第五話 夕暮れの中の優駿

 勇二郎は、中学二年生に上がった。体育の授業の中では武道がある。一年間に数ヶ月程度の短期間だが、毎年行われる必須科目だった。

 剣道と柔道の選択制となっていたので、迷わず勇二郎は部活動でやっている剣道を選択した。経験のない柔道に興味はあったが、自分が少しくらい何かをかじっても、全く何もできないことは、もう十分すぎるほど分かっていた。


 一年生の頃、剣道の授業では、さすがに経験者といったところか、なんなくこなせた。二年になっても稽古の中ではそれほど苦労を感じなかったが、最後の授業で、今までの稽古の集大成ということで、試合が行われた。


 教師が出席簿を見て、組み合わせを決め、勇二郎の相手が決まった。サッカーもバレーもうまく、運動センスが抜群の相手だった。加えて水球部に所属している彼は、体が鍛えられており、力も相当なものと思われる。剣の経験としては、勇二郎の方がずっと長いはずだが、これは全く気を抜けないな、と彼は思った。


 ルールは五分間一本勝負、と決められた。

 互いに礼をして教師の「はじめ!」の声で、お互い、しばらく相手の様子をうかがうも、相手の方が先にしかけてきた。勇二郎はそれをいなし、体と体がぶつかる。


 勇二郎は思った。さすがだ。俺より動きも剣速も速い。こちらの動きに対する反応も良い。しかも、鍔迫り合いのとき、まともにぶつかったら、弾き飛ばされそうだ。あの面をまともにもらったら失神してしまうのではないか。それだけは避けたい。


 相手は体力に任せてどんどん打ち込んでくる。先手を取ろうにも相手の方が早い。これが持って生まれた才能の差なのか。


 お互いに有効打が入らない状態が続き、鍔迫り合いのときにもつれて、二人とも場外へ倒れこんでしまう。審判の教師の「止め!」の声で仕切りなおすも、試合終了までもう多くの時間は残っていない。


 ところで、剣道の胴という技は、比較的当てやすいが有効打とはなりにくい。剣の刃筋を相手の体に綺麗に入れることが剣の構造上、難しいからだ。特に引き胴ともなると、竹刀を相手にあて派手な音を立てることだけなら容易だが、なかなか一本としては認められない。勇二郎もこの試合中、数本は引き技を当てたが、採ってくれなかった。実際の刀を使っていた場合、殺傷打となりうるか、ということが考慮されるのだ。引き技はちょっとしたタイミングで威力が極端に減る。相手から下がりながら、剣ではなく、棒切れでたたくだけのようなものだからだ。


 勇二郎は、一瞬の間に思いを巡らせた。


 この技であれば・・・。面返し胴。


 面を打ってくる相手の竹刀をさばいて、その勢いを利用し、相手の胴を水平になぐ。これが決まれば一本となりやすいのだ。稽古中であれば技術的には難しくない。この技はボクシングでたとえるとカウンターパンチのようなものだ。お互いの勢いを利用し、相手の攻撃をかわしながら、打つ。このとき腰の回転も加えれば、さらに威力が増す。


 しかし、カウンター攻撃というその性質上、実際の試合で格上の相手に決めるのは、困難を極める技でもあるのだ。


 竹刀をかまえながら、落ち着いて、勇二郎は相手の様子を見た。肩で息をしている。いくら体力があって運動神経がよくても、相手と棒で殴り合うなんて慣れないことをして、数分間の打ち合いで、相当に神経をすり減らしたことだろう。


 仕切りなおして、審判が「かまえ!」の声をかける。残り三十秒・・・、といったところか。


 勇二郎は心を決めた。

「面-っ!!!」

「胴-っ!!!」


 正面からの面を右斜め前にかわしながら、降りかかってくる竹刀をさばき、相手の腹を水平に薙いだ。同時に、自分も最大速度で前進した。腰もしっかりと回し、三つの力を合成して最大限の力を生み出した。『斬った』のである。


「一本!!!」


 先生の大声が道場中に響いた。


 こうして、勇二郎はようやく勝つことができた。

 嬉しかった。素人相手に情けないことかも知れない。しかし、本気で切り合ってきて死闘となり、相手を最高の切り方で仕留めることができたのだ。


 思わず、手を天に突き上げ、ガッツポーズをしてしまった。

 正座して戦いの行方を見守っていた周りのクラスメートたちからは「うぉー」という歓声と拍手が上がった。


 お互いに礼をし、試合終了となった。


 もっとも、すぐに別の意味で「あ~やっちゃった」と勇二郎は思った。


 相手を倒してガッツポーズをとるという行為は、礼にはじまり礼に終わる武道において褒められたものではない。先生も剣道家、どう思われただろうか。そう、思い、勇二郎は己を恥ずかしく思い、恐縮していた。あくまでも体育の授業における数ヶ月の一講座であるので、そこまで求めるのは酷と考えたのかも知れない。また、まずは剣道に興味をもって欲しいから、ここで勇二郎を叱るのは逆効果と考えたのかも知れない。教師の真意は分かりかねたが、少し難しい表情をしただけであった。


 試合終了後、先生は「良い試合でした」と二人に声をかけた。

 また、相手も負けたが、思い切り戦って、満足した顔付きだった。


 ふ~っ。面を脱ぎながら、勇二郎は息を吐きだした。体中が汗でぐっしょりである。呼吸もしばらくは整いそうにない。今回だけはなんとかなったが、彼が練習したら、すぐに勝てなくなるだろう。運動のできる人って本当に羨ましいな、と改めて思わされた一日であった。


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 勉学と剣道に勤しむ勇二郎。そんなある日のこと。部活動を終え、校門へ向かう勇二郎に、女子たちがグラウンドで短距離走をしている光景が目に入った。その中に、同学年の中里好美の姿があった。勇二郎は、部活友達と一緒であったが、思わず足を止めた。彼女の走る姿を見てみたくなったのだ。


「女子か。胸の大きい子が走るのは、たまらんなあ。お前、案外、ムッツリやなあ」と、友人は勇二郎をからかってきたが、彼らも足を止め、一緒に見学することになった。いよいよ好美が走る順番が回ってきた。彼の視線の先に誰がいるのか気が付いたのか、友人は言う。

「中里か~。かわいいもんな。でもな、悪いことは言わん。アレはやめとけ。上級生や他のクラスのやつらが、ぎょうさん告白してねんけどな、みんな、ことごとく返り討ちにされてんねんで」

「ちゃうわ。そんなんちゃう。俺、走るの遅いから、速い人を見んのが好きやねん。ホンマ、それだけやねん。」

 勇二郎は、少々ドギマギしながら、そう言い返し、再び中里に視線を向けた。


(陸上部なのかなあ)勇二郎がそう思っていると、それを見透かしたように、「あいつ、バレー部やねんけど、足速いし、たまに掛け持ちしてるみたいやで」と友人の一人が教えてくれた。


 勇二郎は足が遅い。遅いというか、体のどこをどのように動かせばうまく走ることができるのかがよく分からないのだ。短距離走をやらされても、体の動かし方がわからずに終わってしまい、息も切れてないし、力がどこにも入っていないのが、自分で分かる。全力を出せていないのは分かるんだけど、全力を出すにはどうしたら、いいんだろう、などと考えていると、『ピッ』と鋭い笛の音が聞こえてきた。中里が走り出したのだ。


 久しぶりに見る彼女は二年生になって、髪を少し伸ばしたようで、首の後ろで束ねた髪先が背中にかかっているのが、スタート前に見て取れた。既に夕暮れ時で、日は落ちかけていたため、はっきりと見えにくくなっていた。しかし、夕陽を浴びて、その束ねた髪を後ろにたなびかせながら、全力で疾走する彼女の姿を、勇二郎はとても美しく感じた。『ポニーテール』とは、まさしく、よく言ったものである。彼女の髪は、さながら、サラブレッドのキラキラと輝き、風になびく尾のようだ。好美は、二位以下を大きく引き離し、一位でゴールインした。そのあとの汗を拭く清々しい姿もまた、彼の心をとらえて離さなかった。


「なあ、そろそろ行かへん?見てんのバレたら、中里にどやされてまうって」と友人に急かされるままに、帰宅の途についた。後日も機会があれば見ようとするのだが、もう掛け持ち期間は終わったのか、以降、彼女の走る姿を見ることはできなかった。彼はとても残念に思った。好美の走る美しい光景は、ずっと長い間、勇二郎の目に焼き付いて離れなかった。

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