第5話 不安な共同生活




 キスをされて気を失うなんて、初めての経験だった。

 鼻で息を吸うのが、本当に難しいなんて思わなかった。


 でもそれは、俺自身が体験するべきものじゃなかったはずだ。

 むしろ彼女が出来た時に、披露するテクニックだろう。



 起きてすぐに男としてのプライドがズタズタにされたのを感じ、俺は今まで使っていたものとは比べ物にならないぐらいふかふかのベッドで頭を抱えた。


 受け入れないうちは、手を出さないんじゃなかったのか。

 頭の中で渚さんを責めるが、頭の中の渚はひらひらと手を振るだけだった。

 俺の想像の中でも、食えない人である。


「……会いたくない」


 部屋の外からは、誰かが動く気配を感じる。

 誰かなんて、ここに住んでいるのは2人しかいないのだから明らかだ。


 いい匂いも漂ってきて、空腹のお腹が鳴るけど、俺はベッドから出ようという気持ちにならなかった。



 このまま仕事にでも行ってくれないか。

 そういえば終夜さんは、一体何歳なのだろう。

 まさか同い年ではないだろうし、学生という見た目でもない。

 絶対に社会人だから、平日の今日は仕事も可能性が高いのだけど、どうなのだろう。



 時間を見て、まだ余裕があるのを確認すると、俺は部屋の中を見回してみた。


 昨日はあまりよく見られなかったけど、俺好みのシンプルなデザインにまとまっている。

 今まで住んでいたところ以上にいい感じだから、母親がアドバイスでもしたのだろうと予想した。


 この部屋だけで生活していいのなら、喜べるのだけど、同居人の存在が問題だ。

 昨日の窒息寸前のキスを思い出すと、貞操的な部分が危険な気がする。


 さすがにそうなる前に抵抗したり逃亡したいけど、キスの時は無理だったことを考えると、1人じゃ無理だろう。



 協力者がいる。

 この意味の分からない話を笑わないで聞いてくれて、そして俺の味方になってくれる人。

 そんな人を知り合いの中からピックアップしていくけど、全くもって適任が思い当たらない。



 ベッドの上で悶えていると、こちらに近づいてくる気配を感じた。

 ここに来るとは思わなかったけど、それでも一応布団の中に潜り込む。


 でも俺の予感は当たっていたみたいで、部屋の扉が開く音がして、彼が中に入ってきた。


「……夏樹? 寝ているのか?」


 声をかけてくるが、俺は返事をしなかった。

 今は顔を見たくない。


 俺の寝ているすぐ近くに腰を下ろした終夜さんは、布団から少しはみ出ている俺の髪を撫でた。


「仕事に行きたくない。夏樹とずっと一緒にいられたらいいのに。でもこれからは、一緒に住める。はは。俺はなんて幸せなんだろう」


 寝ていると思っているはずなのに、物凄く話しかけられて気まずい。

 もしかして寝たふりをしているのがバレているのかと心配したけど、そういう感じでもないみたいだ。


「幸せだな。本当に幸せだ。考えていたことが、まさか現実になるなんて」


 独り言の多い人である。

 俺は息を潜めて、寝ているふりを続ける。


 さらさらとひとしきり髪を撫でて満足したのか、彼の手が離れた。

 このまま部屋から出て行ってくれる。

 そう期待して緊張の糸をほどいた俺を待っていたのは、頭にされたキスだった。


「……行ってくる。朝食は用意してあるから、冷めないうちに食べてくれ」


 キスをした後は、何も言わずに出て行ってしまう。

 扉が閉まる音を聞いて、俺は思わず顔を覆った。


 たぶん、起きているのはバレていた。

 知っていてなお、あんな風に頭にキスをしてくるなんて。


 甘い。

 ドロドロに甘すぎる。


 この生活が、これからも続くなんて絶対に耐え切れない。


 あまりの恥ずかしさに、しばらく動けなかったせいで、俺は学校に遅刻しそうになってしまった。





 知り合ってから、まだ一日も経っていないのに、もう無理だ。

 甘すぎる。ドロドロのはちみつをかけたパンケーキみたいで、胸焼けしてしまう。

 このまま一緒にい続けたら、甘さで駄目になりそうだ。


「どうしたよ。夏樹。めっちゃぐったりじゃん」


 机の上に頬を預けていたら、友達に心配された。

 そこまで俺の状態は危ないみたいで、俺は魂を口から出しそうになりながら手を上げる。


「昨日、色々あって。死ぬかと思った」


「えー。昨日は誕生日だったんだろう。何でそんなに疲れることがあるんだよ」


「……言っても助けにならないだろうから言いたくない」


「何だそれ。言ってみないと分からないだろう。なあなあ」


 興味を引いてしまったらしく、机の脇にしゃがみ込まれてうるさい。

 これは話をするまで解放してくれないと、俺はため息を吐いた。


「昨日、家に帰ってから母親に言われた。俺に婚約者がいるって」


「え!? マジで!? それでそれで!?」


「その婚約者というのが、美人で年上の男の人で俺への好感度がマックスで、昨日なんてめっちゃ深いキスをされて気絶させられたかと思ったら、朝も頭にだけどキスされたんだ」


「…………………………は?」


 昨日あったことを包み隠さずに話したら、口を開けて完全に固まってしまった。

 そういう反応をされるのは予想通りなので、俺はすぐに馬鹿にしたように笑う。


「冗談だよ。昨日、少し夜更かししただけ」


「……びっくりしたー! マジな感じで言うから、本当のことだと思ったよ! ビビらせんなよな!」


「あはは。悪かったって」


 種明かしをすれば、友達は安心した表情に戻った。

 俺が言ったことを冗談だと受け取って、そして受け流すことにしたらしい。



 やはり協力者を見つけるのは難しい。

 それを確認すると、俺は友達から視線をそらしてため息を吐いた。




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