【最終章】第一話 シナモン文鳥『紋』
令和二年、六月。鬱病と引きこもりにより休職を続けてきた勇二郎。新型コロナの世界的流行に見舞われ、緊急事態宣言が出されていたが、ようやく、それが解除された頃の出来事である。勇二郎の会社でもリモートワークが進み、定期的に人事部からメールが来るが、どうやら自宅から連絡をしているようだ。
このところ、自室へ引きこもる日はめっきりと減り、夫婦での会話も増えていた。彼らの住む和光市でも、外出自粛は解除されたが、依然、予断を許さない状況のようである。マスクをして、用心に用心を重ねながらであったが、勇二郎の病状を回復させるため、週に二、三日は、二人で散歩程度のことはするようにしていた。
勇二郎は、まだ、急に鬱状態に落ち入り、数日間、寝たきりになることもあったが、江里奈は彼の回復を信じていた。
彼女は思う。延長に延長を重ね、最後に彼に許された休職期間は残り三ヶ月もないけど、そんなの関係ない。これから何が起きるか分からない。不況も続きそうだ。勇二郎が復職を希望しても、会社に戻ることは叶わないかも知れない。でも、わたしは、彼が何をしたっていい。わたしは何があっても勇ちゃんの傍にいる。焦らず、ゆっくり勇二郎と歩いていくのだ。江里奈の決意は固かった。人の気持ちは時が経つと変化するものなのかも知れない。でも、このことだけは揺るがないわ。
勇二郎が気付くと、最近、江里奈はスマホばかり見ている。彼女は、近頃の女性には珍しく、SNSもしないし、スマホいじりもしない方だった。普段、詮索しない勇二郎だったが、頻度が多いので、聞いてみた。
「江里ちゃん。何、見てるの?」
「んー、こういうの」
それは、文鳥の雛が、挿し餌(給餌)をしてもらっている動画だった。
「かわいいでしょ。勇ちゃん家、いつも小鳥がたくさんいて、勇ちゃん、特に文鳥さん、かわいがってたもんね。『勇太』くんだったよね?」
「よく覚えてたねー。」
「だって、勇ちゃん、自分の兄弟だっていって、『勇』の字を入れて、大喜びしてたじゃん」
江里奈は、思い切って、勇二郎に願いを告げる。
「ねえ、勇ちゃん・・・。わたしも飼ってみたい」
「できるの?」
「んー。勇ちゃん、教えてよ」
「いいけどさ、結構大変だよ。雛のうちは特に体が弱いし」
「大丈夫、大丈夫。そのために勇ちゃんがいるんでしょ」
「うーむ。最近、体調いいし、今なら一羽くらいなら育てられるかな」
「でしょー。行こ、行こ」
「・・・でも、小鳥屋さん、やってるの?」
江里奈はいくつかのペットショップに電話をかけた。以前も行ったことのある、練馬にある小鳥専門店に数羽、入荷されたばかりだという。出かけてみることにした。外出自粛により道は空いており、普段よりも早く、およそ二十分程度で到着できた。
そこは、気のいいおじさんがやっている昔ながらの小鳥専門店である。デパートにあるペットショップのショーウインドーのような今風の小奇麗さは全くない。店内は、薄汚れ、散らかっている。ゴミ箱には店主が食したであろうカップ麺の容器や空の弁当箱が無造作に詰め込まれていた。しかし、その空間は何とも言えない安心感を勇二郎に与えた。店内の小鳥たちも体が大きめで、健康そうな固体ばかりだ。店主が愛情をもって育てているのがよく分かる。文鳥が何十羽もいるのだが、つがいにされているペアも多い。鳥籠ごとに、二羽ずつ、入っており、寄り添って仲睦まじくしている。文鳥というのは、気が強く、一途なところがあり、とりわけ情の深い小鳥である。そして、個々の性格も様々だ。裏を返すと、そういう生き物は、カップリングが難しいのだ。勇二郎の実家でもフレンドリーな性格を持つ個体の多いセキセイインコなどは、カップルにしやすかったし、一つのかごに複数羽入れても問題は起こりにくかった。しかし、文鳥をつがいにして繁殖させることはそれほど容易ではなかった。お互いが好きになったパートナー同士でないと、同じカゴに同居させることすら難しいのだ。ブリーダーでもない小鳥屋がこれだけたくさんのペアリングをするには、相当、一羽一羽、丁寧に見ていなければできないはずだ。
勇二郎は、各々つがいにされている文鳥たちを見て、店主に聞く。
「ここで、雛を作っているんですか?」
「いえいえ。知らない人ばかり来るこんなところでは、落ち着かなくて、この子たちは卵なんて作りませんよ。でも、こうしておくと彼らも寂しくないし、人間側も、仲のいい夫婦を見ている方が気持ちがいいでしょ」
店主はそう言って、笑った。
雛を見せてもらう。いろんな種類がいた。勇二郎が子供の頃に慣れ親しんだ桜文鳥から始まり、白文鳥、シルバー文鳥、シナモン文鳥・・・と、彼らが入っているプラスチックのケースに書いてある。
「シルバーとかシナモンとか、聞いたことはあったけど、初めて見たよ」、勇二郎はそう言い、雛の様子を観察する。
「江里奈、どの子がいい?」
「分かんない。勇ちゃんに決めて欲しいかな」
健康状態は、だいたい分かる。勇二郎が手を近づけると寄ってくる二~三羽のシルバー文鳥たち。これなら、元気もよさそうだし、よく懐きそうだ。
小鳥のおじさんも言う。
「うん。その子らなら、間違いないよ」
しかし、勇二郎は一方で奥に引っ込んでいて、くっつき合っている数羽の雛のうちの一羽の子が気になっていた。全身が淡いクリーム色をしたその雛は、優しい目をしていた。勇二郎が手を出しても、手前には来てくれない。
「あ、その子はシナモン文鳥だよ。かわいいでしょ。でもちょっと体格が小さいかなあ。愛知県の弥冨産なんだけど、文鳥農家もすっかり減ってしまってね・・・昔は二百軒ほどあったんだけど、今ではほんの数軒しか残っていない。地元の高校生たちが復興しようと頑張っているんだ。うまく行くといいんだけど」
勇二郎は店主の話を聞きながら、その子を見てみる。確かに体が細い。でも、なんだか優しそうな子だ。奥にいて、甲斐甲斐しく周りの子たちの羽繕いをしてあげている。足には、『弥冨』と書かれた紙製の足輪がついていた。勇二郎は、小学生の頃、桜文鳥『勇太』を飼っていた頃に、何度も繰り返し読んだ文鳥の飼育本を思い出した。『弥富』とは、愛知県弥富市のこと、そこは文鳥の故郷として紹介されていたように思う。白文鳥は、そこで江戸時代に突然変異で生まれ、固定された品種であるそうだ。シナモンやシルバーはヨーロッパで固定された品種だが、シナモン文鳥はとても希少な古代文鳥と、その飼育本には記載されていたような記憶がかすかにある。そして、その記述を読んで、本物を見てみたいと思った当時のことを思い出した。今の時代では、シナモンもシルバーも品種として確立されていて、それほど珍しくはないらしいが、文鳥が出回ること自体が減っているので、勇二郎は見たことがなかった。
「お客さん、文鳥育てたことある?シナモンって、どうしても体が小さめで弱い子が多めではあるんだ。慣れてないなら、手前のこのシルバー二羽がいいと思うよ」
そうだなあ。育てたことあるっていったって、三十年以上も前の話だし。でも、気になるんだよな。あの奥のシナモンの子。
そう思っていると、店主がシナモンの子を見せてくれた。
「今のところだけど、問題ないよ。食欲もあるし、フンもきれいだ。」
「なんとなくだけど、女の子かなあ」
「かもね。大人にならないと見分けつかないけど、なんとなく、そんな気はするね」
そんな勇二郎と店主の会話がしばらく続いたあと、勇二郎は決心したようだ。
「江里ちゃん、この子にしよっか」
「うん。きれいなクリーム色だね」
店主が育て方の注意点を教えてくれ、お代を支払って、二人は店を出た。店主は車まで彼らを送ってくれた。にこにこして本当にうれしそうだ。店から駐車場までは少し距離があった。近くに借りれなかったという。
「本当にありがとうね。文鳥みたいに、こんなに気が強くて、でも一途で、愛情が豊かな小鳥はなかなかいないから、かわいがってあげてね。近頃はちっとも流行らなくってね・・・。みんな、別れが悲しすぎるって言うんだ。自分も悲しみたくないし、子供にも悲しい思いをさせたくないって。死に別れすることが分かってるから、飼わない、愛さないなんて、私はちょっと違うと思うんだけどね。だからこそ、尊い。そう思いませんか?まあでも、犬や猫を無責任に買う人よりかはマシですけどね。それに、子供たちは、生き物よりゲームに夢中だもんね。ゲームは命の価値を教えてはくれないのにね。まあ、別に動物たちは人間に何かを教えてくれるために生きている訳でもないんだけどさ。でも何だか寂しいよ。このままだと、小鳥のおじさんも、いつまで続けられるかなあ。」
彼は、そんな話を夫妻にした。最初明るかった小鳥のおじさんは、別れ際はしんみりとした口調になっていた。ここでお迎えしてよかった、夫妻はそう思った。
さて、勇二郎は、帰り道の車中、気の早いことに、小鳥の名前を考え始めていた。
「江里奈、雛の名前さあ、『もんちゃん』、でどうだろう」
「シナ『モン』だから?安易~」
そう言って、江里奈は笑った。
「もし女の子なら、そのまま、『もんちゃん』で、男の子だった場合は、『もんじろう』に改名だ。問題あるまい?」
「やっぱり、自分の名前を入れたいのね。『じろう』は、勇二郎の『二郎』でしょ」
「そんなことないって。それに俺、この子、なんか女の子のような気がするし」
「あなた、子供の頃と変わってないわ。自分の名前が入れたいだけよ。絶対そうだって」
「違うっつの。ようし、なぜ『もん』なのか、教えてやろう。俺なりに、考えたんだぜ。糸偏に文って書くんだ。糸しい、糸しい文鳥さんって、意味を込めたんだ。」
彼は、信号停車中に、メモ帳にその字『紋』をさらっと書き、助手席の江里奈に見せた。
「糸しい、糸しい、という恋心?あれえ、妻のわたしにはそんなこと言ったことないくせに、文鳥さんにはそれを言うのかあ」
「俺、江里奈に似たようなことなら言ったことあるよお」
「ないって。覚えてない。記憶の隅にもございません」
「都合のいいことは忘れるんだなあ」
「わたしは、あなたと違って、あなたから聞いた言葉は忘れません。それに、なあに、言ったことあるって。仮に一回くらいは言ったことあったとしたって、何回でも言いなさいよ」
この江里奈の言葉に、二人は本当に久しぶりに、少しだけ声を出して笑った。
そう言えば・・・。勇二郎の言った『もんじろう』という言葉に、江里奈の心に、ふと何かが引っかかった。何だろう、この違和感は?・・・そうだ、分かった。彼女は、勇二郎に聞いた。
「ところでさ・・・勇ちゃんは、どうして『二郎』なの?長男なのに」
「うーん、なんでもね。俺には兄貴がいたらしいんだ。交通事故で亡くなったらしいんだけど。彼は、『勇一』っていう名前だったんだ。だから、兄貴が亡くなった後に生まれた俺は、勇二郎って名前になったの。」
「ごめんなさい・・・。知らなかったわ。」
「いや、いいんだ。俺生まれる前の話で、俺が知ったのも大人になってからだし。お墓参りの時に、木札を見たら、『佐藤勇一』って名前があったからさ、『この人、誰?』って、親父に聞いたら、教えてくれたんだ。それ以上、多くは語らないから、俺も詳しくは知らないんだ」
江里奈は、もの思いにふけった。わたしたち、家族同様に育ったのに、全然知らなかったわ。もの心がついたときから、彼はわたしにとって『勇二郎』だった。それ以外の誰でもなかったわ。そうね、名前の意味なんて、考えたことがなかった・・・。
勇二郎は勇二郎で、自分が桜文鳥に対して、亡兄『勇一』と同じような名前『勇太』と名付けたことを考えていた。あの在りし幼少の日々、両親は、その名前を言ったり、聞いたりするたびに、どんな思いをしたのだろうか・・・。考えすぎかな。いや、やっぱり分からない。
そんな会話を夫妻がしていると、彼等の自宅が見えてきた。こうして、シナモン文鳥の雛『もんちゃん』は、勇二郎と江里奈の家にお迎えされたのだった。さてこれから、彼らの子育てが始まる。
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