魔術師会議

 クラン・クラインは呆けていた。硬い椅子の背に仰け反って、溶けたように天井を眺めている。起き抜けの跳ねた髪、どうしようもなく重い瞼。考えることを放棄して、所在なく椅子を軋ませている。

 面白味のない狭い部屋だった。あるのは長机と、それを囲む数脚の椅子だけだ。見張り付きの簡素な宿を明け方に連れ出され、この部屋に閉じ込められてから暫く経つ。その間、ずっと夢うつつだ。

 無理やり馬車に押し込まれ、王都に連行されたのは夜半のこと。いくつ市環を潜ったかは覚えていない。ただ、ずいぶん奥まで来たのは確かだ。建屋の厳めしさを見ても、王城に近い内環だろう。

 狭い馬車の中、ぎゅうぎゅうと両脇に詰めた衛士は、終始むっつりとしていた。質問も雑談も空回り、状況は何もわからないままだ。気づけば隣の衛士を枕に、すっかり眠りこけていた。

 涎まみれの制服の肩と、泣きそうな衛士の顔を見て、ほんの少しだけ気が晴れた。だが、記章を見るに市警ではなく、宮廷衛士とそのとき気づいた。魔術師がらみの気配はするが、違法施術の嫌疑ではないらしい。

 そうなると、面倒な可能性だけが手元に残った。あまり考えたくはない。

 ふと、クランは扉の外のやり取りに気づいた。椅子を軋ませるのを止め、耳を欹てる。よくは聞き取れないが、何やら知った声が、この部屋には錠も監視も必要ない、などと理知的に説いている。

 声の主は、じき部屋に姿を見せた。

「クラン、クラン・クライン」

 彼の名を呼ぶ。道理で聞き覚えのある声だ。衛士の介添えで部屋に入って来たのは、ラエル・アル・ラースだった。モルダスの工房の魔術師で、記憶のままなら、今は宮廷に勤めているはずだ。

 ラエルはこの街の数少ない知人だ。

「久しいな」

 扉を閉じる衛士を横目に見送り、クランは十年ぶりの知己に目を遣った。輪郭が削げて鋭くなったが、穏やかな優男といった風情は変わらなかった。ずっと、目を閉じたままなのを除けば。

「治らなかったのか」

 クランはラエルの顔の前で無遠慮に掌を振った。どれくらいわかるのか問うと、ラエルは微笑んで、色以外は、と答えた。モルダスの下に配された際、魔術で知覚を編み上げたのだという。

「不自由はないよ」

 無数の針が形を写し取るように、周囲を感じ取ることができるらしい。最初は補完に過ぎなかったが、今ではこちらが主の知覚だと言う。自分なりに術式に手を加え、目よりもよく「見える」、とラエルは言った。

 視覚ほど遠景に届かないが、周囲の造形はわかる。日常の歩行に困ることもない。ただ、慣れない場所は、認識に少し時間が掛る。得られる限りは介添えも受けるようにしているらしい。

「魔術書だって読めるからね」

 ただ、範囲と精度が比例するため、インクの差異を読み取るためには、知覚範囲が極端に狭くなる。傍目には、指先で文字を読むように見えるそうだ。仕草の上でも、意味合いでも、事実とそう遠くはない。

「そんなになっても本の虫か」

 クランは目を細くして鼻を鳴らした。

「探求は魔術師の本分だ」

 ラエルは仏頂面を見せて言った。実のところ、弟子にも引き篭もりが酷いと嘆かれている。ただ、自分なりに節度はあった。宮廷の禄を食む以上、こうして公務を優先するのがその証左だ。

 ラエルが自ら出向いたのは、クラン本人の確認と共に、恐らく何の説明もなかったと見越してのことだった。急場の手配で衛士隊に招聘を任せたが、実は彼らも事情を知らされていない。

 面倒と思えば、クランは姿を消すだろう。

 そんな性分を思い知っているのは、ラエルが一〇年前の当事者だからこそだ。クランが宮廷を上げての式典をすっぽかしたせいで、陛下の御前は針の筵だった。今回こそは、その二の舞を避けたい。

「一〇日ほど前、モルダス老師が行方不明になった」

 単刀直入、ラエルは事のあらましを切り出した。失踪の原因は不明だ。これ以上告げる内容も持ち合わせていない。暴風の痕のような魔術師塔の執務室は、今も手掛かりを探して捜査中だ。

「いつものサルカンの気まぐれだろ」

 クランは気にする風もない。

 変わらず権威に無頓着だ。例え魔術に携わらなくとも、御歳一二〇歳の大魔術師メイガスを呼び捨てにするのは、クランと王族くらいだ。もっとも、今さら諫めたところで直らないのはラエルも承知している。

「君じゃあるまいし」

 気づけば一〇年前と変わらない空気に、どこか苦しいものを感じながら、ラエルはクランの陥った状況を説明しようとした。そう、魔術師塔の執務室に、唯一残された書き置きについて。

 思えば、これこそ一〇年前のしっぺ返しだ。

「老師は、君を殿下の教育係に指名した」

 見つめ返すクランの視線を感じる。意外と怜悧なクランの眉根は、魔術の知覚に依らずとも、思い切り縦に寄っている。容姿の記憶は一〇年前で止まっているが、存外、変わっていない気がした。以前から、クランの齢はよくわからない。

「冗談だろ?」

 間を置いて、呻くようにクランは言った。異国の根無し草に王女の教師など。常識からすれば、馬鹿げている。だが、ラエルが告げたというだけで、冗談ではない何よりの証拠だ。それはクランにもわかっていた。

「老師から聞いてなかった?」

「知っていたら、ワーデンなんぞに来るものか」

 悲鳴のようなクランの答えに、ラエルは安堵とも諦めともつかない吐息を洩らした。モルダス老師もまた、油断のならない悪戯好きだ。クランを嵌めてほくそ笑む姿も、あり得るだけに恐ろしい。

「君の置かれた立場は複雑だ、知っての通り、この国の魔術利権は官民を越えて縺れ合っているからね、その上、王族と魔術の関係は、ずっと避けられて来た繊細な問題だ、あの事件以来」

 クランの長い指先が机を叩いている。

 苛立ちの手慰みか。否、思案の拍子だ。クランはきっと、惚けた顔で今よりましな選択肢を探しているに違いない。例えば、この部屋の外には屈強な衛士が待ち構えているのだろうか、などだ。

「そんな連中が俺を選ぶはずがない」

 考えるのが面倒になったのか、クランは仏頂面で呟いた。

「ところが、状況は五分なんだ、宮廷魔術師長が、王女殿下の魔術講師を選任して失踪した、この状況に災厄を予感しない者はいない」

 扉の打ち金が控えめに鳴った。

「ラース先生、義堂に午後の招集です」

 弟子だろうか、若い声だ。

 別室の会議堂には、魔術師会議の重鎮と宮廷の官吏が詰めている。クラン・クラインの処遇について、最後の一票を待っているところだ。クランの問う趨勢が、これで決着するだろう。

「少し外すよ」

 ラエルはそう告げて席を立った。向いで腰を浮かせた気配に、手を翳して留める。この程度なら介添えは不要だ。クランならむしろ、それを好機と逃げ出すか、会議に乗り込もうとするだろう。

 いずれ最悪の事態を招き兼ねない。

「おとなしく待っていて」

「もちろんだとも」

 この声は信用できない。ラエルは呻いた。絶対に逃げ場を探している。溜息と一緒に手を振って、ラエルはさっさと部屋を出た。戸口でアディ・ファランドが待っていた。彼はまだ軟膏の匂いがする。

 ラエルは手探りで外の錠を落とし、アディを会議堂に促した。取り急ぎ、部屋に衛士を呼び戻した方がよさそうだ。あの賑やかな日々に惹かれるのは確かだが、今はまだ時期が悪い。


 環を切り欠いたような会議卓に重鎮がひしめいている。政務に偏ってはいるが、みな魔術師だ。後ろに詰めた事務方も、大半が長い魔術衣姿で、一般の政務議会に比べれば少々個性が強かった。

 アディ・ファランドは卓を埋める要人にあてられ、緊張に蒼褪めていた。ラエルには有象無象の気配でも、周囲はひとり残らず格上だ。加えて、最後の目撃者として、皆に尋問を受けた後だった。

 緊張に強張る脚を叱咤しつつ、アディは前列に割り込んで、ラエルを席に導いた。師が座るのを見届けると、逃げ出すようにその場を離れた。小走りに扉を目指して人波を掻き分ける。

 先の控室に衛士を立てるよう、ラエルに命じられていた。だが、立ち見の事務方を掻き分けるのに手間取り、アディの目の前で扉は閉じた。厳秘の会議だ。勝手な入退場は許されない。

 焦って振り返るも、ラエルは遠い。卓の中で頭ひとつ高く見えるベリアーノ・キリク・アーデルトの向こうだ。この生真面目な宮廷魔術師次長は、背中に棒を刺したような姿勢を崩さない。

 アディはすっかり途方に暮れて、扉の前に立ち尽くした。

「書き置きの信憑性はともかく、クラインが魔術枠でないのは宜しいのか」

 定式の口上を省略し、会議は進んで行く。

 国家魔術師会議の重鎮が指したのは、檀の上に置かれた台座だ。そこには魔術師塔から削り出された床材が鎮座している。サルカン・アル・モルダスの書き置きと目される刻印だ。

 それがこの会議の発端でもある。

「そりゃあ、パルディオ師はカンカンだろう、史学と銘打つ講義が二枠もあっては」

「史学、まあ史学ではあるけれどねえ」

「いやはや、そのクラン・クラインなる者の本分は何なのです」

「話はそこからだ」

 重鎮の多くも一〇年前の事件に立ち合い、あるいは聞き及んでいる。だが、当時のいち学士までは覚えていない。その素性も、せいぜい、モルダス老と知己があったということくらいだ。

「クラン・クラインは禁忌学士です」

 アーデルトの落ち着いた声は、喧噪を割ってよく響いた。

「モルダス老師とは、その縁で交流があったと伺っております」

 知らぬ面々は置き去りにされた。アディや大半はそうだ。だが一握りの、それも国権を左右する一握りは息を呑んだ。皆はその気配に息を詰め、知らぬながらも不安に押し黙った。

「殿下に忌語りを充てるのは、尚早では?」

 焦るような、詰るような呟きがあった。

 会議の本題は、モルダス老の不在の中、殿下の講師を承認するか否かだった。それだけのことだが、重大事だった。こと魔術師の派閥にとって、王室御用達の権威を奪われる意味は大きい。

 だが、気づけば事態はリースタンの行く末に関わっていた。

 知見のある者は総じてモルダス老の置き土産に呻いた。禁忌学士、忌語りの生業は国家の秘事を語ることだ。それは王位にのみ独占される。けして表に出ない王位継承の慣習に他ならない。

 クラン・クラインが忌語りならば、師事する殿下は王位を内示されたことになる。即ち、現状の有力な対抗馬である、姉エルダリア妃の帰還と即位の可能性が消えたことを意味していた。

 エルダリア派閥にとっては、寝耳に水の重大事だ。ことは魔術師界に収まらない。少なくとも、この場は血の誓約に等しい戒厳令が引かれるだろう。クラン・クラインなる馬の骨のために。

 飾り壁の裏にある小口を抜け、使いが会議堂の端を回って行く。思いもよらぬ空気と、纏わりつく視線に強張っている。アーデルトが受領書と引き換えに受け取ったのは、陛下の書簡だった。

 音の消えた会議堂の中、視線がアーデルトに注がれている。皆が封蝋を剥がす音に耳を欹てた。そこにあるのは、ゲルドワース・ラスワード陛下の意思だ。どうであれ議論の終止符に他ならない。

「陛下の承認を戴きました」

 アーデルトの声に、場の空気が破裂した。


「ねえきみ、ここから出して貰えないか」

 口外無用の誓約の後、急ぎ会議堂を飛び出したアディに、ひょろりとした男が声を掛けた。端正だが無精髭を剃り残しており、身形を気にしないあたりは、どこかの工房勤めにも見える。あるいは花街の女衒だ。

「偉い人に呼ばれたのだけれど、置いて行かれてしまってね」

 通用口を指して困ったように髪を掻く。どうやら扉が開かないらしい。つい先ほどの戒厳令で、鍵はすべて書き換えられている。この建物の出入りには、アディの首に掛けた鍵札が必要だ。

「いいですよ、早くしないと、ここから出られなくなるかも」

 アディは男を見上げて言った。

 鍵札の発行も担当者の呼び出しも、この状況で道理を踏んだ手続きをしようものなら、後回しにされるのは目に見えている。何より男の前髪から覗く目許が、どうにも無邪気で頼り気がない。

「助かったよ、みんな大変そうだねえ」

 どこか困り顔の似合う男は、そう言って笑った。

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