第二話 欲と嫉妬の狭間で

 初めての性体験に意識が飛びそうで、何が何だか分からないうちに終わってしまった。勇二郎は、たぶんこうするもんなんだよな、と思い、彼女に腕枕をした。


 行為の後のしばらくの間は、美穂子はじっとして、余韻を味合っていた。いや、そういうフリをしていた。おそらく全然足りなかったのだろう。すぐに、素っ裸の勇二郎の股間を触り始めた。

「こんな、ふにゃふにゃのままじゃ、やだ」と彼女はいい、彼の男性器のあちらこちらを撫でる。くすぐったいやら、気持ちいいやら、分からないうちに、彼の自身は復活してきた。すぐさま、彼女は彼の上に跨る。勇二郎が素に戻りそうなほど、その動作は手馴れた一連のものであった。驚きで何もできずに固まっている勇二郎の上で、自ら腰を動かす。勇二郎は、その光景に(すごいなあ)と思いつつも、彼は今度はあまり興奮しておらず、妙に冷めていた。十分くらい経ったのだろうか、彼に抱きついて、彼女は果てた。その瞬間、「好き、好き、大好き」と彼女は叫んだ。


 その後、何回したのか、もう勇二郎には分からない。彼が音を上げるまで、交わりは続いた。彼が想像していたものとは、だいぶ違っており、美穂子の貪欲さには、驚くばかりであった。


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 勇二郎がついに白旗を上げた明け方、彼女はようやく行為を止め、怒涛の如く、お喋りを始めた。

「あたし、本当は半年はやらせない、って決めててん。その方が男の人って大事にしてくれるでしょ。でも我慢できなくなっちゃった。」

「勇二郎君がセックス嫌いじゃなくてよかったわ~」

「久しぶりで、めっちゃめっちゃ気持ちよかったで」

「勇二郎君がキスしてくれはったときな、もう濡れててんで」


 聞いてもいないことを話続ける。付き合った経験すらない勇二郎、(俺、ひょっとして、やばい女の子にひっかかっちゃったのかなあ)などと、ぼんやりと考えているうちにも、彼女のお喋りは続く。

「勇二郎君、初めてやろ。それにしちゃ上出来やで」

「次もしようね。いろいろ教えてあげる」

「勇二郎君、もてそうなのになあ。これじゃ、まるで、あたしが遊んでばっかりの子みたいやんかあ」


 美穂子は、ほほを上気させたまま、勇二郎に延々と話しかけ続ける。

 そこには、うら若き男女が初めて床を共にする際の恥じらいや慎みなど、ひとかけらもなかった。よく言っても妖艶、むしろ、怪しげとも言えるエロシチズムを含んだ空気が彼女の周辺に漂う。勇二郎は、強い香水を近距離で無理矢理にかがされたような錯覚を覚え、むせかえりそうになった。それだけでなく、「上出来よ」という台詞にはさすがの彼も少し怒りを覚えた。しかし、疲れ果てて、彼にはもはや何かを言い返す気力すら残っていなかったのである。気の散りやすいADHDにとって、自動車の運転は、結構な重労働である。まだ初心者マークの勇二郎は、初デートの高揚感のせいで気が付かなかったが、相当に神経をすり減らしていた。また、心だけでなく、体もクタクタだ。特に、終日ずっと、旧型の機械式クラッチをギイギイと音を立てて踏み続けた左足は、もう棒のようだ。彼は、美穂子の話を最後まで聞き終えることなく、落ちた。大きないびきを立てて寝入ってしまった。


 目が覚めたのは、日が昇りきった八時頃ではなかったか。勇二郎の体をなめたり、股間を刺激する彼女のいたずらによって目が覚めた。そして、最後にもう一回。

 彼女は、ようやっと、完全に満足しきったようで、軽いいびきを伴いながらの寝息を立て始めた。


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 それ以降、数日に一度は逢瀬を続ける二人であったが、会う日でしない日は、なかった。デートにおける性行為をしている時間帯の占める割合は、日増しに高くなっていく。彼女の欲求はどんどんエスカレートしていき、あれして、次はこれして、と勇二郎に命じ続けるようになった。彼は、なんだか自分が操り人形のような気がしてきていた。しかし、ほとばしる若い性欲には勝てない。屈辱的なものも感じつつも、性行為を覚えたての彼は、夢中で彼女にしゃぶりつく。彼女に誘われるままに、カーセックスも、初めて体験した。世の中に、どれくらいの数の性の技巧があるのか彼には分からないが、彼女から、ほとんどのテクニックを指導されたのではないか、いささか大げさだろうが、そう、彼に思わせるほどだった。そして、男女のそれに疎い勇二郎は、いわゆる『キスマーク』というものも知る。ある日いつもの行為の最中に、美穂子の首筋と左わき腹に内出血を見つけた彼は、美穂子に問う。

「これ、どうしたん?どっかでぶつけた?誰かに、つねられたの?」

「やだあ、勇二郎くん、これキスマークやでえ。エッチのときに吸われると、こうなるの。他の場所ならまだええねんけど、首筋だと服の外から見えてまうから、女の子は、ちょっと恥ずかしいねんで。気い、つけたってね」

 勇二郎は、(俺、そんなことしたことあったかなあ?)と不思議に思ったが、行為の最中、無意識にやってしまったのかも知れないと思い直した。

「分かった。ごめんね。今度から気をつけるわ」

 彼は、美穂子にそう言った。


 -----しかし、いつの頃からか。

 いったい、この子はこういうことを、いつ誰と覚えたのだろう、そんな考えが頭を離れなくなった。行為の最中に、彼の心の中では、どす黒い憎悪と嫉妬心が、二匹の蛇のように絡み合うようになっていったのである。


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 ふと手が空くと、つい美穂子のことを考えてしまう。

「あれが普通なのかな」

「俺がウブすぎるのかな」

「俺、告白もしてないけど、彼氏と思ってもいいのかな」

「ここ何日か会ってないけど、他の男に抱かれたりしてないかな」

「今まで、あの子は、どんな経験をしてきたんだろう」

「あれがあの子の本当の姿なのか?それとも、あの子の過去が彼女を変えたのか?過去に変な性癖を持つ男と付き合ってきたから、ああなっちゃんたんじゃないのか?」

 淫らな恋人を持った男の、不幸な、あるいは、幸せな悩みなのか。


 自室に一人でいると、あんな考え、そんな考えが、ぐるぐると頭の中を回る。次第に、自分が情けなくなってしまうのだが、それと同時に、つい自分の股間を悪戯してしまい、自慰行為に走る。そしてその後、さらに大きな自己嫌悪を抱くのであった。


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 美穂子とは、半年ほど付き合った。勇二郎にとっては唐突に---しかし、美穂子側はそろそろ潮時だと思っていた頃に---、その時は訪れた。

 いつものように、彼女の家で、いつものことをした後に、彼女が、ふと、こんなことを呟いた。


「あたし、ずるい女やねんで」

「どういうこと?」

「勇二郎君、純粋すぎんねん。あんたとおるとな、あたし、自分のことがめちゃめちゃ嫌んなんねん。それに、あんた、はっきし言って、全然おもんないわ。」

 彼女の口から突き付けられた、初めてのきつい口調だった。


「明日、久しぶりに、元彼に会うんよ。黙ってよって、思うてたけど、もう黙ってられへん。彼な、もうとっくに社会人してはんねん。横浜で働いてて遠いから、なかなか会われへんねん。会うてきてもええやろ?な?」

「・・・・・・・」

 言葉にならない。


 相当の間があったように思う。

「あかんに決まってるやろ・・・」

 勇二郎、なんとかかろうじて声を絞り出した。


 そして、彼女の体を激情に任せて、なぶり始めた。彼女がどこをどうすると、どう反応するかは、もう全部分かってる、とでも言わんばかりに、あちらこちらを攻め立てた。彼女は全く抵抗をせず、勇二郎の愛撫に対応するその時の声を出し続けた。彼は、彼女の性感帯の一つである脇腹に思い切り吸い付き、その周辺を重点的に、たくさんのキスマークをつけた。


 「もう、こんな女、たくさんだ」という思いと、嫉妬心が交錯し、気がどうかなりそうだった。


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 このままではいけない、彼は決心する。


 数日後、待ち合わせ時間を決めて、自宅の外に出てきてもらい、車の中に入ってもらった。部屋に上がったら、またやってしまう。そう思った彼は、車の中で話をすることにした。勇二郎の目的は決まっていた。前置きなど不要だ。美穂子に、単刀直入に問いかける。


「会ってきたの?」

「うん」

「したの?」


 その問いには答えなかった。美穂子は前を見据えたまま、眉毛一本動かさない。

 そして、そのことが明確な答えを示唆しているように、彼には思えた。


 勇二郎は痛烈な思いにとらわれる。俺と彼女は、そもそも恋人同士だったんだろうか。それとも、初めから、体の寂しさを紛らわすための遊び相手だったんだろうか。


 再び、彼女への怒りが沸いてくる一方で、情事を行うようになって半年、何も気づかずに、今さら、そんなことを疑問に思わなければならない自分自身に対しても、腹立たしかった。


 ついに、彼は今にも泣き出しそうな表情で、たまらずに吐き捨てるように言った。

「俺は君のバイブレーターとかじゃないんだよ」

 しかし、すぐ直後に、(なんて暴言を吐いたのだ、俺は。しまった!もう取り返せない)と、思った。


 だが、そんな彼の思いをよそに、彼女は、あっけらかんとした調子で返事する。

「ふーん。そんな風に思ってたん?通じ合ってた時もあったと思ってたのに。それに、あたし、あんたにはな、それとなーく、いろーんなサインを出してきたつもりやで。何で気付けへんの。いろんな男の人、見てきたけど、あんた、ちいと鈍すぎるわ。アホちゃうか?全然、ええよ。あたしたち、もう別れましょ。」


 勇二郎は、この彼女の言葉を聞いて、まるで脳の中心から頭全体に冷静さが広がっていくような不思議な感触にとらわれた。嫉妬心や怒りが急速に冷めていく。まず考えたのは、この子は、本気で言っているのだろうか、それとも、あえて本心とは裏腹の態度を取っているのだろうか、ということだった。しかし、その直後、すぐに、どちらでもよくなった。もはや、本当にどうでもいい。

「分かったよ。そんなこと思ってたのに、俺とやることだけは、やってたんだね。しかも、まるで何かに取りつかれたように、執拗に、何回も、何回も・・・。俺は、『ありがとう』って言うべきなのかな?それとも、『バカにするな』って言うべきなのかな?---どっちでもいいよ。お望み通り、きれいさっぱり、別れてあげるよ。誰とでも好きなだけ、好きなことしなよ。」

 美穂子の言う通り、確かに純朴過ぎるところのある---よく言えば擦れてない---勇二郎にしては、よくこのような皮肉めいた台詞がとっさに言えたものだ。彼の頭は、完全に冷え切っていたのだろう。


 彼女は、何も言わず、車の外へ出て行った。どんな思いでいるかは分からない。知りたくもない。しばらく、彼は車も出さずに動けずにいた。体が動かなかったのだ。


 もう、女は懲り懲りだ、そう彼は一人呟いた。


 車外をふと見やると-----。近づいてくる秋が冷気を帯びさせ、今にも泣き出しそうなほどどんよりと曇った空から、ついに、小雨が降り出した。

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