第二話 夏の終わりの始まり
勇二郎は、小学六年生になった。この年は、彼にとって諸々の転機が重なって訪れる忘れられない一年間となる。一学期の初め頃に少しずつ変化は訪れていた。
喘息が少し落ち着いてきたので、登校できる日は増えてきたのだが、相変わらず授業を聞くことができない。集中力が五分と続かない。席を立ったらダメということは散々、知識として学んだので、それはしなくなったのだが、別のことを考えていたり、教科書に落書きをしたり、ノートの右下に拙いパラパラ漫画を描いてみたり、友人と紙切れを回して放課後の遊びの相談をしたりしていた。
窓際の席を与えられたときが、彼が一番おとなしいときだったかも知れない。教室の外の空や景色、校庭で行われている他のクラスの体育の授業を見ていると、じっと座っていることもできた。雲を見れば、クジラなどの何かの生物やSF映画にでてくる怪獣などに見立てて、その流れ行く雲の動きの変化をただ眺めていた。
一学期も終わりに近づいた六月初めの頃、席替えがあり、幼馴染の江里奈の席と近くなった。彼女は勇二郎の一つ前の席となった。彼らの席は教室の廊下側から二番目の列で、教室の後ろの方だった。
智恵は別のクラスだったし、勇二郎と江里奈が、学校であえて話す機会も少なくなっていた。勇二郎は男子と、彼女たちも女子と遊ぶ機会も増えていたし、幼少時のように三人組を結成して冒険の旅に出るようなことはなくなっていた。ただ、互いの家同士は隣近所であったから、彼女たちの家族と一緒にバーベキューをしたり、キャンプに行ったりと、相変わらず仲は良かった。
席が近くなり、久しぶりに学校内で江里奈と話す機会も増えた。授業中も、前に座っている江里奈が気になってしかたがない。背中をつついてみたり、消しゴムの削りカスを彼女の机の上に投げてみたり、話しかけたり・・・とやりたい放題。
初めは平静を装っていた江里奈も、次第に勇二郎に返しを入れるようになっていた。教師の目を盗んでは、前を向いたままの姿勢で、消しゴムのくずを勇二郎に当たるように投げ返してみたり、時には紙切れに何かを書いてそっと勇二郎の机におき、勇二郎も返事を書いて、背中をつついて渡してみたり・・・。段々エスカレートしていき、彼女が後ろを振り返って、勇二郎と小声で会話をすることも多くなってきた。
教師が機会をつかまえて注意をし、いったんは収まるものだが、また次の授業になると同じことが起こる。クラス内の、ませた女子は、二人は付き合っているんじゃないか、と噂をするようになった。勇二郎は『付き合う』の意味は分からないが、他の女子からそのような話をされると、江里奈は「そういうんじゃないから!」と怒っていた。
ある日の社会の授業中、江里奈と勇二郎はまた、いちゃつき―――周囲からはそう見える―――合っていた。これまでも散々注意してきたのであろう、その教師は、明確な罰を与えることにしたらしい。二人を前に呼びつけた。二人は、黒板の右端の前に立たされた。すぐ右横には横開きの引き戸がある。主に授業開始時に教師がはいってくるのに使う扉である。
「君ら、そんなに仲良しなら、先生がもっとくっつかせてあげよう」
机と机の間を指さし、指示を与える。
「勇二郎は、江里奈をおんぶして教室の後ろまで行って、ここまで戻ってきなさい。そして、そのまま外に出て、おんぶしたまま授業が終わるまで廊下で立ってなさい」
(それくらいなんてことないさ、なあ江里奈)
彼はそう思い、彼女に背を向けてしゃがんだ。
教師が「さあ!」と江里奈を急かす。江里奈は言われるままにしゃがんだ。
すると、彼女はそのまま勇二郎の背に乗るのかと思いきや、しゃがんだままで、自分の目のところを隠して、しくしくと泣き出してしまった。勇二郎はこんな泣き方をする江里奈は見たことがない。
「江里奈、行こう」
勇二郎は彼女の手を引っ張り、自分の肩に乗せた。彼には『考え』があった。
江里奈は観念し、勇二郎の背におぶさる。勇二郎は、彼女を背負って立ち上がり、机と机の間を歩き出した。同級生が、やんややんやと囃し立てる中を、まっすぐと進み、教室の一番後ろ、皆のランドセルがしまってある棚のところまで到着した。教師の指示は、ここでUターンして前まで戻ってきて、廊下に出て授業が終わるまで立っていることだ。
勇二郎たちは、廊下に近い席に座っており、今、おんぶして通ってきた通路は一番右の列とその左隣の列の間である。つまり、教室の後ろにある引き戸の通用口は、すぐ目の前だ。彼は、彼女を背負ったまま小走りで引き戸をあけ、外に飛び出した。
彼女を背中から下ろすと手を引っ張って、一緒に階段をかけおりる。そして、下駄箱で靴を履き替え、校舎の外へと駆け抜けた。教師が追ってくる気配はない。
問題児の勇二郎が―――当時、ADHDや発達障害という言葉は知られていなかったので、乱暴ではないが言うことを聞かないし、知能は認められるので、養護クラスに入ってもらう訳にはいかないものの、勉強や運動が異常にできなくて扱いに困る問題児という認識だった―――、最近はその頻度は減ったものの、授業中に席を離れたり、教室を出ていく癖があったのは、有名であったので、みんな、さほど気にしなかったのかも知れない。
勇二郎は、ぼーっとしていたり、おどおどしているように見えることも多いが、いざとなるとすぐに開き直って大胆になることがある。人の目が気にならなくなる。江里奈も、もう泣き止んでいた。校門を出ると、当てもなく自然と家の方角へ向かって歩きだした。
勇二郎は一緒に歩いている途中、全然関係ないことを考えていた。
(江里奈、こんなに小さかったか?)
幼少時の、自分より一回り大きいイメージが抜けておらず、勇二郎の背は伸びていて差は縮まってはいたが、まだ自分と同じくらいか自分の方が少し低いと思っていたのである。横に並んで歩いてみると、彼より少し、背が低いように感じる。
昔よく一緒に遊んだ小さな川が目に止まり、二人で川のほとりに腰を下ろした。
「ごめんね。勇二郎」
「なんで謝る。江里奈は悪くないさー」
---どれくらいの時間が経っただろう。二人はしばらく何も言わずにただ川面を眺めていた。江里奈が唐突に告げた。
「わたしん家、奄美大島に引っ越すんだ」
(?)勇二郎は意味が分からない。
「どこ?いつ帰るの?」
「遠いところ。夏休みの間に引っ越し。船で行けるけどやっぱり遠いし、もう会えなくなるかも。」
(奄美大島ってなんだっけ。地図でみたよな。沖縄じゃないの?遊びには行けないのかなあ)
江里奈と離れることに実感が沸かず、かの地の想像もできない。何があるのかなあ。オレも行ってみたいなあ。それくらいのことしか、頭に浮かんでこなかった。
「休みの日には遊びにいくさー」
「そうだね。一生会えなくなる訳じゃないもんね」
江里奈が今にも泣きだしそうな表情をしていることには、勇二郎は気がつけなかった。それどころか、頭上の青空を見上げて、行ったことのない島なら絶対行ってみたいなあ、渡嘉敷島も面白かったし・・・と同じことを考え続けていただけである。彼は思った。江里奈もいるなら、なおのこと楽しそうだなあ。
そのあと、久しぶりに公園で二人でけんけんぱを日暮れ近くまで行い、家に帰った。勇二郎も江里奈も、不思議と両親からこの件で怒られるようなことはなかった。
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