家出娘と逃亡者
リースタンの市環都市は、逆さの弓形を描いている。
内にあるのは
クラン・クラインは陽光に目を瞬かせた。抜け出した建物が王国議事堂だったとは。ならばここは
ほんの少し思案して、クランは街の東を向いた。
中央を南下する中央大路を境に、北東に伸びる市街を東翼、北西を西翼と呼ぶが、街の補給を担う雑多な界隈は、確か東翼の端にあったはずだ。脚と食事を調達するなら、おそらくそちらが向いている。
中央大路の検問は、議事堂の青年ほど甘くない。
ぶらぶらと歩く左手の壁は、王族の住まう
硬く加工の難しい石材を基盤に残し、魔術の進歩と共に生成された軽量石材とセメントが、表面を幾重にも加工、装飾していく歴史の跡が見て取れた。もっとも、クランにそれを愛でる尊さはない。
もとよりクランの審美眼は不良品だ。価値の基準が人とは合わない。せめて値札があれば別だが、付いていれば道端の石でも愛でるだろう。小屋に残した備品も、正直、玉石混交だった。
昼の日射しに目を眇め、クランは所在なげに通りを歩く。せめて昼食の後に逃げるべきだった。
ふと、官憲の集まる独特の気配を感じて、クランは振り返った。議事堂周辺に衛士が呼び寄せられている。旅装束は目を惹くはずだ。辺りを見渡し、飾り壁に遮られた細い路地に入った。
人が辛うじて擦れ違えるほどの隙間で、高い
他の市環と同様、
飾り壁の隙間や後ろを伺いながら、クランは足早に路地を抜けた。いま捕まれば飯が遠退く。そのとき不意に、目の前に何かが落ちた。危うく毛躓きそうになる。見れば鞄のようだ。
どこから、と見上げれば、裾の膨らんだ白いパンツに紅いブーツがぶら下がっている。高さは大人ふたり分ほど、そんな所で、じたばたと藻掻いている。どうやら足場を探しいるようだ。
壁に開いた穴に半身を掛けているのだろうか。嫌な予感しかしなかった。
クランが避けようとしたとたん、それが降って来た。殴られたように息が詰まる。逃げ損ねたのか、受け止め損ねたのか、自分でもよくわからない。クランは小さな尻と悲鳴を抱えて石畳にひっくり返った。
「大儀である」
少女は屈託のない笑顔でそう言った。一拍の間まじまじと見つめ、押し退けるように追い払う。身体を起こして咳き込んだ。少女は立って埃を払うと、鞄を拾って斜交いに掛けた。
壁を見上げると、先にはあった穴がない。あるのは自然な石の繋目だけだ。頭の中に警報が鳴り響く。文字通り、面倒事が降って来た。不意に袖を掴んで引かれ、少女に視線を曲げられた。
「見てはならん、早々に忘れるのだ」
よくて一〇代も前半か。頭巾に覗く大きな蒼い螺鈿の瞳と、つんと上を向いた鼻が、見るからに快活で生意気そうだ。目線が合って驚いたのか、少女は急いで頭巾の縁を引き下ろした。
見たくも会いたくもなかった。クランにとって、運命は二番目に嫌いな言葉だ。壁に消えた開口は、この街に張り巡らされた隠し通路に違いない。王印と呼ばれる認証で動く、王族専用の仕掛けだ。
ふと気配を感じて背に目を遣った。壁に沿って弧を描く路地の向こうに、衛士が覗き込んでいる。クランは少女にくるりと背を向け、足早に歩き出した。走って注意を惹かぬよう慎重に離れる。
「待て、なぜ逃げる、さては怪しい者か」
少女が小走りについて来る。
「壁から出て来て何を言う、おまえの方が怪しいだろうが」
言い捨て、背中を振り返ると、衛士が覗き込むように背伸びをしている。通りに向かって、仲間に手招きをした。振り返って気づいた少女が、何故か身を縮めてクランの隣に並んだ。
走れば少女も並走する。
「我を怪しいとは無礼が過ぎるぞ」
駆け足に息を途切らせながら、少女が噛み付いた。
「おまえだって逃げてるだろうが」
「我はこちらに用があるのだ」
装飾壁の隙間に、通りすがりの荷馬車が見えた。こちらに向かって走って来る。
荷車が過ぎると同時に、クランは通りに飛び出した。後ろに回って荷台を掴む。歩調を計って踏み台に足を掛けようとした瞬間、縁を掴んだ手の間に、すっぽりと頭巾が潜り込んだ。
少女に押されて手を放しそうになる。
「ひとりだけ、ずるいではないか」
荷車を押して走るような恰好のクランを尻目に、先に踏み台に這い上がり、荷台に登ってクランを見おろした。勝ち誇ったように笑う。ふと、クランを見つめて首を傾げた。
「貴様、どこかで会ったか?」
クランが荷台に這い上がるや、すぐ傍を衛士が走り過ぎた。荷車が視界を遮ったせいで、二人が通りを渡って逃げたものと思い込んでいる。クランと少女は互いに口を押さえて身を縮めた。
衛兵たちが明後日の方に駆けて行く。荷馬車は引き離すものの、いつの間にか衛士の数が増えていた。通りに出た四、五人が辺りを見渡している。何気にひとりが荷馬車を振り返った。
小馬鹿にして笑う二人と目が合った。
「しまった、追い掛けて来たぞ」
逃げ場を探して少女は路面を見おろした。いま飛び降りると怪我をしそうだ。クランは少女の肩越しに、荷台の奥を覗き込んだ。並んでいるのは大きな樽だ。揺れて縁が鳴っている。
どうやら空樽を積んで中央大路に向かうようだ。定期の回収便かも知れない。
少女を押し退け、クランは荷台の縁を探った。端の掛金に手を伸ばす。意図を汲んだのか真似たのか、少女も反対側の掛金に飛びついた。思ったより固い。縁に足を掛け、思い切り引く。
外れた。撥ねるように垂れた後あおりと一緒に、少女が街路に転がり落ちそうになった。クランが危うく腰を抱え、そのまま少女を荷台の奥に放り込んだ。端に寄れと掌を振って合図する。
クランはそのまま片端から、空樽を蹴り倒し、引き倒し、荷台の床に転がした。ふと通りに目を遣ると、駆け寄る衛士と目が合った。衛士に向かって笑いかけ、クランは少女を抱えて御者台に駆け込んだ。
「大変だ、荷台が開いてるぞ」
クランは御者の耳許で大声を上げた。荷台の騒々しさに振り返ろうとしていた御者は、事態に気づくというよりも、クランの声に驚いて急制動を掛けた。
横倒しになった樽が一斉に荷台を転がった。樽の留め金が石畳に跳ねて火花が散った。追いついた衛士が悲鳴を上げて、右に左に逃げようとして転んだ。蛙を踏むような声が響いた。
思わず荷台を振り返り、御者はカクンと顎を落とした。急制動に張り付いた少女を抱えて、クランは御者台を跨ぎ越した。何ごとかと集まる人波を擦り抜け、建物の裏手に走り込んだ。
一見、周囲に衛士の姿はない。クランは路地に駆け込み、息を整えた。ふと、少女を抱えたままだったのを思い出した。見れば、きらきらとした螺鈿の瞳が、クランを呆然と見上げている。
「何で一緒に逃げてるんだ」
今更ながらそうぼやき、クランは少女を放り出した。
「何を言うか、貴様が我を攫ったのだ、これは誘拐だ」
少女は、つんとクランに目を遣り、小声で責めた。
「洒落にならんことを、」
思わず声を上げそうになり、クランは路地を覗き込む人目を警戒して声を潜めた。
「言うんじゃない」
幸い注意を惹くようなことはなかったが、クランと少女は互いに口をへの字に曲げて睨み合った。とはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかない。路地裏に潜むのは一時凌ぎだ。
クランは辺りを伺いつつ、裏道を渡って二つ向こうの筋に出た。市門の近いこの辺りは、人の通りもそれなりにある。長衣の襟を口許まで引き上げ、何気に通行人を装って歩き出した。
少女も慌てて、見真似に頭巾の縁を下げ、クランの隣を小走りについて歩く。
「ついて来るな」
「貴様が勝手に前を歩いているのだ」
少女がいー、と歯を剥いた。その尖った八重歯を引っ張ってやろうか、と睨みつつ、クランは足早に歩く。辺りが広く見渡せる分、衛士の姿は見つけ易いが、それは相手も同じことだ。
「そうだ、貴様の名は何という」
少女が並んでクランを見上げる。問うてから気づいて、遮るようにクランに掌を向けた。
「おっと、我の名前は言えない、今は世を忍ぶ身なのだ」
一拍、ポカンと少女を見つめ、クランは生意気な蒼い目の上の頭巾を摘まんで引いた。
「いや、キャスロード殿下であらせられるだろ」
「ち、違う」
少女が慌ててクランの手を振り払う。
「殿下」
「殿下じゃないのだ」
ふい、と横を向いて拗ねてしまった。
王族専用の隠し通路から降って来たからには、正体は隠しようもない。さすがのクランも王女キャスロード・ラスワードの名は覚えている。苦笑いもそこそこに、クランは意地の悪い視線を投げた。
「宮殿はそんなに窮屈か?」
朱い頬してクランを睨むと、キャスロードは口を尖らせた。
「そうではない、これは意思表示だ」
フンス、と鼻息を荒くする。
「そう何でも思い通りにならぬと、皆に思い知らせてやらねばならん」
それは逆ではないのか、との言葉を飲み込んで、クランは半端な笑みを返した。
「それはまた、大ごとだな」
「大ごとだとも、このままでは授業がまた増える、しかも今度は魔術の授業だ」
茶化すのも憚られるほど、キャスロードの表情は真剣だ。
「魔術が嫌いなのか?」
クランが問うと、キャスロードは鼻を摘ままれたような顔になり、口籠った。
「我には姉上のような資質がないから」
小さな声で呟く。恐らくエルダリアのことだろう。歳の離れた腹違いの姉姫だ。確かに魔術は使えたが、確か領国に嫁いだと聞いた。リースタンの王族なら、魔術くらいは嗜むべきだと囁かれでもしたのか。
「否、けして資質の問題ではない」
振り切るように鼻息荒く、キャスロードは胸を張った。
「これ以上の授業は阻止せねばならぬ、我の尻が椅子にくっつく前にな」
「断ればいいだろう」
軽くあしらうクランに向かって、キャスロードは小馬鹿にしたような視線を投げた。
「世間を知らんな貴様、物事には根回しが必要なのだ」
フ、と訳知り顔で肩を竦めて見せる。クランの口許が引き攣った。何となく腹が立つ。
「なので、昨日は講師の屋敷を急襲してやった、あいにく、逃げられてしまったがな」
つまり、手続きとやらは無視したようだ。
「ところが、今日になって、のこのこと現れたらしいのだ」
衛兵隊に拉致されて、だが。
「みなサルカンの手前、無理やり講師に就ける気なのだ、粗末な小屋を屋敷と称するような詐欺師なのにな」
「それは大変だったな」
クランの相槌は御座なりだったが、昂ったキャスロードは気づかない。当然、額の青筋も見逃した。クランはふと、馬立ての柵を見つけて足を止めた。辺りを見渡し、人通りを確かめる。
「鞄を貸せ」
キャスロードの頭巾に身を屈め、クランは策あり気に囁いた。きょとんとした表情ながらも、キャスロードは素直に帯を頭を潜らせる。クランは鞄の留め金を確かめて、手早く外すと帯を拡げた。
キャスロードの身体を柵に突いて、覆い被さる。
「何をする」
キャスロードが驚いて声を上げた。背中が馬立てに押し付けられ、お腹がぐいと締められる。気づけば身体が動かなかった。鞄の帯が柵に通っている。抗議が、きゅう、と息になった。
「魔術師ではないが、詐欺師でもないな」
一歩ひいて腰に手を当て、クランは、じたばたともがくキャスロードを眺めた。
「それに、粗末な小屋とは無礼千万、あれは正真正銘、俺の屋敷だ」
キャスロードがポカン、となった。
「貴様、まさか、もしや昨日の」
クランはキャスロードの頭巾を払って、愕然とした顔を晒した。頭を軽く叩いて、髪をくしゃくしゃにする。クランはすう、と息を吸い込み、通りに向かって声を張り上げた。
「ややや、王女殿下がこんな所に」
通行人が一斉に振り返った。遠くで跳ねるように飛び出したのは、どうやら市警か宮廷衛士だ。王国議事堂から逃げ出した学士よりも、家出した王女の方が重要なはずだ。
「おのれ、おのれ、謀ったな」
キャスロードが真っ赤になって叫んでもがく。しかし、鞄の帯は外れない。
「安心しろ、俺も殿下の教師など御免だ、あと、勉強は真面目にやれ」
キャスロードにそう囁くと、クランは集まる人々に紛れるように後ろに下がった。長衣の襟を再び引き上げ、駆けて来る衛士に顔を背けて、クランは何食わぬ顔で通りを歩き去った。
「おぼえておれー」
人垣の向こうから、キャスロードの悔しそうな声が聞こえた。
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