再会と災難

丘の上の根無草

 リースタンの直轄領は、大陸の北の大円孔にある。いわば巨大な浅い盃、あるいは平らな擂り鉢の底だ。盃の底には雫があって、その湖の南岸に王都ワーデンは築かれている。

 遥か高くに俯瞰すれば、湖に突き出した鋭角の岬を中心に、切り株のような文様が見て取れる。岸に乗り上げた白い波紋のような、王都を幾重にも取り巻く巨大な市壁だ。

 市環都市ワーデンの名の由来だ。

 直轄領の全容は、ほぼ真円の山稜に縁取られた広大な窪地で、その大半は平坦だ。縁は切り立つ一方向の斜面で、外縁に行くほど急峻になり、ついには岩の絶壁になる。外は下りの山稜だ。

 いわば天然の城壁がある。都市に市壁の必要もないが、市環建造は伝統的な国家事業だ。四〇〇年ほど前には陥落の危機もあり、古竜ガロア巨人ギガスを相手に辛うじて生き延びた。そもそもが、市環は人の戦のために造られてはいない。

 とはいえ、以降の四〇〇年は、表向き、至って平穏ではあった。


 クラン・クラインは草原に身を投げ出した。向こう側まで見渡せそうな、突き抜けた空だけが目に入る。何気にリースタンを訪れてみたものの、やはり怠惰な気性が起き出した。ぼんやりと郷愁と面倒を秤に掛ける。

 さて、これからどうしたものか。

 クランのいる外縁直下は、多くが酪農地だ。斜面のままの牧草地もあれば、細かく平地に切り分けた畑もある。あちらこちらにある森は、草地との境が唐突で、遠目に芽花野菜のようだった。

 クランは緑の只中に、しばらく独り寝転がっていた。興味深げに覗き込んだ仔山羊を追い払い、髪が毟られるのを阻止して以来は、陽除けに鍔広帽子を顔に伏せ、ただぼんやりと微睡んでいる。

 草原に輪郭のある影を落とした雲は、思いのほか足早に動いた。ひとかたまりの風が吹くたび、織物を撫でるように草が色を変えて行く。なだらかに続く翠の斜面は、風の流れが見て取れた。

 クランが南の切通しを越えたのは、数日前のことだった。一〇年来も放り出した小屋は、まだ屋根が残っていた。近所の家が面倒を見てくれていたらしい。金目の物も少しはあったが、それさえもまだ残っていた。

 それとも、呪いの類と忌避されたのだろうか。身元を明かした覚えはないが、下級魔術師ゼレータで断念した魔術師の成り損ないとでも思われていたふしはある。

 柵の呪いを頼まれたのは、そのせいかも。

 クランの手元に放り出した布袋は、呪いの対価に貰った乾酪だ。牧場によくある獣返しは、大抵、術式も不要で、触媒があれば事足りる。施術の真似事をしただけだが、こうして少しばかり贅沢な夕飯が調達できた。

 魔術大国と呼ばれる所以、リースタンの魔術師は優秀だ。しかし、そのぶん対価も高い。協会は無資格の施術を禁じているが、商圏に外れたこんな田舎に、出張る管理官もいはしないだろう。

 何せ今の生業は換金どころが難しい。無駄な知識を活かして楽に暮らそうと始めたが、雇い主が限られる上に、疎まれることも多かった。協会の目が届かない場所なら、似非魔術師でいた方が、まだ食いっぱぐれがない。

 当面、これで喰い繋こうか。この世界で飢えるのも難しいが、野にある物が美味いかどうかは別の話だ。大陸を巡る道行き思えば、悪くない。南北の内街道は寂しくて、夜盗すらも出て来なかったっけ。

 クランはけして世捨て人ではないが、大勢に混じるのも苦手だ。火が起こせれば暮らせるし、夜露が凌げれば文句も言わない。ただ、あればあったで享受する。生きること、面倒なことに手を抜きたいだけの性分だ。

 ざわざわと風が通り越した。

 仔羊の声かと聞き流したが、あれはどうやら人のようだ。元気な女の子の声だ。近くの家の牧童かも知れない。髪を毟ろうとした仔山羊を探しているのだとしたら、さて、あれはどっちに追っただろう。


 緑を割って細く伸びる、うねうねとした裸の坂を、紅い外套が跳ねて行く。丸太で留めた荒い蹴上げは少女の歩幅にずいぶん高く、一段ごとに踏み上げて、そのたび頭巾がふわりと浮いた。

 立ち止まって息を整え、頭巾の縁を掴んで引き下げる。悪戯な蒼い螺鈿の瞳を覆い隠して、黒い髪を押し込んだ。坂の下を振り返り、追って来る二人を見おろした。口許を綻ばせて声を投げる。

「何をしている、置いていくぞ」

 再び丸太に足を掛ける。ふと草原に目を遣り、驚いた。

 碧い牧草の只中に人がいる。仰向けで牧草に埋もれている。鍔広の帽子を顔に乗せ、長い脚を投げ出して。煤けた灰色の外套の裾が、牧草と一緒に風に吹かれて揺れていた。

 目を凝らすと、手元に褪せた布袋が転がっている。具合が悪くてひっくり返ったのかも。少女は少し心配になって、坂道から出て近づいた。指先も脚も細くて長い。どうやら男の人のようだ。

 死んでいたらどうしよう。おそるおそる覗き込む。男は不意に手を上げて、甲を向けてひらひらと振った。生きている。驚いたけれど安堵した。それよりも。今、あっちへ行けと手を振った。

 失礼な奴だ。

 蹴ってやろうかと身構えて、何とか思い留まった。礼儀を知らず、応えるのが億劫で、じっとしているに違いない。少女は、すうと息を吸い込んで、山羊も驚いて逃げるほどの大きな声で話し掛けた。

「もし、少し伺いたい」

 咽たように帽子が浮いた。長い指先がのそりと伸びて、鍔を摘まんで持ち上げる。寝惚け眼が少しだけ合って、すぐに帽子の下に隠れてしまった。こやつめ、と少女が口を尖らせる。

「ここに学者のお屋敷はあるか、大魔術師メイガスサルカン・アル・モルダスの知人なのだが」

 短いしゃっくりのような音がした。男が何か答えたようだが、帽子に籠った声はよく聞き取れない。少女は男に身を乗り出して、確かめようと帽子に手を掛ける。不意に伸びた指先が、少女の鼻先を弾いた。

「上だ」

 ひあ、と声を上げて後退り、少女は顔の真ん中を押さえた。つんと上を向いた勝気な鼻が赤くなっている。男の指先は、そのまま宙をなぞって丘の上を指していた。少女は自分が驚いたことに腹を立て、頬を膨らませた。

「大儀である」

 鼻を押さえたまま、ふがふがと少女はそう言い放つ。空まで続く草原を見上げると、朽木のような柵の頭が覗いている。少女は男をひと睨みして、丘の上に向かって駆け出した。


 何やら嫌な名を聞いた。

 クランは帽子の下で毒づいた。直轄領に入って早々に、その名を聞くとは思わなかった。少女に応えて教えたように、確かに知人のお屋敷はある。辛うじて屋根の残った粗末な小屋で、それを屋敷と呼ぶならば。

「殿下、殿下お待ちください」

 坂道から呼ぶ声がする。硬い靴音と衣擦れと、ぜいぜいと荒い息遣いが聞こえた。

 少女を追って行くのは二人連れだ。銀の髪で褐色の肌をした少女は、腰に剣を下げている。もうひとりは長い魔術衣を引き摺っていた。頭巾を外し、脱色した金色の髪を晒して喘いでいる。

「もうだめマリエル、ひとりで行って」

「走れコルベット、おまえも従騎士だろう」

 一行の正体を察してクランは呻いた。面倒事に他ならない。せめて後続の二人の目に止まらぬよう、そろりと草原に身を起こす。大事な今日の夕飯を掴んで、クランは辺りを伺った。

「おのれ謀ったな、屋敷などないではないか」

 そうするうちに、丘の上から少女の声が降って来た。これはしばらく帰れそうにない。とりあえず、姦しい罵詈雑言が届かない辺りまでは逃げ延びて、日が暮れてから考えよう。クランは小さく肩を竦めて、足早に逃げ出した。


 クランは肌寒さに目を開けた。

 空はすっかり暗くなり、天中には月の靄が架かっている。疲れて横になる内に、どうやら眠ってしまったらしい。丘を半周した辺りで何だか逃げるのも馬鹿々々しくなり、そのまま引っ繰り返ったのだ。

 固い身体に呻いて身を起こし、暫しぼんやりと眼下の夜景を眺めた。ぽつりぽつりと灯の燈る民家、遥か遠くには市環が照らし上げられている。その向こうに湖のきらめきを見て、クランは笑った。

 あの娘はきっと、頬を膨らませたまま帰って行ったに違いない。

 立ち上がって草を払い、強張った身体を伸ばした。辺りは暗いが迷うほどの道もない。丘の上を少し巡れば、少女の言うお屋敷に辿り着ける。歩き出し、ふと風の生温かさに首を傾げた。

 気づけば帽子がどこにもなかった。風に攫われたか、山羊に持って行かれたか。旅の一張羅だったのに、惜しいことをした。だが、乾酪の入った布袋の紐だけは、しっかり握り締めている。

 夜の帳の薄明りの中を独り歩く。数日前まで、それが毎日だった。陽を浴びるのも面倒で、夜の街道を歩いていた。比べて、人里は風が生温い。それにしても、こうも空気がざわつくものだろうか。

 朽木に成り果てた柵を越え、クランは小屋に帰り着いた。見上げて肩を竦める。確かに小さい。城壁の内側に暮らすなら、小庭の物置きより狭いと感じるだろう。館と呼ぶならなおさらだ。

 ふと、踏みしだかれた足許の雑草に目を留めた。硬い靴底の足跡が、幾つもいくつも踏み付いていた。少女のものではない。あの従者のものでもない。辺りには虫の音がなく、人の匂いがする。

 薄く開き放しの扉に目を遣ると、真っ暗闇の隙間に目が合った。

「おとなしくしろ、抵抗するな」

 引き千切らんばかりに扉を撥ね開け、制服の衛士が飛び出して来た。あの狭い小屋にどれほどいたのか、次からへと溢れ出す。逃げ出すどころか、ただ呆れ果て、クランは呆然と立ち尽くした。

 大勢の衛士が一重二重にクランを取り巻き、じりじりと詰め寄った。何の用だ、と問う瞬間、抵抗する素振りと見られたのか、衛士たちが一斉に飛び掛かって来た。手足構わず組み伏せようとする。

 あれよと言う間に人の塊が膨れ上がった。武骨な衛士に押し潰され、クランは蛙のように喘いだ。ようやく人垣から引き摺り出された頃には、せっかく死守した夕餉も、どこかに行ってしまっていた。

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