第二話 差し始めた光

 平成三一年初春――まもなく元号が令和に変わろうという頃―――。勇二郎が、うつ病を発症し、引きこもりとなってから、一年以上の月日が経っていた。妻は、ほんの少しではあるが回復の兆しが見えたような気もしていた。出社できなくなってからは、妻と会話どころか、目を合わせることもできず、自室に寝たきり状態の彼であったが、このところ、リビングに出てくる機会が増えてきている。妻は、それだけでも進歩ではないか、と思った。


 彼女は思う。わたしには何もできなかった。『時間』というものは、何にもまさる特効薬であるのかも知れない、と。まだ何が起きるか分からないけれども、どんと構えていようと。絶対に、彼は治るんだから。


 勇二郎が療養中の彼女の心情は想像を絶する。いつ起きているかも分からない、いつ寝ているかも分からない。一日中、部屋で横になっている。時折、一人で苦しそうな声で呻いている。作った食事には手をつけず、夜中に、ふと気付いたら、自分でラーメンを作って食べていたりする。声をかけても、ろくに返事がない。と、思ったら廊下で嘔吐している。彼女は、ただ黙って見守ることしかできなかった。この一年、どれほど彼のことを気にかけただろう。しかし、どうすればいいか、いくら考えても分からなかった。


 天気がよく、少し体調の良い日には、ベランダに出て、日の光を浴びるというような行為も見られるようになった。まだまだ体調に波はあり、週に三日ほど部屋から出てこなくなる日もあるけれども、ちゃんとした食事もとり、少しずつ妻との会話も増えてきた。


 そんなある日のことである。悩んだ末、妻は、思い切って、勇二郎に散歩に誘ってみた。勇二郎は、難色を示した。

「どこに行くのさ。正直、外に出るのはまだ抵抗がある。」

「どこか行きたいところない?」

「・・・青空と緑が見たいかなあ。もう何年も見ていない気がするよ」


 彼女は、勇二郎を外に連れ出した。そこは、近所にある公園だった。小さな公園で、中央にある池の周囲をくるっと一回りできる遊歩道がメインだが、少し小高いところに登れる階段状の山道もあり、ちょっとしたハイキング気分も味わえそうな場所に思えた。


 空の青がまぶしい。木々の緑が優しく目に沁み込んでくる。

 歩く道すがら、鯉、水鳥、岩の上で日向ぼっこをする亀たちを見かけた。人と言えば、へらぶな釣りのおじさん達とボール遊びをする子供を数名見かけた程度である。


(今、どんな気持ちなのだろうか、この自然が、少しでも彼を癒してくれたらいいのだが・・・)妻は考えるが、彼はほとんど何もしゃべらない。迷ったが、無理に話しかけることはやめた。


 小一時間ほど、そうして歩いただろうか、一通り歩いた後、勇二郎は疲れたのか、道中の道脇にあった少しだけ盛り上がった丘にあがると、その芝生の上にあおむけに寝転がった。妻は、勇二郎を追い、彼の横に座る。無言の勇二郎の隣で、彼女は、しばらくの間、池の方を眺めていた。


 すると、勇二郎が――彼の方から妻に話しかけるのは一体いつ以来のことであったろう――、空を見上げたまま、口を開いた。

「いろいろとすまなかった。そして、ありがとう」


 妻は、驚いて彼の顔を覗き込む。そして、まるで、堰を切ったように喋り始めた。

「そんなことない!わたしのせいだわ!わたしがいつの間にか勇ちゃんをどんどん追い込んでしまって、こうなってしまったんだわ。わたしのせいだったのよ。ああ言えばよかった、こうしてあげればよかった、ってどれだけ思ったか分からない。出て行こうと思ったこともあるわ。わたしが勇ちゃんの心も体もぼろぼろにしてしまった。わたしさえ出て行けば、勇ちゃんは努力家で気持ちの強い人だもの、きっと、元気になるって。わたしと結婚したから、こうなってしまった、私は昔の勇ちゃんに戻って欲しかった。わたしさえいなければよかったんだって。でも、次の日になると、わたしに責任があるんだから、わたしが立ち直らせなきゃって。それでも、やっぱりどうしていいのか分からなくって。わたしには何もできなかったわ。わたし、わたし、勇ちゃんのことばかり毎日、毎日考えて、悩んで・・・わたしは勇ちゃんが大事なの」

 彼女の目には、今にも零れ落ちんばかりの涙が浮かんでいた。


 ようやく、彼女の言葉が止まると、勇二郎は、妻に優しく話しかけた。

「責任とか言わないで。本当につらい思いをさせてしまったね。」

 妻は本格的に泣き出した。嗚咽が漏れそうになるのを懸命にこらえながら。


 居住まいを正し、そんな妻の目をまっすぐ見つめると、勇二郎は今後に対しての思いを口にした。

「これから少しずつ先のことも考えて行きたい。でも今すぐは無理だ。人と会うのが怖い。会社に行くことを想像しただけでも恐ろしい気持ちになるんだ」

「分かってる。少しずつ、やって行こうね。わたしは勇ちゃんの好きなように生きて欲しい。これまではわたしのために頑張ってくれた。もう十分なのよ。二人で生きてさえ行ければそれでいい。何があっても、わたしは勇ちゃんを支えるから。」

「ありがとう。でも、頑張らないで。ただ傍にいてくれれば十分だよ。それだけでいいんだ。いつか立ち直ってみせるから。」


 休職期間は数度に渡り、延長されてきた。勇二郎に対して、最後に猶予された期間は、残り半年を切っていた。


 彼女は思う。ゆっくりゆっくりやって行こう。転職を何度も繰り返し、ようやく彼が勤めを続けられそうな良い会社に出会えた。でも、そのときには、彼は既に壊れてしまっていた。なのに、文字通り、死力を尽くして戦った。もういいじゃない。今の会社に戻れなかったら再就職は難しいだろうけど、それだけが人生じゃない。生きてさえいてくれればそれでいい。生きて、昔のように笑って欲しい。


 そして、彼女は、その思いは口にせず、ただ一言だけ、こう言った。

「またお散歩しようね」

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