第四話 女の子は異性であると知る

 昭和五三年七月三十日、沖縄県では自動車は左側通行へと変更された。それまで米国統治下にあったため右側通行であったものを、日本と同一国となったためにジュネーブ道路交通条約を遵守する必要性が生じ、本土式に統合することが国によって決定されたのだ。同条約では、一国一交通が定められている。周辺の各諸島も含めた沖縄県全域で信号、標識、道路の上に描かれた標示を変更し、右ハンドル車の通行に合わせてガードレールや交差点の改良、バスの右ハンドル化・・・といった膨大な作業を必要とした一大プロジェクトであった。


 米国統治下時代は、自家用車も左ハンドルの沖縄仕様車が多く利用されていたが、これ以降、右ハンドル車が主流になっていく。バスについては、その乗り降りの仕組み上、左ハンドル車では日本式の道路で運用することすることすらできないので、全ての既存バス車体の利用を廃止し、新規に右ハンドル車が一斉に導入された。


 この日は、『七三〇の記念日』と呼称され、日本式左側通行を楽しもうと、多くの人たちがドライブに出かけた。勇二郎には、当日、雨が降っていたような記憶がある。彼の一家も父に連れられ、ドライブにでかけたが車が多く、大渋滞を覚悟しないと遠出はできなさそうに思えた。父は、自宅から数キロメートル程度の範囲をくるくると回り、帰りに皆でM&Mのハンバーガーを食べて帰宅した。


 この年から数年の間、各地の空き地では左ハンドルの様々な車が小型車種から大型車種まで積み上げられている光景が、よく見られるようになっていった。それは、子供たちから見て半分つぶされた車でできた大きな『山』のように見えた。その山があちらこちらに次々にできていくのである。ある意味、壮観な光景であった。


 昭和五七年、勇二郎達の家の近所にも新しい『鉄の山』ができた。子供たちの好奇心は止められない。勇二郎の喘息の発作が出ていないある日のこと、当然の如く、いつものメンバー三名はその山のふもとに集合した。勇二郎、十歳の初夏の出来事である。彼らの住まいの周辺には、高さ五メートル以上の『ガジュマルの木』がいくつもあり、子供たちの遊び場になっていた。運動の苦手な勇二郎でさえ、木登りなどたやすいものであった。さてさて、この一風変わった、鉄でできた大きな木でどうやって遊ぼうか、という程度の感覚なのである。


「何して遊ぼうか」

「秘密基地作る?」

「山のぼりする?」

「宝物探ししない?」


 自分たちが今、立っているすぐ足元にも、ガラスの破片が落ちていたり、自動車用の小さな工業製品が転がっている状態であるのにも関わらず、子供たちはそれには全く意に介さず、遊び方の相談を始めた。


 いつものように智恵がリーダーシップを取った。

「山のぼりしようぜ!誰が早く頂上にたどり着くか、競争だ」

 他の二人は返事もせず、駆け出したが、簡単には登れないことに気づく。尖った突起物、フロントガラスがないためにできた大きな空洞、そういった危険なものが山の表面の至るところにあるのだ。これにはさすがのヤンチャ坊主たち---女子もいるが、この三人組は、もうまとめてヤンチャ坊主と呼んでいいだろう---も躊躇した。


 頂上をいきなり目指すのは諦め、皆で協力して、まずは探索をすることにした。

「いいか、ここは危険地帯だ。我々調査隊は慎重に物事を進めねばならん」

 智恵がどこかの子供向けアニメかなんかから取ってきたようなセリフを言った。

 すっかり、冒険家か防衛軍とか何だかの隊長気取りである。


 智恵を先頭に、勇二郎、江里奈の順番で縦の隊列を組み、四つん這いになって車体やタイヤや部品でできた、彼らが言うところの『山』を登り始めた。三メートルほどよじ登ったところであったろうか、智恵なら体力的に飛び越えられそうだが、他の二人には難しい隙間にぶち当たった。

「竜の潜むクレバスだ。迂回するぞ」

 智恵は、変にそういった言葉をたくさん知っている。川口浩か、君は。もう少し年長の者がその場にいたら、そんな突っ込みを入れていたかも知れない。しかし、彼らはいたって本気である。

 右に進路変更して智恵が進み始めようとしたそのときである。


「勇二郎、血!」

 江里奈が叫んだ。


 勇二郎は、家の中を歩くときでさえ、知らないうちに体のあちこちをぶつけていつの間にかアザができていたりするような子供であった。何かの突起物にでもこすってしまったのだろう、彼の脛にはいくつかの血の筋ができていた。おそらく膝から出血し、その血が脛に伝わったのだろう。彼は、言われたことよりも、江里奈の声の大きさにびっくりし、慌てて自分の足を見た。そして、痛さからではなく---あまり痛みは感じていないようだ---、血が結構たくさん出ているという事実に驚き、座り込んで泣き出してしまった。


 智恵と江里奈が這いずって、勇二郎のすぐ近くまで寄ったときだった。智恵がバランスを崩し、二人を巻き込んで、地面まで転がり落ちてしまった。何が起こったか分からずに三人が顔を見合わせたその瞬間、江里奈の額から血が吹き出した。額に傷が入ると比較的軽めのケガでも割れてしまって、多くの血が出ることがある。あっという間に、江里奈のおでこや頬が真っ赤に染まった。


 今度は反対に、智恵と江里奈が泣きだした。ちょっとしたパニック状態である。


 江里奈を見て、勇二郎が冷静さを取り戻す。迷うことなく、お気に入りのデビルマンのTシャツを脱いで、彼女の額と顔の血を拭いた。そして、江里奈の傷を覆って、はちまきのように彼女の頭に巻き付けた。彼にしては珍しく、場を仕切った。


「オレ、江里奈おんぶするから早く乗って!江里奈んち行こう」

「あんたじゃ、アカン!無理!!」


 ようやく落ち着いた智恵がすかさず言葉を返し、彼女が江里奈を背負って、彼女の家まで送り届けることになった。智恵が江里奈を背負った後、勇二郎も力を貸そうと、彼女たちの背後に回り、江里奈のお尻を両手でぎゅっと、わしづかみにした。下から支えようと思ったのである。


「キャっ!!」

 江里奈がびっくりして叫ぶ。いくら男勝りでもやっぱり彼女は女の子である。


 男子よりも女子の方が精神的にも肉体的にも早熟なものではあるが、ましてやこの勇二郎である。女の子のお尻を両手で握ることが、どういうことなのか全然分かっていない。なんで『キャっ!!』なのかは分からないが、彼は謝って少し江里奈達から離れた。


「ごめん!どないしよ」

 勇二郎は、家族の話す言葉が関西弁がベースなので、時折、それが出る。出るというより、標準語とうちなーぐち(沖縄弁)と関西弁が、ぐちゃぐちゃに、混ざってしまう。数年間、家族ぐるみで付き合っているうちに、智恵たちにも、よく言葉が移るようになっていた。

「あんたは何にもせんでええ!黙ってついて来い!!」

 また何故だか分からないが、智恵が怒っている。


「それより、勇二郎、足は!?」

 ようやく智恵が江里奈をおんぶして歩き出そうとしたのに、江里奈は、智恵の背中から飛び降りて、勇二郎に駆け寄った。


 早く江里奈を両親のところに連れていかなければならないのに、彼らは一体、何をやっているのだろうか。てんやわんやの連続で、事態はちっとも進行しない。


 勇二郎の膝は、傷口が少し開いて、まだ血がにじんでいたが、脛に流れていた血液は既に固まっている。現代の親ならいざ知らず、当時の親たちなら、人によっては「唾つけとけば治るさ~」と呑気な対応をしそうな程度のケガであった。


 しかし、江里奈は、勇二郎の傷を見て、うろたえた。

「勇二郎、勇ちゃん、大丈夫?」と、また泣き出してしまう。彼女は泣きながら、何を思ったのか、Tシャツを脱ごうとし、途中ではっとしてその動作を止め、顔を赤らめた。まだ下着など着ていない年齢である。


「どうしよう」「勇二郎、あっち向いて!」「体育座りして!」

 江里奈は続けざまにそう言い放った。


 その剣幕に押され、「はい!」と何も考えずに即答し、勇二郎は彼女に背を向けて膝を抱えて体育座りをした。


 彼女はそれを確認すると、「いい?絶対見ないでよ。見たら死なす!!」と言った。

『死なす』とは沖縄で聞く言葉だが、文字通りの意味はなく、『とっちめてやる』程度の表現になる。


 そして、彼女は、自分のTシャツを脱ぎ、素早い動きで勇二郎を後ろから抱きしめるような姿勢で、彼の背後から手を伸ばし、彼の膝をTシャツで巻いて縛ろうとする。包帯のつもりだろう。


 さしもの勇二郎もこれにはドキっとした。いち早く初潮を迎えた智恵ほどではなかったが、江里奈も発育の良い方であり、彼女の胸もわずかに膨らみを帯びつつあった。お互い上半身裸なので、その胸が直に背中に接し、柔らかさが伝わってくるのである。江里奈を、というか、異性というものを勇二郎が初めて意識した瞬間であったのかも知れない。彼はひどい喘息持ちのため、その発作が出ていないときでも、多少の息苦しさがあって呼吸が早いのだが、江里奈が体を密着させて、膝の傷の応急処置をしてくれている間、さらに呼吸が早くなっていくのを感じた。


 事態に気づいた智恵が「私がやる!」と代わろうとするも、江里奈が「大丈夫!」と智恵を制し、作業を続けた。綺麗にTシャツ包帯を巻き終えた江里奈は、「勇ちゃん、勇ちゃん!」と言い、そのまま背後から勇二郎に抱きついて、また泣き出してしまった。


「江里奈、好きだ!」勇二郎が叫ぶ。傍から見ると訳が分からない展開の中、勇二郎もまた大声で泣き出してしまった。


 勇二郎は、これまで智恵と江里奈に守られてきたが、これからはオレが守るんだ、などと思いながら、泣いていた。彼の言う「好き」は告白の意味ではなかろう。まだまだ彼らの精神年齢は、男女のそれを交わせる年には至っておらず――なんせ、ヤンチャ坊主の3人組――、ましてや勇二郎のことである。ただ江里奈に感謝し、大事な友達をとても大切にしようと思った瞬間に、とっさに出た言葉に過ぎない。


 上半身裸の江里奈と、彼女から背中から抱きつかれている上半身裸の勇二郎、さらにその二人に智恵が覆いかぶさって抱きついてきて、「わたしもー!」と言って、しばらく三人で泣いていた。


 みんな、かなり興奮していたので、十分間くらいはそうしていたかも知れない。


 ようやく落ち着いた三人は、江里奈の家で消毒をしてもらい、江里奈は病院に連れていかれた。今の令和時代の医術であれば、それほど縫わなかったかも知れない傷口であったかもしれないが、彼女は額に三針も縫うことになり、傷が残ってしまった。額の上の方、髪の生え際に近い箇所で、見えにくいところだったのは幸いであった。前髪を掻きあげなければ分からない。


 この事件を通じて元々仲良しだった三人の絆は一層深まった。彼らはこのとき、幼少時代、ヤンチャ坊主時代を卒業し、少年と少女達になった。この日を境に、勇二郎は男の子らしく、智恵と江里奈は女の子らしくなっていくのである。

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