【第三部】第一話 新生活のはじまり
昭和五九年十月、勇二郎は大阪府北部の小学校に転入し、登校を始めた。その小学校では既に修学旅行は終わっており、ついに勇二郎は修学旅行がどういうものか、知ることができなかった。一家が住まいを定めた場所は、治安もよく、都心へのベッドタウン。転勤族も多い。それでもしかし、新生活は彼にとって、戸惑いの連続であった。まず、教師からも、同級生からも姓で「佐藤」と呼ばれるが、あまりこのような経験がない。彼が育った沖縄県の小学校では、教師が生徒を呼ぶときも、クラスメート同士がお互いを呼ぶときも、下の名前で呼ぶのが通例であった。呼びなれていない苗字で呼ばれると、なんとなく距離感を感じるし、他人事のように感じてしまう。
むろん、それだけではない。彼は、ADHD特性の多くを持ち、さらに、学習障害に加え、少しだけだがASD特性も内包している少々複雑な混合型の発達障害児であった。ADHDを、漫画『ドラえもん』の登場人物に喩え、「ジャイアンタイプ」と「のび太タイプ」に分けて考えるという、一つの説が世の中にはある。その説に沿うならば、勇二郎は、「のび太君」的な特性も持っている。そのためか、同級生に、「佐藤は、ホンマのんびりしてるなあ」と言わせることも多々あった。声をかけられても、それに気がつかず、結果的に無視をしてしまうようなことも起こる。自分からクラスに溶け込もうともしなかったため、次第に、一人でいることが多くなった。輪の中に入らず、隅っこで一人、空を眺めるか、図書館から借りた本を読む。周囲は、「変わった子が来たなあ」と思った。
クラス全体の雰囲気としても、南国のそれとは異なり、教師は非常に厳しい。勉強する子は必死で勉強し、「私立中学」という単語が同級生同士の会話で出てくるほどであったし、一方では、時代柄か、当時の言葉で言うところの不良少年的な子供たちも少なからずいる。彼は、そのいずれのグループにも馴染めなかったのである。
真剣に授業を聞く子供たちの中で、彼は相変わらず集中できず、落書きなどをして、ひたすら終業の鐘の音を待ち続け、どうにか、やり過ごした。それでも、たまに席を立ちたくなる。しかし、授業中に悪ふざけをして、教師にビンタされたり、蹴られる同級生を目の当たりにする。とてもそんなことが許される雰囲気ではない。
彼が落ち着いて座っているために、彼には自然とある癖がついた。まず、手の爪を噛んで引きちぎっていった。しばらくすると、それだけでは足りず、爪と肉の隙間に、芯を抜いた---つまり先っぽを空洞にした---シャープペンシルの金属製の先端部をつっこみ、皮や肉片を穿り出すのである。血が出る。当然、痛いのであるが、そのお陰で、じっと座っていることができるようになった。
耐性がつき、その癖はさらにエスカレートしていく。手を傷つけるだけでは飽き足らず、上履きを脱ぎ、足の爪を教室の床に擦り付けるようになった。その行為を何度も繰り返すと、だんだんと爪が曲がって、折れ目がついてくる。そして、靴下の上から手で、その折れた足の爪をちぎるのだ。彼の靴下の指先の部分は、しばしば血で染まった。こうして、勇二郎の手足の指先は、ぼろぼろになっていき、気が付くと、自宅でも同じことを行うようになった。彼の悪癖に気が付いた父母も、気を揉んだ。夫妻で協力して、それとなく勇二郎を悟すことを続けたが、彼はその癖を辞めることはできない。自分でも、みっともないことくらい、分かっている。
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そのような、なかなか馴染めない小学校生活を送る日々の中で、体育では、バスケットボールの授業が始まった。他の生徒は数年選手だが、勇二郎は、バスケをやるのは初めてだった。見かねた教師が個別にドリブルを教え、パスなどを教えてくれた。到底、実戦で通用するレベルには見えなかったが、とりあえず、体育の授業の時間をやり過ごすことはできるようになった。
続いて、教師は勇二郎にシュートを教えた。投げ方の基本ということで、左手を添えて右手を押し出してボールを投げる動作を何回も練習させられた。三ポイントよりもずいぶん近い距離だったが、それでも全然入らない。ボードのかなり上部にあたったり、よし、ならば!と力を弱めると、リングにすら届かなったりする。
このシュートの練習がしばらくの時間、続いたため、周りの生徒が面白がって集まってきた。彼らは、教師と勇二郎を取り囲んで座った。そのうちの一人が、「佐藤、下から、下から」と、勇二郎に声をかけた。両手で下からボールを投げろという意味のポーズを何度もとる。勇二郎はその真似をしてみた。彼が下手投げで放ったボールは、ひょろひょろとした弧を描き、初めてリングにあたった。周りの男子たちは、大爆笑をした。
-----その時だった!
体育館の向こう半分で授業を受けていた一人の女子生徒が、ぐいぐいと迫るような圧を放ちながら、教師と男子たちに向かって歩み寄ってきた。彼女は、ついに男子側のコートに入り込む。そして、勇一郎と教師の間に立ちはだかるやいなや、教師に向かい、「先生、私に任せてください」と言い放った。次に、輪を囲むように座り込んでいる周囲の男子たちを見回すと、『きっ』とした目で、彼らを睨みつけ、「あたし、こういうの大っ嫌い」と吐き捨てた。
他の男子たちは、すごすごと離れて、各自別の練習をすることになり、勇二郎はその女子から言われるままに---とても逆らえる雰囲気ではない---、シュートのやり方を教わった。すると、だんだん入るようになってきた。入ったときは、「ナイっシュー」と言ってくれる。単純な運動ならば、反復練習すれば勇二郎にもできるようになるらしい。あと、やはりその女子の教え方もうまかったのだろう。
その女子は中里好美といった。女子からは、本名の『よしみ』ではなく、『このみ』というあだ名で呼ばれていた。彼女は、成績もよく、運動もよくできた。容姿もかなり整っている方で、非の打ち所がないとは、こういう人のことを言うのだろう。性格も良いため、特に女子たちからは支持されていた。少し丸めの整った顔立ちに、大きなくっきりとした二重瞼の目が乗り、その下には派手過ぎないほどの、ほどよく立った鼻筋と鼻、歯並び、口元、全て完璧に見えた。加えて表情に愛嬌があるので、『美人』ともいえるし、『可愛い子』とも、どちら側にも表現できる。性格が真っすぐなところがあり、見かねて勇二郎を助けに入ったのであろう。万物を与えられると、人はこうなるのか、とでも言えそうなくらい、堂々としており、かつ、他人には優しかった。
さて、シュートが入るようになってきた勇二郎。ある日、バスケの授業が終わり、ボールを片付ける際、彼女に教えてもらったシュートの打ち方で、拾ったボールを、収納カゴに放り込んだことがあった。すると、まさか監視でもしていたのだろうか、すかさず、隣のコートから好美の大声が飛んできた。
「佐藤!調子に乗ったらあかんよ!」
どうやら、気の強さも相当なもののようだ。
好美とは、この後、同じ中学に進学することになる。
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