できぬことを解決するのが葬儀屋ですから。寧ろ、彼らから頼まれる方なんですよ」
ころころと特徴的な声は、口を開く度に人間味と怪物のような印象を帯びて、水分を吐き出す。最初にこの部屋に入った時よりも、この女が喋るときは、妙に湿度を感じていた。
「まあ、暫くお待ちください。解決出来そうなことがあれば、追って連絡いたしましょう。えぇ、是非に、是非に」
「暫くっていうのはどれくらいですか」
「分かりません。今日中かもしれないし、明日かも、来年かもしれません。ですが、ちゃんと進捗はお話ししますよ。韮井君を通じてではありますが」
その不明瞭な予定表に、なんの意味があるのかと、僕は口を噤んだ。その唇を舐めとるように、ずっと静かだった和泉霧子がため息混じりに吐く。
「要は普通の怪異に憑かれてるわけじゃなくて、もっと面倒なことになってるから、現状どうすることも出来ませんってことよ」
彼女はテーブルの隅に置かれていた煙草に火をつけて、煙を飲んだ。ライターを無造作に放り、八百原を睨む。
「というかコイツ、今後アンタの夢か何か、酷使して仕事でもさせる気よ。気を付けなさい」
「……僕をここに連れてきたの、貴女ですけど」
「だから謝るわ。まさかこんなに使えないとは思ってなかったから」
煙を吐きながら、霧子は眉間にシワを寄せる。その様子を煙に捲かれながら、八百原は、茶を飲んで濁った瞳を更に濁らせ細める。
死臭で吸うのも憚られていた空気が、より悪くなっていく。小清水の血の気の引いた顔を見て、僕は副流煙を求めて深呼吸した。
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