第9話 話をしましょう
気まずい空気のまま、昨日のマンションに帰ると、終夜さんはさっさと部屋の中に入ってしまった。
昨日のようにキスをされるのではと身構えていた俺は、拍子抜けした。
「夏樹?」
少しの間玄関で立ち尽くしていたら、中から心配そうに俺を呼ぶ声がする。
いつまでも立っている場合じゃないと、靴を脱ぎ散らかしながら、中へと入った。
終夜さんはリビングでソファに座り、俺のことを待っていた。
部屋は少しちらかっていて、ソファには背広がかかっている。
几帳面な終夜さんにしては珍しい。
どうしてなのか理由を考えていれば、彼が困ったように笑った。
「帰ってきて、急いで迎えに行ったから、ちょっとちらかしたままだった。今片付け……」
「だ、大丈夫です!」
まさか俺がいなかったことで、ここまで彼が焦るなんて。
申し訳なさとともに、恥ずかしさも感じた。
「しかし」
「片付けは後で一緒にやりましょう。こうなったもの俺のせいですし。だから片付けの前に、少し話をしませんか?」
「夏樹がそう言うのなら……分かった。何を話したい?」
立ち上がろうとした終夜さんを止めて、ソファに逆戻りさせると、俺は少しだけ迷って隣に座った。
2人が座っても全然余裕なので、人ひとり分ぐらいの距離を開けている。
「それじゃあ、えっと。まずは、今日は本当にごめんなさい」
車の中でも謝ったけど、謝り足りなくて頭を下げた。
「……もう謝らなくていい。俺も昨日は、気持ちも伴っていないうちから、暴走しすぎた。家に帰るのが嫌だったんだろう?」
「そ、れは、まあ」
俺の気持ちを完全に当てられ、逆に気まずい。
視線をそらしながら頷くと、彼は小さく息を吐いた。
「何度も言っているが、俺はずっと夏樹と一緒に過ごすことを待っていたんだ。夏樹のことが好きなんだ。だからこれからも、嫌がったとして止められる自信はない」
正直に言って、俺がまた逃げ出すとは思わないのだろうか。
これからも襲うかもしれない宣言をされ、なんとも言えない表情になってしまう。
「……本当に嫌なら、俺の親か自分の親に言えばいい」
「へ?」
そのまま口を閉ざしていたら、突然終夜さんが提案してきた。
「本気で訴えれば、嫌がることをさせるほど腐ってない。夏樹が俺の顔も見たくないぐらいなら、そうしたほうがいいだろう。こんなお試し期間なんて、律儀に守らなくたっていい」
お試し期間より前に、解放される。
それは思ってもみない提案だった。
「でも、そんな簡単に……」
「夏樹がそう願うのなら、俺からも伝える」
俺のことを好きだと言って数分も経っていないのに、どうしてこんなことを言うのだろうか。
もしも俺が喜んでこの提案を受け入れたら、終夜さんの前には二度と現れなくなるかもしれないのに。
彼の考えが分からない。
「俺が訴えて親が受け入れたとします。そうなったら、終夜さんはどうするんですか?」
「俺? 俺はきっと夏樹を好きなまま、少しの思い出を大事にしなが、一生を過ごすだろうな」
「でも、そんなの」
あまりにも悲しすぎる。
終夜さんぐらいの人だったら、どんな人とでも一緒になれるのに、わざわざ俺の思い出と一生を送るなんて。
「他の誰もいらない。夏樹だけが俺の全てだ」
5歳の時の俺は、彼にここまで好かれるほど何をしたのだろう。
いくらなんでも、ここまでになるには相当のインパクトのある何かがあったはずだ。
13年前に戻って、その場面を見てみたいし、出来れば止めたい。
全く思い出せないことが、申し訳なくなってくる。
「どうする? それなら今ここで電話するか?」
俺の様子に何かを勘違いしたのか、彼はスマホを手に取って電話をかけようとする。
「ちょ、ちょっと待ってください」
あと一回、画面をタップすれば電話がかかる。
だから彼の指がスマホの画面に触れる前に、俺は腕を掴んで止めた。
「夏樹、電話がかけられない。手を離してくれ」
「ま、待ってください! 電話するのは、また今度で」
「また今度? 俺に遠慮しなくていいんだ」
「え、遠慮とかそういうのじゃなくて。えーっと、あのー、俺達まだ何も話をしていないじゃないですか。だからお互いのことを、よく知った方がいいのかも」
自分でも何を言っているのか分からない。
せっかく逃がしてもらえそうなのに、どうして残ろうとしているのだろう。
でもここで終わらせるのは駄目だと、そう思ってしまったのだ。
「夏樹は優しいな。こんな俺にチャンスをくれるなんて」
「そ、んなことないです」
俺は全く優しくなんかない。
お互いのことを知って、そして駄目だとなれば申し訳ない気持ちにならないんじゃないか。
自分のためだった。
だからここまで喜ばれてしまうと、いたたまれない気持ちになる。
「夏樹がそう言うのなら、お互いのことを知ろうか。まずは何が知りたい?」
「えーっと、そうですね……ご趣味は?」
見合いか。
どんな質問をしていいか分からず、見合いでよく聞くものにしてしまった。
「趣味か。そうだな……夏樹の成長を見守ることだ」
「そういうのじゃなくて。もっとこう……好きな食べ物は?」
「夏樹と一緒に食べるご飯」
「そうじゃなくて……!」
それからも何個か質問したけど、その全てに俺関係の答えが返ってきた。
どれだけ、俺のことが好きなんだか。
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