エンカウント
事態が動いたのは、突然だった。
メイジは山頂のトイレで用を済まし、ランタンの灯りを頼りに手を洗っていた。飽きもせず焚き火を眺めているフギンに、「そろそろ夜ご飯の準備をしよう」と声をかけようと大きく息を吸い込んだ瞬間、突然、ガサガサッと葉を揺らす音が近くの藪から聞こえた。
「?」
不審に思い、濡れた手のままランタンを持ち上げ音の方に向ける。闇に溶けた低木の姿が浮かび上がるが、音の発生源が見あたらない。たぬきやハクビシンだろうか。それとも、山に捨てられた野良猫だろうか。それにしても、大きな音だった。まるで、二周りほど大きい生き物が動いたような……。
私はなんとなく嫌な予感がして、息を殺し、その植木の根本にランタンを近づけた。すると、闇の中から何かが、ーー大きな何かが、枝を折ながら、飛び出してきた。
「!?」
飛び出した影は頭が丸く、サンショウウオのように四肢が胴体の横から生えていた。ドタバタと四肢を回転させ、しっぽを蛇のようにくねくねと踊らせながら地面を低く走っていった。色は、恐らく濃紺か、土色。光を一瞬浴びて、鱗はしっぽになるつれ、鮮やかな虹色に光った。大きさはじーちゃんの手記の通り、大型犬サイズであり、走るのに適しているとは思えない体躯と走り方なのに、その速さは飛ぶように早かった。本能的に、見失う、と分かった。
「フギン!」
私は大声で使い魔を呼ぶ。そして、手のひらにありったけの力を込めて、
「どうした!」
「
メイジは全く油断していた。頭の中では明日の朝に捜索するものだと決めつけて、完全にお仕事スイッチをオフにしていた。
(手記には九合目の水辺で出ると書いてあったのに!)
だがしかし、その情報は50年も前の情報だ。今はどう生態系が変わっているかは分からない。ひょっとしたらじーちゃんが《水トカゲ》に遭遇した頃よりも、九合目の地形そのものが変わっているかもしれない。
(水辺が小さくなったとか、続く炎天下で川の水量が減ったとか……!)
十分考えられることだった。そしてこの手を洗った場所も、「水道」という小さな「水辺」であることを思い出す。
(湿気と水の魔素を求めて、水道に寄ってきたのかもしれない……!)
遅れて、手元に箒が来た。パシリと手のひらで受け取ると、柄の先端の金具にランタンをひっかけ、慌てて跨ぐ。
「どっちに行った?!」
「山頂の看板の方! 急いで飛んで!」
私は地面に置いた両方の足の裏から、何かを吸い上げるイメージをする。ぶわりと、山の夜気が肌を遡った。Tシャツの内側に風が通り、ざわりと肌が泡立つ。三編みに結った赤毛の先が物理法則に逆らってゆらぎ、私の背中でうねっている。ふうぅと腹の奥から息を吐き出し、ふうぅと鼻から最奥に酸素を送る。足のつま先から頭の天辺まで、ピチピチと小さな光の泡が弾ける感覚が全身に広がり、その粒が体に満ち、波打つ頃を見計らって、私は地面を蹴った。ビュンと箒に引っ張られ、私は空中を割くように山頂方向に向かって飛んだ。
「どこ!?」
私はもう一度、山頂の看板を見る、が、居ない。
「どこ!?」
私は山頂の鳥居を見る、が、居ない。
「フギン」
「いや、分からん」
「一度高度をあげよう」
私は箒の柄先をぐーっと上に持ち上げた。粘つくような空気抵抗と重さを全身に感じながら、箒は上に上に登っていく。キャンプ地では気持ちの良い風が通っていたが、山の上空ではさらに強い風が吹き荒れていた。風をもろに受け、体勢をくずし、慌てて箒の柄を風に立てて凌ぐ。もう一段回さらに上昇すると、ぶらりと下がった足元には、小さな小さな焚き火台の火と、街の光が散らばっていた。
「見える?」
「何かに隠れおったな。見えん」
「だが」
フギンの目に、狩りをする者特有の獰猛な光が宿る。
「思考の音がする」
使い魔フギンはーーー全盛期は、対象者の思考を聞き取る能力があったらしい。今は私の使い魔で、少ない魔力の供給で凌いでいるから、その能力は限定的で制限がある。しかし、元々鴉という生き物は聴覚が鋭く、上下左右から聞こえる音を細かく分析し、出どころを瞬時に聞き分ける事が出来るそうだ。フギンの耳は捉えている。逃げる足音、こすれる葉の音、小さな息遣い、そして、逃亡者の焦りの音までーーー。
「儂に続け」
フギンが一点を目指して急降下した。私もそれに習い、飛ぶ。フギンが目指したのは山頂から少し離れたところにある社の鳥居の根本の裏側だった。捕食者の視線を察して、近くの
「追いつけそう!」
「メイジ、網は?!」
「網!?」
私は箒しか持っていない。網はバックパックの中だ。言葉を告げられずにいると、フギンは察して怒りの色を滲ませた。
「お前さんは何をやっとるんだ!」
だって用を足した直後だったんだもん! 網もってトイレにいく女子なんて居る!? 頭の中で、自分なりの正当な理由が鳴り響いたけれど、そんな言い訳をする暇はなかった。今にもそのトカゲは草叢に紛れ込もうと頭を突っ込んでいる。
私は焦って舌打ちをした。何か手を打たなくては、せっかくエンカウントしたのに見失うことになる。
いざ時のために、ポケットの多いハーフのカーゴパンツを着用しているのだ。ホルダーの留め具を外し、小さな瓶を取り出した。その瓶に入っている魔法薬品は、「メルオク」でなら取引価格二千円で売買される。失敗すれば貴重な(貴重な!)儲けを失うが、やむを得ない。
私はその割れる瓶を、空中から《水トカゲ》に投げつけた。背中にヒットしたそれは簡単に割れて、中から蛍光に光る液体が飛び出し《水トカゲ》を濡らした。《水トカゲ》の背中から、花火の様にパチパチとラムネ色の光が弾けた。
「メイジ、ありゃなんだ」
「カラーボールの魔法版っ」
おなじみ自家製の《
しかし、これは悪手だった。背中でパチパチとラムネが弾ける感覚に驚いた《水トカゲ》がシャーっと掠れた悲鳴をあげた。いよいよパニックになって、暴走し始めたのだ。口を大きく開き舌を見せつけ、顎をガクガクと大きく縦に揺らしながら、更にスピードを上げデタラメに走り出す。
「あ、あれ……? やっちゃった……?」
フギンが隣でこれ見よがしにため息をついた。背中の光を振りほどこうと必死に走る暴走特急のような《水トカゲ》に振り切られないよう、私もフギンも必死にスピードを上げた。《水トカゲ》はピンボールのようにデタラメな角度で急に曲がり、私達を翻弄した。じりじりと距離が広がっていく。
「
「無理限界! このペースで飛んだら、先に私が死んじゃう!!」
私の脇腹はもうすでに悲鳴をあげはじめていた。痛い。酸素も魔力も足りない。失速直前だ。肩で息をしないと、もう前に進めなくなっている。
「かくなる上は短期決戦、素手で捕まえるぞ!」
「冗談でしょ!?」
大型犬ほどのサイズの暴れる爬虫類を相手に格闘し、勝てるビジョンが持てない。自分は同級生の中でも群を抜いて小さく、度々中学生とも間違われるような小柄で貧弱だ。運良く捕まえたとしても、後に振りほどかれて逃げられるのは目に見えている。《水トカゲ》はさらにスピードを上げた。
「ならば任せろ!」
「フギン、お願い!!」
私は体に残っている力をフギンに注ぐべく、両の手を広げた。それに合わせて、フギンは空中で横回転をする。ぐるりと回るにつれ、鴉の黒い翼はバキバキと大きく歪み軋みながら大きくなった。そして一回転する頃には、大きな翼人に姿を変えていた。黒い山伏装束に短い黒髪をなびかせ、浅黒い肌をしたその青年は、銀色の切れ長の目を獰猛に輝かせ、ニヤリと笑う。背中の黒い翼を広げ滑空した不銀フギンは、黒の脚絆から伸びた巨大な鉤爪を獲物に向け、狩りをするよう脚から《水トカゲ》に突っ込んだ。バキバキと枝木が折れる音がする。
私は箒の勢いを止めることが出来ず横から転がり落ち、なんとか受け身をとった。背中と腿に走る痛みを堪え、視線を上げると、黒装束の不銀フギンは、《水トカゲ》を小脇に抱え、カッカッカと笑った。
私は全力疾走の後のように痛む脇腹を片手で抑え、ぜぇはぁと息を付きながら、震える手で親指を突き上げる。
どうやら、ミッション成功である。
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