素朴な疑問

 夜がやってきた。


 高く感じた空に夜の帳が下り、星がちらちらと瞬き始めている。ランタンと焚き火台の光が柔らかくあたりを照らした。バックライトが眩しいスマートフォンで時間を確認すれば、20時をまわったばかりだった。私はお気に入りのチェアにずぶずぶに全体重を預けた体勢から、もぞもぞと上体を起こして、バーナーでお湯を沸かす。バックパックの小さいファスナーからスティック状のインスタントコーヒーを取り出すと、お気に入りのカップに入れた。湯を注げば、いつもの慣れたあの香ばしい香りが山の空気と混じり広がった。蝉の声に混じって、鈴虫のなく声も聞こえてきた。焚き火台からは、パチパチと小気味良く木が爆ぜる音がする。フギンは飽きることなく小枝を火に投げ込んでいる。


 私はインドアだ。趣味は全てドアの中で済ます事ができる。運動するくらいならお金を払ってでも回避したいと思っている。山だって、フギンがお使いに行ってくれて済むなら、それでいいと思ってる。


 でもこの瞬間の、この空気は好きだ。お気に入りのチェアに座って、コーヒーを啜る。空も木々も、見える景色の全部が、自分の部屋の中に入ったみたいな気持ちになる。世界中のどんなお金もちだって、そんなことは出来ないのだ。


「はあ……」

 私は幸福を胸いっぱいに吸い込んで、うっとりと吐き出した。



「ところでメイジ」

「ん?」

「その肝心の《水トカゲのよだれ》じゃが」

「うん」

「《水トカゲ》は運良く明日早朝に九合目で見つかったとして」

「うん」

「捕獲できたとして」

「なに? 回りくどいな」

「《涎》はどうやって採取するのか手段は考えているのか、と思ってな」

「やっだなぁ、そんなもんは……」

「……」


 全く考えていなかった。




「わあ、……どうしよう。捕まえれば採れるもんだと思ってたよ」

 我ながらなんという無策であることか。そんなゲームみたいに対象グラフィックの前に立ち、○だかAボタンを押せば、ゴロンと瓶が出てくるわけがないのだ。こちらで何からの手を講じて、絞ったりしなくてはいけない。

「フギンは知らないの?」

「儂わしは採取に同行しただけだからな。大伝だいでんが部屋の中で何をしているかまでは見てないぞ」

「うっそぉ……」

 私はあわててスマホの写真をスクロールした。じーちゃんの手記の《水トカゲの涎》のページを撮影しておいたのだ。拡大してよく見てみるが、絞り方までは書いてない。


「その……よく分からんが、お前さんが言ってた、世界の叡智の結晶だか何だかに“ぐぐ”って聞いてみたらいいんじゃないか?」

「うー〜。こういうことは、資格持ちの間でもあんまりアップして共有したりしないの。無資格のひとが見てマネしたら大変でしょ。医者が手術の方法とか、花火師が花火の作り方を詳細にアップしないのと同じ」

「そういうものか」

 私は頭を抱えた。こうなってくると、高校を休学していることが惜しく感じられた。図書館に行けば、何か調べられるかもしれない。いや、しかし、もうあそこに向かうのも気が引けるし、それに今は夏休みだったはずだ。市の図書館は蔵書は偏ってショボいし情報が古いし、じーちゃんの書斎なら何かあるだろうか。何も見つけられなかった場合は、自力で頑張らないといけない。どうしたらいいだろう。私はずずっとコーヒーを飲んだ。


「……う〜ん、まずトカゲをこう、ロープで結わえて逃げないようにしてぇ…」

「ほう」

「吊し上げて、宙にぶら下げるじゃん?」

「……穏やかじゃないな」

「あっ、それで、トカゲの下に、漏斗ろうとと瓶を用意して」

「涎を受け止める、か。で、口はどうあけるんだ?」

「う」


 そうか、相手はトカゲとはいえ大型犬サイズだ。手でこじ開ける過程で怪我のひとつも負うだろう。「ならばナイフで」と思いついたが口をつぐむ。生体に傷をつけるのは最低限に抑えないといけない。ただでさえ敵視されている動物愛護団体に、何を言われるか分かったものではない。


「えーと、自発的に口をあけさせるには……空腹にして」

「ほう」

「下で美味しそうなものでもちらつかせれば、食べたくて口をあけるんじゃない?」

「……トカゲが『美味しそう』と思うものとは?」

「……虫とか、かな」

「メイジが用意してくれ」

「使い魔、頑張って!」

「頼む大伝、手記を残していてくれ……」

 フギンの絞り出すような声に、私は笑った。

「大伝じーちゃんといえば、コレ見て」

「ん?」


 私はフギンにスマホを見せつける。先程の《水トカゲの涎》のページの写真だ。鴉の目の前でピンチアウトして拡大してみせると、小さな文字で「※水竜すいりゅうとは別」と添えて書いてある。たしか、昔は恐竜をはじめとする様々な爬虫類に「竜」の名前を付けていたと聞いたことがあるが。しかしこの書き方では本当に《水竜》、……ウォータードラゴンが別に実在している事を指してるとしか思えない。


「水竜なんて本当にいるの?」

「あ〜、まあ。居るっちゃ居る」

「ええ、ホントに……!」


 《竜》といえば伝説の生き物だ。それこそ、中国やヨーロッパに沢山の伝承が各地に嫌というほど残されている。伝承がありすぎて、当時の流行した人気の創作キャラクターだったのではとメイジは思っていた。なにせ、伝説では、とにかく大きい。水車小屋ほど背丈があるという。そんなものが実在しているとしたら、実生活で嫌でも目に入るはずだ。しかしメイジは、生まれてこの方竜なんて見たことがなかった。


「見たら覚えてると思うんだけど、見たことない」

「うむ、居ないからな」

「どういうこと?」

「いや、居るには居るが。それこそ、国が管理しとるのよ」

「あああ〜そういうこと」

「野生は残っていないんじゃないか。居たとしても、すぐ通報される」


 たしかにそうだ。ヒグマだって里に出てきたら、この狭い日本では大騒ぎだ。大きさは強さであり、強さは日常を脅かす。


 フギンが言うには、海に囲まれた島国である日本には、戦前までは水竜がそれなりに居たそうだ。戦後処理の最中に、アメリカと何かあったのかは分からないけれど、戦後のじーちゃんの時代にはみるみる居なくなったらしい。今は捕獲されたほとんどが国家機密で守られた、一部の人間しか知り得ない場所で、大切に飼育されているそうだ。絶滅危惧種みたいなものか、と私は納得した。


(……竜かぁ……)


 メイジの好んでプレイしているゲームでは、竜の鱗やら竜の髭やらが、アイテムとして当たり前に普通に出てくるけど、実際に現実世界でそんなものを入手できたら、さぞ高価で取引されるだろう。レア度が高く、効能もとびきり高く、知名度も高く……ひょっとしたら、それだけで御殿ごてんが建つかもしれない。

 フギンは私の邪な考えを見透かしたようにくつくつと笑った。


「居たらどうする?」

「捕まえてメルオクで売る!」

「だろうな」

 生まれたての柔らかな夜空に、蝉と鈴虫の声が響き、焚き火台の木が爆ぜる音に混じって、私達の小さな笑い声がした。




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