ー最終話ー 宝石のきらめく夜空の下で
―――大量の涙というものは、心の闇や汚れを浄化してくれるものなのだろうか。それとも、幼くして亡くなったシナモン文鳥『紋』が、勇二郎に生きる力を与えてくれたのだろうか。それ以来、日に日に、勇二郎は生気を取り戻していった。彼の方から江里奈を誘い、外出することも増えてきた。
七月の下旬となったある日のこと、
「俺、江里ちゃんと俺たちの住んでいたあの家を見てみたい」
勇二郎は唐突にそう言った。
江里奈は、彼の意味するところをすぐ理解した。彼は、沖縄に行き、幼少時に彼らが暮らした家を見たい、と言っているのだ。引きこもって以来、勇二郎が江里奈を旅行に誘うような日がくることなど、想像すらできなかった。江里奈は二つ返事で了承する。
旅行代理店での勤務経験がある江里奈は、手際よく数日間の小旅行の旅程を組み、チケットをニ人分、用意した。そして、八月初旬、彼らは沖縄へと旅立った。
羽田から約二時間半、あっという間だった。勇二郎が、遠い遠い故郷と思っていた沖縄には、映画を一本見る暇もないほどの短時間で到着した。那覇空港に着くと、江里奈が手配してくれていたレンタカーで、まずは宿泊先のホテルへと向かった。
夕刻五時を少し回った頃、チェックインをし、ホテルの近くで夕食をとる。勇二郎は、上機嫌だった。数十年ぶりの現地での沖縄料理。ゴーヤチャンプルー、グルクンのから揚げなどに舌鼓を打ちながら、オリオンビールを呷り、泡盛を水割りで飲む。久しぶりの本場のゴーヤは、内地のものよりも緑色が濃く、苦い味がする。「酒にはこれくらいの方が合う」、勇二郎はそう言った。沖縄も、道路も建物も一新され、随分と変わったね、などということを話しながら、ガイドブックを二人で見たり、昔話や、とりとめのない談笑を続けた。彼らの住んでいた頃は、美ら海水族館も鉄道もなかった。
翌朝、彼らの旅の目的である、元の住まいを訪れる。そこは、米兵の宿舎だった建屋を一般人に貸し出していたもので、四室が一軒になっている二階建ての小さな家だった。正面玄関側から見て、一階の左側の部屋に江里奈の一家が、彼女の家の真上にある二階に勇二郎の一家が、そして、江里奈の隣には智恵の一家が住んでいた。勇二郎家の隣、つまり、智恵の上に誰が住んでいたか、二人とも記憶がなかった。空室であったのかも知れない。
彼らの元住居は、今や完全に廃墟と化しており、備え付けられていた庭はおろか、建屋周辺でも草が伸び放題になっていた。住居全体が藪に覆われていたと表現して差し支えないほどである。住宅地の前にある通行路にも草が生えていたが、通れないほどでもなく、彼らはハブに気をつけながら、家の前まで行き、その懐かしい住まいの前で、しばらくの間、佇んだ。
近所周辺も回ってみたが、当時、知っていた人たちは、既にそこには住んでいない様子だった。かつて盆踊りの会場だった小高い丘に登ってみた。準備はこれからであるのか、それとも今は盆踊りは行われていないのか、やぐらは設営されていなかった。彼らの住宅地を見下ろせるその丘に座り、しばしの間、思い出を語り合った。彼らは、当時、金網の隙間から、米軍基地に忍び込んだことがあり、勇二郎はそこが今どうなってるかを見てみたいと言ったが、「それは危険」と江里奈から却下された。
その夜―――。両家族で一度だけ行ったことのある砂浜、今は海浜公園として整備されているビーチを訪れ、二人で並んで浜辺に座った。遠くに、かすかに外灯がともっている程度だが、星の明かりでそれほど暗くはない。お互いの顔もよく見える。
江里奈は、砂を手ですくっては、さらさらと指の隙間から落としてみたりと、一人遊びを始めた。始めは彼の隣で座っていただけだったが、そのうち、立ち上がって浜を歩きだした。ふと立ち止まってはしゃがみ、また手で砂をすくう。たまに、星の砂や小粒のシーグラスを見つけては、にこっと笑って、勇二郎に見せにきた。彼女は、手の中の星砂を大事そうに、小さなジッパーの袋にしまった。
勇二郎は、そんな彼女に微笑みを返しながら、これまでの自分の人生に思いを馳せていた。営業職をしてきた自分は、様々な役職や立場の人たちと会ってきた。その中には、成功をしている人たちも多かった。超大企業の中で部長、そして役員へと、出世を目指して突き進む人。既に役員の地位を確立した人。不安定な外資企業で一発大金を狙う人。数名で小さな会社を創立し、今や自家用ジェットまで持っている米国人・・・。
彼らは、皆、上昇志向の塊であった。今よりも、もっと上を、もっと前に。未来には、今よりも輝かしいものしか待っていない。そう信じて、突き進む人たちが多かった。
明日は今日よりいい日がくると言い、強烈なエネルギーで、周囲を鼓舞する。
人は、得たものを失うことに耐え難い痛みを感じるという。サクセスロードを突き進む彼らも、内心では、立場や資産を失う恐怖心でいっぱいで、自分を奮い立たせているだけだったのかもしれないけれど・・・。
成功した彼らの誰もが『上だけを』、『前だけを』見ていた。
いや、見ようとしていた。
それが皆の幸福につながる、と信じているかのように。
でも、本当にそうだろうか。勇二郎は思う。
自分の場合は、幼少期の幸福な日々、あれを超えるものは、もう訪れないだろう。
青春。青い春と書く。たしかに青い、つまり幼いのだろう。
しかし、どんなに世間が言うところの成功や地位をおさめたとしても、あの日々は、もう一生涯、手に入らない。人によって、青春がいつであったかは違うだろう。高校生の頃かも知れないし、二十代であるかもしれない。
俺にとっての青春とは、幼少時の、『ここ』にあったのだ。
あの幸せを超える幸福は、俺には間違いなく訪れないし、その必要もない。
俺は、あの人生で一番幸せな日々に感じた思いを、江里奈と共に、もう一度、味わいたい。あのキラキラ、ドキドキ、ワクワクした日々、濁りのない澄んだ涙を流した日々に、できるだけ近づきたい。
俺にとっては、それが幸福なのだ。
そのために生きよう。努力しよう。もう一度、生きよう。
江里奈は、星砂を集め終わったのか、勇二郎の隣に再び座った。
「俺、生きるよ。」
勇二郎は、長い沈黙の後、隣の江里奈に一言だけ、そう言った。
江里奈は思う。
この人は、あのカーテンも開けない薄暗い部屋の中で、何を見たのだろう。
一年以上もの間、妻の自分さえ遠ざけ、部屋の中で一人、横になって、何を思ったのだろう。その苦しみは、いかほどのものだったのだろう。
彼女は泣いているのか笑っているのか分からない、くしゃくしゃっとした表情を顔に浮かべて、勇二郎に向けて、一言だけこう言った。
「再生だね」
再生か・・・。いい言葉だと勇二郎は思った。再び生きる。
復活ではない。それだと、またすぐに死んでしまいそうだ。
-----そうだ、再び生きるのだ。
彼は、江里奈に答える。
「うん。再生するよ」
江里奈は、目に涙を溜めながら微笑む。
「そうよ、あなたは、再生おじさんよ」
「俺に、ついてきてくれる?」
「ついていくんじゃないわ。わたしは、勇ちゃんの傍にいるだけよ。
あなたが、どこに行っても、何をしてようと、ただ傍にいるだけよ」
わたしは、何があってもこの人の傍にいる。
幼い頃の気持ちは何も変わっていない。彼を守ってあげたい、と思った。彼に守って欲しい、と思った。
いつもこの人の傍で微笑んでいよう。江里奈は心の中で誓う。
彼がこれからどうするのか。彼女は、何も聞かなかった。聞く必要はなかった。
彼女は、彼の横で一人、考える。勇二郎は、重めの発達障害持ち。理解があって、かなり融通の効く会社でないと適応できないだろう。短期離職歴ばかりが記載された履歴書。しかもこの年齢。正規雇用はハードルが高いだろう。障害者雇用枠も名目上だけの企業も多いと聞くし、仮に雇用されたとしても賃金も十分ではない。わたしも旅行代理店勤務の経験しかない。新型コロナ渦によって最も打撃を受けた業界の一つ。いくら経験があっても、今、あの業界に戻るのは、不可能に近いことだろう。でも、苦しくても、わたしは彼と生きてさえいければいい。私が事務の派遣社員になり、彼が多少のアルバイトでもしてくれれば、どうにかなる。いや、どうにかしてみせるわ。日本社会に貢献してないと人は思うかも知れないけど、子供だってできなかったし、二人だけなんだもの。大丈夫。絶対、大丈夫なんだから。この経済状況だもの、すぐに仕事は見つからないかも知れない。でも、もし仮に、何も仕事ができなかったとしても、少なくともあと五年間は何の問題もなく、やっていけるわ。これまで、贅沢をしなくてよかった。
江里奈は、想いを改たにし、キッと唇を結んだ。それから、勇二郎の肩に自分の頭を乗せた。
砂浜に並んで座る二人の前で、夜のさざ波が、微かな心地よい音を立てる。頭上には、たくさんの星。内地では、中学時代の同級生、中里好美に影響を受け、よく夜空を見上げた勇二郎だが、ここでは、自分には星座など探せそうもない。
ここでは、全ての星一つ一つが、眩いばかりの光を放つ宝石だ。
果てしなく続く空、無数の宝石を隙間なく散りばめた空――。
(終)
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