第17話 信じられない





「瞬兄、冗談きついよ」


 押し倒された状態のまま、俺は声を震わせながら、この状況を冗談にしようとする。

 そうでもしないと、今にも気を失ってしまいそうだ。


「冗談で、ここまですると本気で思っているのか?」


 でも瞬兄の声色は変わらなかった。

 分かっていたことだけど、改めて突きつけられると俺は体を震わせて恐怖を感じてしまう。


 瞬兄は俺にとって、仲のいいお兄ちゃん。

 それだけでしかない。

 憧れてはいたけど、それは恋という感情ではなかった。


「瞬兄……お願い。どいて……」


 声が震えてしまうが、それでもなんとか拒否をした。

 俺の体を囲っている腕を拒否しようと掴むけど、力が入らなくて第三者からすれば縋り付いているようにしか見えなかっただろう。


「夏……そんな弱々しい抵抗じゃ、煽るだけだ」


 瞬兄も困った顔をして、そして笑う。

 その言動に、絶対に逃がしてくれる気は無いのだと、いやでも理解してしまう。


「俺は、瞬兄のこと好きだよ。でも、それは、兄ちゃんとしてだから、好きとか……分からない」


「夏が俺のことを男として見ていないのは知っている。ただの近所の兄貴分としてしか考えていなかったことも。でも俺は、ずっとずっと夏のことが好きだったんだ」


 それは心からの言葉だと、俺には感じられた。

 もしもこれが演技だとしたら、人が信じられなくなりそうだ。


「婚約者なんて現れなければ、このまま秘密にしておいたのに。昇華していくつもりだったのに。もう無理だ」


 どれぐらい昔から、俺のことを好きだったのだろう。

 話しぶりからしたら、随分と前からのように思う。


 いくら知らなかったとはいえ、俺は瞬兄に対して残酷なことばかりをしていた。

 どんな気持ちで、俺と一緒にいたのだろうか。


 そして、瞬兄と会う機会が無くなったのは、あえて避けられていたから。

 瞬兄の決意を、俺が邪魔してしまったのだ。


「瞬、兄」


「ごめんな。こんなことを言って、夏を苦しませるだけだってことは分かっているんだ。何も言わないで隣に居続ける未来もあったはずだ。でも、それが無理だった」


 顔を見ることが出来ない。

 今見てしまったら、何かが壊れてしまいそうだ。

 もう手遅れだと頭の中では理解しているのに、認めたくなかった。


 俺はまだ瞬兄が元に戻ってくれるのではないかと、ありえないのに期待していた。


「なあ。結婚なんてするつもりは無いんだろ。それなら一緒にずるずると生活を続けないで、さっさと見切りをつけて来なよ」


 未だに押し倒されたまま、俺達は会話を続ける。


「……それは、ちょっと」


「なんで? 期待を持たせておく方が、相手に対して失礼じゃないか? 気持ちに応える気もないのに、残酷すぎるだろ」


「……う」


 確かに瞬兄の言う通りだ。

 俺は終夜さんが許してくれているのをいいことに、彼に完全に甘えてしまっている。


 それは、とても残酷な行為である。


「夏。いい子なら、ちゃんとお別れを言って、家に戻れるだろう? 責められて傷ついたら、俺のところに来ればいいから」


「あ……俺は……」


「夏、いい子だから」


 俺は、どうすればいいのだろう。

 瞬兄の言葉に、終夜さんとは離れた方がいいのかと思うようになってきた。


「……離れる」


「そう。いい子だね」


「終夜さんと、離れる」


 口に出せば、それはすんなりと俺の中で納得出来た。


「そうだ。夏。それじゃあ、これからするべきことは分かっているだろ」


「……連絡しなきゃ」


 俺はまるで催眠にでもかかったように、ふらふらとまとまらない思考の中、スマホに手を伸ばす。

 瞬兄は満足そうに、俺の姿を見ていた。


 今仕事中なのではないか、こんな時間にかけたら迷惑じゃないか。

 そんなことも考えられないほど、俺は電話をかけるだけしか頭の中に無かった。


 スマホの電源を入れて、俺は終夜さんの名前を呼び出そうとした。



 でもその前に、画面に名前が表示される。

 タイミングがいいのか悪いのか、そこには終夜さんの名前があった。


「終夜さん?」


 俺は驚いて、小さくその名前を呼んだ。

 本当に小さな声だったけど、瞬兄の耳には入ったらしい。


「あいつから連絡来たの? ちょうどいい。スピーカーにして会話を聞かせてよ」


 手元を覗き込んできた瞬兄の提案に、拒否する気も起きずに従った。


『……もしもし』


「もしもし」


 電話の向こうから、終夜さんの落ち着いた声が聞こえてくる。

 俺はそれに安心したけど、肩に置かれた瞬兄の手を見て、すぐにやるべきことを思い出した。


「終夜さん、話があるんです」


『話? 別にいいが、まだ家に帰っていないのか?』


 有無を言わさない俺に対し、少し疑問に思ったみたいだけど、話は聞いてくれるみたいだ。

 俺は肩に置かれた手に導かれるまま、その言葉を自然と口にする。


「もう、この関係を終わらせたいんです」


 電話の向こうが無音になった。

 ざわめきすらも聞こえず、最初は電話が切れたのかと心配したぐらいだ。


 でも画面には終夜さんの名前が表示されたままだし、通話時間も増えている。


「終夜さん……?」


 何かあったのだろうかと心配しながら、名前を呼べば、すぐ近くから声が聞こえてきた。


「『いつから夏樹は、そんな悪いことを言うようになったんだろうな』」


 それは電話からと、すぐ後ろから、つまりは2箇所から聞こえてきた。


 俺は驚きと恐怖から肩を震わせ、そして恐る恐る振り向く。



 そこには、スマホを耳に当てて微笑んでいる終夜さんの姿があった。





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