第三話 この夜空のどこかで
翌七月――。紋が、彼らの家に来て、およそ一ヶ月が過ぎようとしていた。自力で餌を食べられるようになり、元気いっぱいに遊ぶようになった。鳥籠から出すと、喜びの鳴き声をたて、ちょんちょんと弾むように跳ね、勇二郎や江里奈の手のひらに飛び乗ってくる。手のひらに座ったら、手をかるく握り、体を包むようにすると、手の中で気持ちよさそうに眠ってしまう。彼らがパソコンに向かっていると、キーボードの上や周辺をぴょんぴょん跳んで回る。夫妻は、自分たちの子供のようにかわいがった。
水浴びの仕方も教えた。プラスチックのお皿に水をため、指でぱしゃぱしゃと音を立てる。初めは、その光景を見ていただけの紋だったが、親が教えてくれている大事なことだと気が付き、真似をしようとする。おっかなびっくり、片足を水につけては、引っ込める。何度かその動作を繰り返した後、思い切って水の中に飛び込んだ。そして、水を弾き飛ばしている勇二郎の指の真似をして、羽をばたつかせて、水浴びを始めた。
江里奈は、きゃっきゃっと喜び、「もんちゃん、よくできましたねー」と声をかけた。彼女のもんちゃん成長日記には、『もんちゃん、初水浴び』という新しいメモが記録されたことは言うまでもない。
いつも、遊んで欲しいか、少なくとも傍にいて欲しいようだ。勇二郎と江里奈が自分がいる部屋から出て行ってしまうと、戻って来て欲しいと鳴く。
そんな日々が続く一方で・・・。勇二郎には気になることがあった。紋は、依然として、うまく飛べないのだ。飛び立って、二~三メートルほどすると、ひょろひょろと床に落ちてしまう。落ちるときは、しっかりと両足で着地しているので、ケガなどの心配はなさそうであったが、もっと飛び回ってもよさそうなものだ。勇二郎の頭の中には、一人餌になった文鳥は、部屋の中を猛スピードで飛び回るイメージがあったが、もんちゃんにはそれがない。まだ筋肉が発達していないのだろう、そう思った。
しかしじきに、小鳥の体には異変が起きていることに彼らは気付くことになる。これまでも日によって、多少は体重の上下変動はあったのだが、その週の火曜日から、明確に体重が減っていったのだ。餌もあまり食べていないようだ。水は飲むので、水に栄養剤を混ぜたり、手で一粒一粒与えると、なんとか食べてくれる。
木曜日、羽毛を膨らませていることに気が付く。小鳥が、このしぐさをするときは寒さを感じていて、体調がよくないのだ。気温的には問題なかったが、カゴを段ボールでくるみ、小動物用のヒーターで暖める。飼育書、専門書を読み漁り、いろいろと試してみるが、体調は一向に改善する気配がない。
彼らの自宅のすぐ近所に、看板に、犬、猫に加え、鳥の絵も描かれている動物病院があった。電話で問い合わせたところ、「連れてきてみてください」と言う。彼らは紋を連れて、受診した。金曜日の夕方のことであった。
病院内でも体を膨らませている。医師は言う。
「これは見た目より相当悪いと思ってください」
原因や病名は分からないようだ。薬を調合してくれたので、それを水に混ぜることにした。その一方で、勇二郎は購入元の小鳥屋に電話をかけ、店主に相談をしてみた。鳥を診れる獣医は少ないと前置きした上で、いくつかお薦めの病院名を教えてくれた。それと、薬を飲まないようであれば、ポカリスエットを与えたらよい、とのことだった。彼らは、インターネットで診察時間を調べた。もう夜になっており、月曜日に行くしかなさそうだ。
土曜日、そして日曜日と、刻々と病状は悪化していく。体重もだいぶ減ってしまった。元の姿は見る影もなく、たった数日でやせ細り、鳴くことすらしなくなった。餌も食べようとせず、薬を溶かした水にも、口をつけようとすらしてくれない。雛の頃に行った挿し餌の要領で、口から餌を流し込んでも吐いてしまう。小鳥店主から教えてもらったポカリスエットを与えたところ、それだけは飲んでくれた。ついに、紋は、止まり木に止まることができなくなり、鳥籠の床で過ごすようになった。江里奈が、小さなお皿を床に二つ置き、その一つには食べ物を入れ、もう一つにはポカリスエットを入れた。
特に江里奈は、もんちゃんに、つきっきりだった。夜も一晩中、鳥籠のすぐ傍に座ったままだ。勇二郎もできるだけ一緒にいるようにした。日曜日の夜、紋は床で突っ立ったまま、口から何かを吐いた。吐いたというより、口ばしから、透明な液体が染み出てきて、つつーっと、よだれのように垂れたのだ。何かの粘液のようだった。そして立ちすくんだまま、動かない。『ダメかも知れない』、痛烈な思いで、勇二郎はそう考えた。
飼い主がもうダメかも知れないと思うと、手乗り鳥というものは、それを敏感にキャッチし、自分はもうダメなんだ、と思い、余計に病状を悪くする。彼は、「もんちゃん、がんばれ、がんばれ。紋は、飛ぶために生まれてきたんでしょ」と小鳥に声をかける。江里奈は目を押さえて、立ち去った。見ていられなかったのだ。しかし、しばらくすると落ち着いたようで、彼女は毅然とした態度で戻ってきた。二人で一緒に看病を続ける。
月曜日、朝いちばんに電話をし、小鳥屋店主の紹介による練馬区内の鳥専門病院に連れて行くことになった。わらのふごに入れ、車を走らせる。途中、助手席の江里奈は、「もんちゃん、もんちゃん、大丈夫だからね」と声をかけていた。たまに、膝に抱いた畚を開けて、息があることを確かめる。
しかし・・・。病院に辿り着いたとき、まるでその瞬間を見計らったかのように、その魂は紋の体を離れ、天に飛び立ってしまった。診察室に入る直前、江里奈が、ふごの蓋を開けてみると、その小さな小さな愛らしい小鳥は、息をしていなかった。
医師は、亡骸を見て、「もし早く連れてきてもらってたとしても、救えなかったかも知れないです。この子、まともに飛べたこと、なかったでしょう。」と言った。それから、もんちゃんの口から、『そのう』(胃に餌を送る前に食べ物を貯める器官)に、器具を差し込むと、「カンジダ菌がたくさんいます」と言う。
江里奈は、涙をぽろぽろと零しながら、医師の説明を聞いていたが、おそらく半分も頭に入って来なかったであろう。勇二郎は、そんな江里奈の様子を見てとり、痛たまれない思いで、彼女の肩や背中をさすった。
もともとの虚弱体質に加え、小鳥にとっては厄介な細菌が、紋を衰弱させて、死に至らしめたのであろう、ということだった。その女性の医師は、診察代を拒み、決して受け取ろうとしなかった。そして、別れ際にこう言った。
「いろんな子とそのご家族が来られますが・・・。この子は、短い生涯でしたが、とても幸せだったと思いますよ。お二人がどんなにこの子を想われていたか、よく分かります。そんなに愛してもらえて・・・。この子は、幸せな文鳥さんですよ」
この言葉を聞いて、女医から顔をそらして見せないようにしたが、勇二郎の目からも、涙が溢れそうになった。
病院を辞し、帰路に着く。その道中、夫妻は、ほぼ無言であった。紋を家に連れて帰ると、江里奈は小さな卓台の上に、ティッシュでベッドを作り、かわいそうなくらいにやせ細ったその亡骸を横たえ、小さな花を添えた。
彼女はその日、一日中と言っていいほど、泣いていた。
「どうして、こんなに悲しいの?どうして、こんなに涙が出るの?」
彼女は、勇二郎に聞いているのか、それとも、自分自身に聞いているのか、そんなことを言う。
勇二郎は、「もんちゃんは、もう俺たちの家族になってたんだよ」としか答えられなかった。
夜、ようやく江里奈が泣き止んだ頃、勇二郎は場所を決めた。埋葬しようと、彼女に伝える。彼らの自宅は、マンションの二階であったが、その部屋がよく見えるところに、木や花を植えてある花壇のスペースがあった。
「寂しがり屋さんだったからね、わたしたちの部屋が見えるここがいいね」と、江里奈も同意した。人通りのなくなる深夜零時頃を待って、埋葬することにした。
埋めている最中、彼女はまた泣き出す。勇二郎も涙を流しながら、スコップで穴を堀った。彼は、紋に言ったのか、江里奈に言ったのか、「猫ちゃんに食べられないように深く埋めるね」と言い、穴を深く掘った。そして、小さな木片に、日付と、『もんちゃん』と名前を書き記した。本来は、動物を埋めてはいけない場所であろうから、その墓標は外から見えないように、隠れてしまうまで、土の中に差し込んだ。
「勇ちゃん、晩ご飯は?」
「今日はいいや」
江里奈は台所で片づけなど家事をしたりして過ごし、勇二郎はリビングで、ただ呆然としていた。テレビはつけたが、何も見る気にはなれなかった。
勇二郎は、ウイスキーを割りもせずストレートで飲みだした。一杯目を飲み終えたころ、彼の目から涙がとめどなく溢れてきた。彼は、それを拭いもせず、声も立てず、ただひたすら涙を流し続けた。
少なくとも、二時間以上は、そうしていただろうか。彼は一生分といってもいいくらいの涙をこぼし続けた。江里奈が来てしばらく隣に座っていたが、そっとしておいた方がいいと思ったのか、席を立った。彼は一人、窓の方を向き、静かにただ泣いていた。
しばらくすると、江里奈の耳に、聞き慣れた曲が聞こえてきた。もんちゃんが好きだった曲だ。勇二郎の口笛だった。もんちゃんに給餌をするときに、いつも彼が吹いていた曲だ。彼女が、リビングを見ると、勇二郎は、口笛を吹きながら、まだ涙を流していた。
ようやく涙が止まった後、勇二郎はベランダに出て、愛鳥、紋の墓を眺めた。
空は雲はなく、月の明かりが眩しいほどであった。そして、星が少しだけ見えた。
勇二郎は、在りし日、彼を心から愛してくれた桜文鳥『勇太』が、幼い『もんちゃん』の魂を導いてくれることを、その夜空に願った。
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