第四話 別れと旅立ち

 勇二郎は、入院四日目に無事に退院することができた。後遺症はでないだろうとのこと。大人たちから、あと一足遅ければ危なかった、という説明を受け、これからは気をつけようとは思ったものの、自分が死に近いところにいた実感はなかった。


 周囲の大人たちは大変な思いをしたが、苦しさだけでいえば、持病の喘息とつきあってきた彼にとって、猛毒貝がもたらした呼吸難や入院生活は、さほど苦しいものではなかったのである。話を聞くと、さすがに、かの貝に対する恐怖心は持ち、自身の行為への反省はしたものの、「あんなに綺麗なものを持ち帰ることができなかったのは残念だったなあ」などと、呑気なことも考えていた勇二郎であった。


 夏休みが始まったばかりで外に出たがったが、大らかな母もさすがに彼の予後を気にかけ、しばらく、家で安静にしているように厳しく言いつけた。彼女の判断は正しかった。


 案の定と言ったところか、退院して数日後に強い喘息の発作が出て、勇二郎はまた動けなくなった。早朝五時頃か、呼吸難と激しい咳で目が覚めた。動くどころか、息をするのも難儀で、喋ることさえ苦しい。彼の小児喘息は、成長するにつれ収まってきていたので、これほどひどい発作は、久しぶりである。行きつけの病院が開くのを待ち、母の付き添いで、半日間、吸入と点滴を受けた。午後にはだいぶ収まった。しかし、まだ歩いたり階段を使うと息が切れる状態で、帰宅後、すぐ横になった。


 夕刻、家族旅行から帰ってきた江里奈が家に来た。沖縄にいるうちに、比較的容易に行ける台湾へ、彼女の家族はもう一度行っておきたかったらしく、先日の潮干狩りには来れなかったのである。勇二郎の身に起こったこれまでの話は概ね聞いてはいたものの、やはり心配で来てくれたらしい。加えて、彼女の引っ越しの日時が決まったようで、それを伝えるためでもあった。


 勇二郎は起き上がるが、やはり咳き込んだり、まだぜーぜーと息をしていた。彼が喋るのはまだ容易ではなかったため、江里奈もあまり喋らず、床に座った彼の背中をさすってくれた。


「大変だったね。無事で本当に良かった。顔見て安心した。」

 彼に喋らせないようにとの気遣いであろうか、返事を求めるようなことは、ほとんど言わなかった。

「・・・江里奈も来れればよかった。・・・楽しかった。・・・貝、綺麗だった。・・・見せてあげたかった」

 息苦しい勇二郎は、途切れ途切れに、そう言った。


 江里奈は、勇二郎の背中をさすりながら、彼に話しかける。

「わたし、引っ越しの日、決まったんだ。来週末、お母さんたちとフェリーにのって奄美大島に行く。」


 江里奈が転居することを初めて聞いたときはイメージが沸かず、社会科で使う地図で見ただけでは、近そうに感じていた。しかし、父母に教えてもらったり、図書館で調べたりして、今は彼も多少の知識を持っていた。便数は数日に一回と少なく、早朝出航して夜遅くに到着する長旅となりそうであり、彼が遊びに行くにはそれほど簡単な場所ではないことを知った。奄美大島が結構広いことも分かった。島に到着してから江里奈の自宅まで行くにも時間がかかるのだろうな、ということも、なんとなく想像できた。


「見送りに行く。」

「ううん。勇二郎は動いちゃダメ。何かあったら大変」

「でーじないよ(大丈夫だよ)。平気さ~」

「ダメだったら。出発の日にちゃんと、さよなら言いにくるから」

 自分で言っておきながら、『さよなら』と口にした後、彼女のくりっとしたかわいらしい瞳から涙が零れ落ち、頬に一筋の線を描いた。


「奄美大島に遊びに行くよ。」

「絶対だよ。待ってる」


「・・・勇二郎。わたしがいなくなったらこれ読んで。」

 江里奈は、一通の封書を勇二郎に手渡した。横書きの封筒で、右下にスヌーピーの絵が描かれている。どうやら手紙のようだ。


 勇二郎はさっそく開けようとする。

「ダメだったら。わたしがいなくなったらって言ったでしょ。開けたら死なすから」

 彼女はいったんはおさまった涙をまた流し、半笑いでそう言った。

 勇二郎にとって、幼少時から江里奈の『死なす』は絶対であった。この約束は守らなければならない。


 彼女はしばらくの間、正座して勇二郎の背中をさすりながら、もの思いにふけっていたように見えたが、

「勇二郎、お互い、がんばろうね。」

 そう言うと、ゆっくりと勇二郎の背後から彼の頬に、自分の頬を摺り寄せた。どう反応してよいか分からず、勇二郎はされるがままだった。再び流れ始めた彼女の涙が勇二郎のほほにも伝わった。何か言わなければ、と思ったが、何を言えばいいのか分からない。

「遊びに行くから。」

「うん・・・。」


 彼が同じことを言うことしかできないままでいると、数分間の沈黙の後、彼女は勇二郎の体から離れた。すくっと立ち上がり、「バイバイ、また来るね」とだけ言って、帰っていった。


 結果的にこれが彼らの最後になる。勇二郎は再び入院してしまい、江里奈が沖縄を発つ前に、彼女ともう一度会うことはできなかったのである。


 そして、彼は父から聞かされる。自分たちの家族も大阪に戻ることになったことを。江里奈一家が沖縄を発った数日後のことだった。

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