第五話 桜文鳥『勇太』
昭和五八年四月。勇二郎は小学五年生に進級した。その頃、母が一羽の文鳥の雛を連れ帰ってきた。新聞の読者投稿欄で『文鳥のひな差し上げます』という掲載を見つけ、ゆずっていただくことになったそうだ。
昭和五十年前後の頃、小鳥を飼うことが日本全国でブームになっていた。戦後の経済復興が成功した証でもあるかのように、各家庭の父親達は、少し裕福になった家計状況を鑑みて、犬や猫は買えないが小鳥なら・・・と、ペットショップで小鳥を買い、家族へのお土産に持ち帰るようなこともあった。
生き物の命の尊さを金額の大小で測ってよいかどうかは別問題として、確かに小鳥の飼育というのは初期費用、維持費、住宅環境の面からすると、取り組みやすい部類に入る。近隣住民の心証を考えても、問題にはなりにくい。加えて、手乗り鳥ならば子供たちの良いパートナーとなる。
多くの家庭の玄関口には、鳥かごが置かれ、文鳥やセキセイインコなどが見られた。今では見る機会がほとんどなくなった、九官鳥を飼育する家庭もあった。
母が持ち帰ってきたのは、わらの畚に入った生後三~四週間ほどの桜文鳥のヒナであった。全体的にかなり黒っぽい羽色をしていて、佐藤家の子供たちは見たこともないくせに、「カラスの子供みたい」といった。勇二郎は、口ばしは黒いのにその口元がうっすらとピンク色を帯びているのが不思議で、そこばかり観察していた。
譲り手のアドバイスだろう、子供たちがヒナに触るのは当面の間は禁止され、母が飼育を担当した。ヒナは、挿し餌(給餌)をされているのを子供たちに見守られながら、何事もなく、すくすくと育った。次第に羽の黒色は薄らいでいき、口ばしのピンク色の面積が増えていった。
一ヶ月半ほどたった頃には、自力で餌を食べられるようになり、飛べるようになっていた。まだもう少しの注意は必要であるが、立派な若鳥の完成である。この頃から、母の許しがあった時だけ、子供たちは文鳥と遊んでよいことになった。
「芸を覚えさせる」
「口笛で歌を覚えさせる」
「言葉を覚えさせる」
子供たちはそれぞれ好き勝手なことを言い、文鳥と戯れ、楽しいひと時を過ごすのであるが、一時間も経たないうちに母から声がかかる。
「小鳥さんもそろそろ疲れてきたから今日は終わり。休ませましょーねー」
若鳥としても籠の外に出て嬉しく、テンションが高い。ぴょんぴょん跳ねたり、子供たちの頭上をくるくると飛びまわったり、母のところに飛んで行ってみたり。まだまだ元気そうであるが、あまり遊ばせすぎると弱らせてしまう。大人の羽毛に生え変わるまでは、体が出来上がっていない。
若鳥に自分の好きなように無邪気に遊ばせすぎると体力を消耗して病気にかかりやすくなり、最悪は命を落とすこともあるのだ。母の判断は正しかった。
それからさらに一ヶ月ほどで、産毛はすっかりと生え変わった。くちばしは完全なピンク色となり、頬は真っ白、全体的には青みを帯びたグレーの立派な桜文鳥となった。人間であれば成人したというところだろうが、鳥なので成鳥したというべきであろう。
頭が真っ黒で一見すると野生の並文鳥に見えるその小鳥は、胸には自身の出自を示す桜模様がいくつかあり、自分が桜文鳥であることを主張していた。晴子は、白いほっぺがかわいいと言い、正二は口笛を吹くと飛んでくるその小鳥を弟分ができたように思い、勇二郎は小鳥の頭が江里奈のおかっぱ頭に似ていることを面白がった。
家族のアイドルとなったその桜文鳥は、勇二郎の発案で『勇太』と名付けられた。自分の字を入れたかったようである。数ヶ月もすると、オスの証である歌やダンスも見られたので、勇二郎のネーミングはそう間違っていたわけでもなさそうだ。
毎日、いろいろな可愛い発見があり、子供たちを面白がらせた。中でも桜文鳥『勇太』の水浴びの光景を三人兄弟はいつも興味津々で見守っていた。母が水仕事をしていると、母のところに飛んでいき、彼女が蛇口から出る水を手のひらで受け止めて水たまりを作る。すると、小鳥はその手の中の水たまりに飛び込むのだ。風呂にでも入っているようにしばしの間、水につかっていたり、ばたばたと羽をばたつかせて、実に気持ちよさそうに見えた。そのシーンは、幼少時のビニールプール遊びを彼らに思い出させた。
桜文鳥『勇太』が水浴びをするのは、決まって母の手の中だった。子供たちも水遊びをさせたがったが、彼らが水を出して手の中に水をためても、小鳥は飛んできて、彼らの腕の上にはとまるものの、そこから先に進むことはなかった。
小鳥がすっかり家族の一員となってまもない頃、事件は起こった。晴子は両親に買ってもらった『リカちゃんハウス』で遊ぶことが好きだった。住宅を模したミニチュアのおもちゃで、女子の間で流行っていたのだろう。スーツケースのような留め金がある箱で、中を開けるとキッチン、リビング、寝室などの部屋があり、テレビ、たんす、ベッドといった一通りの家財道具が装着されている。その中で、パパやママや女の子を模した小さな人形たちを自分の手で動かして家庭生活ごっこをさせて遊ぶのである。
両親不在のある日、晴子は、何を思ったか、小鳥をリカちゃんハウスの中に閉じ込めて留め金をかけてしまった。すると、弟の正二は、これまた何を思ったか、それを地面に置き、「兄ちゃん、パスだ」と言って、蹴って勇二郎によこしてきた。リカちゃんハウスはきれいに床の上をすべって、勇二郎の前を通過しそうになったところ、勇二郎は思わず「シュート!」と叫び、それを晴子の方に蹴り返した。いや、実際には蹴ったというより、彼はリカちゃんハウスの角に足の小指をしこたま打ちつけ、もんどり打って引っくり返っただけだったが、それを晴子が拾ったところで子供たちは、いつの間にか母が帰宅していたことに気が付いた。
リカちゃんハウスの中からは、小鳥の悲鳴とバタバタと暴れ回る羽音が聞こえている。
母の驚きと怒りは凄まじかった。
「あんたたち、一体、何さらしとんねん!!!」
子供たちにものすごい剣幕で怒鳴って、急いで勇太を救出した。彼は、羽を折ってしまったようで右の翼がだらんと垂れており、半目になったり目を閉じたりしていた。口を開けてヒーヒーといい、座り込んでいる。母は、譲り主のところに電話をかけ、小鳥の状態を説明する。とりあえず籠の中にしまって、しばらく安静にさせて様子を見るしかない、人間の手で水を飲ませようなどとしないこと、など言われた。
羽以外は---つまり臓器や足などの命に直結しそうな重要な箇所には---大きなケガがなかったようで、十五分ほど経った頃だろうか、勇太は立ち上がって、止まり木に止まったり、自力で水を飲み、餌を食べるようになった。
羽のケガについては、いずれ生え変わるので、大丈夫であろう。状況によっては人の手で折れた羽を切ってあげてもよい。再度、譲り主に電話をかけた母は、そのようなアドバイスを得た。
さて、桜文鳥の命に別状はなさそうだということが分かると、母は静かな口調で、
「そこへ座りなさい」
と、自身の目の前の床を指さした。
もう母は怒ってはいなかったが、全身から、尋常ではないオーラを発していた。彼女は、子供たち三人が正座したことを確認すると、一人ずつ順番に、ほっぺたを力いっぱい引っぱたいていった。兄弟は、これほど強く、母から殴られたことはなかった。
母は、目にかすかに涙を浮かべながら、
「痛いやろ?勇太はあんたたちよりも、ずっとずっと、痛かったんやで?怖かったんやで?」
と言い、泣いている子供たちを尻目に再び小鳥のところへ様子を見に行った。
勇二郎は、この事件を通じて、勇太をますます可愛がるようになった。勇太も勇二郎によく懐いた。彼に呼ばれると、喜んでピンポン玉のように弾んで、近寄ってくる。ちょんちょんとステップを踏むような歩き方だ。勇太は彼の手の上にとまり、気持ちよさそうに歌をうたう。勇二郎がどこか別の部屋に行ったりすると、飛んで追いかけてきて、彼の肩に止まる。
その後しばらくすると、今度は父がセキセイインコやボタンインコの雛を数羽買ってきて、インコの子育てが始まった。母だけでなく、家族全員で交代制で子育てをすることになり、彼らは小鳥の飼育というものを少し学んだ。インコたちも家族の一員となり、特に晴子と正二はこの新しい家族たちに、つきっきりだった。
桜文鳥『勇太』は母と勇二郎に、インコたちは父、晴子、正二に、それぞれ懐いていったため、世話の分担は自ずと決まった。驚くことに父も懐かれると満更でもなかったようで、インコを可愛がるようになり、人間のことばを教えたりしていた。そのうちの数羽など、桃太郎などの長い昔話を話すようになったほどだった。
桜文鳥『勇太』は、七歳まで生きた。その頃には既に佐藤家一家は、内地に再転居して、沖縄を離れていたのであるが、年齢的にそろそろ健康に気をつかってやらなければならなかったにも関わらず、当時は老鳥に対する温度管理のノウハウが知られていなかった。
勇二郎が高校二年生を迎えようとしている季節のよく晴れた冬の朝、止まり木から落ちて、床の上で横たわって眠るように亡くなっていた。小鳥が横たわることはないし、伸びた状態の足の様子から、見た瞬間に、既にその魂は彼の中にはないことが分かった。沖縄と本土の気候の違いが、勇太の寿命を縮めたことは疑いがなかったが、適切な対処のすべが勇二郎には分からなった。
その夜、父と山に行き、亡骸を埋葬した。父が息子と男同士の話をしたいとき、腹を割って話し合いをしたいとき、連れて行く山だった。
真冬の山中の空気は澄みわたっており、頭上には満天の星空が広がっていたが、父と高校生になった息子は「勇太はお星さまになった」というような感傷的な会話をすることはなく、二人ともほとんど喋らずに黙々と穴を掘り、小鳥を埋めた。以降、この小さな命は、生涯、勇二郎の心に住み続けた。
桜文鳥『勇太』との出会いは、その数十年後、どん底に落ちた勇二郎を救ってくれることになる。
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