第三話 苦難の小学校生活
昭和五四年四月。勇二郎は二年間通った幼稚園を卒業し、小学校に入学した。幼馴染の智恵と江里奈とは同じクラスになったり、ならなかったりであったものの、隣近所に住む三人の日常は、幼稚園時代と変わらず、同じような楽しい日々が続いていた。
勇二郎は、忘れ物、うっかりや衝動行動が格段に多い子供であった。玄関で、右足にサンダル、左足に靴を履き、家を出て数歩歩いてから、履き間違えたことに気付くようなことすらある。筆箱、教科書の忘れ、学校でもらった保護者あてのプリントや宿題を忘れたり失くしたり、そういう類のことの常習犯でもあった。道路の反対側に友人を見つけるやいなや、嬉しくて道路に飛び出し、車に引かれそうになる。ただ、母や智恵と江里奈が実によく面倒を見てくれていて、彼自身には困っている様子はなかった。
かんしゃく持ちの一面もあった。家族でデパートに行き、好きなもの、たとえばミニカーのおもちゃを見つけると、右手で一台、左手で一台のミニカーを握りしめ、両親が買ってくれるまで座り込んで、泣き叫ぶようなところがあった。
両親は甘やかさないように、「今日はダメ」、「今日は一台だけなら買ってあげるから」と叱ったり、諭そうとしたりするのだが全く効果はなく、結局、欲しいものを全部買ってもらえるまで泣き続けるか、両親に引きずられて店の外に連れ出されるかのどちらかに終わるのであった。
妹の晴子、弟の正二はその点、非常に聞き分けがよく、性格もおとなしい方で手がかからなかったため、両親は勇二郎のしつけやフォローに追われる毎日であった。
勇二郎の行動は、進級し、年齢を重ねても変わらなかった。こんな状態では、高学年、四年生くらいになると、さすがに友達や教師側との問題も大きくなってくる。また、彼の持病である小児喘息はこの頃、悪化しており、息が切れてしまい、階段を上って二階に上がることすらできない、できたとしても、『ぜーぜー』と言いながら座り込んでしまうしまつであった。学校を休むことが多かった。
家計の経済事情や今後の計画などもあったのであろう、高学年になったところで母が勤めを始めたため、鍵っ子になった。もっとも、鍵を持っていても学校に行けないことの方が多いため、一日の多くの時間を、誰もいない自宅で、仰向けになって天井を眺めて過ごした。発作が軽くなる時間帯もたまに訪れる。そんな時は、図書館で借りてきていた本を読んだりした。しかし、本当に発作の酷いときは、寝ると余計に息苦しいので、壁にもたれ掛かって座ったまま、何もせず、ひたすら時が経つのを待った。たまに登校できても、保健室で一日を過ごすことようなこともしばしばで、体育の授業に出ることなど、ほとんどできなかった。
体調の良い日は、彼も教室に入って席にはつく。しかし、そんな日は、今度は彼の持って生まれた特性がいかんなく発揮される。文字通り、いったん席につくだけなのである。人の話を聞くことができない子供であった。集中力が数分程度しか持たないのだ。急に席を離れて教室内を歩き回って友人に話しかけたり、それが咎められると、前の席の子の背をつついたり、消しゴムのクズを投げたりして、もはや何のために学校に行っているのか分からない状態であった。
困り果て、もう手に負えないと判断したのか、担任は母を学校に呼び出し、定期的に教室の外から勇二郎を見張るように依頼したようだ。頻繁に授業参観が行われているようなものである。気が付くと、母が窓の外から自分を見ている。勤めを始めていた母は内勤ではなく、外勤の保険外交員をしていたので、外出する機会は作りやすかったであろうが、それでも仕事上の調整に苦労があったに違いない。それでも母は優しかった。ダメなことはダメというが、勇二郎の個性を尊重してくれた。
男友達との間でもトラブルメーカーであった。自分から遊びに誘って仕切ろうとするのだが、飽きっぽい性格であるため、皆ですごろくやトランプなどのゲームをしていても、途中で勝手に自分で考えた新しい遊びを提案したり、ゲームそのもののルールを変えようとするのだ。彼なりに、「このルールがこういう風に変わったら、もっと面白いのに」、などと思うようであった。初めは、遊んでくれていた級友たちも、次第に彼を疎ましがるようになり、仲の良い友達は減っていく一方であった。彼の個性を面白がってくれる友人、趣味が合う友人だけになってしまった。
この時代、「リングにかけろ」というボクシング漫画が少年たちに人気であり、よく教室内で「リンかけごっこ」という遊びが行われた。遊びと書いたが、実態はルールのある---ボクシング同様、攻撃に拳以外は使用してはならない---ケンカである。
友人同士でケンカになりそうになると、「ぬう、やんばー!?(何なんだよお前、やるのか;沖縄の方言)」と大声でケンカを売り、相手が了承するやいなや、周りのクラスメートは「うおー」と歓声を上げながら、急いで机と椅子を隅によける。教室の中央を空白にして、皆で当人同士を囲むように座り、誰かが「カーン!」と声でゴングを鳴らす。そうして、ボクシング選手となった二人の子供たちは教室の真ん中で、「ギャラクティカマグナム!」などと、漫画中の必殺技の名前を叫び、殴り合うのであった。
勇二郎もこの遊び(ケンカ)に参加したことがある。友人の信一郎とは、お互いに家に遊びに行くほど仲が良かったが、ちょっとしたいさかいで、彼と、この「リンかけごっこ」をすることになってしまう。信一郎は、米軍兵が沖縄女性との間に置き残していったハーフ。力も強く体も大きく、到底、勝ち目などない。ゴングが鳴ったあとは一方的に殴られ続け、負けるのは必至であったが、子供たちの声を聞きつけた教師が飛んできて、試合中止となった。
皆で机を元に戻す作業をしている途中、突然、それまで観客の一人であった別のクラスメートが、勇二郎のこめかみに一発お見舞いしてきた。勇二郎が運んだ机を置こうと腰をかがめたところに、いきなりの横からの不意打ちであった。彼は勇二郎にパンチを入れた後、こう言った。
「よーびー(弱虫)!ナイチャー(内地の人、つまり日本本土の人を指す方言)」
信一郎に何発も殴られたことよりも、その言葉が心に刺さり、非常に痛く、勇二郎は涙がこぼれるのを必死でこらえた。
勉強はできなかったが、彼は読書が好きだった。特に気に入っていたのは、江戸川乱歩作の子供向け推理小説とシートン動物記で、しょっちゅう図書館から借りてきては読んでいた。この二つのシリーズは、相当なボリュームであるが、おそらく全巻読破した。このお陰か、殆ど勉強せずとも国語の成績だけは非常に良かった。
また、父母が学研の「学習」と「科学」の購読契約をしていた。「学研のおばさん」のCMでお馴染みであった子供向け学習雑誌である。当時にしては珍しいマンガや絵をふんだんに使って、各教科の学習ができる雑誌で、理科の実験が自分でできる工夫された付録もついていた。アリの巣を作って観察できたり、カブトエビを育てたり、顕微鏡を自分で作成できたりした。学校に行けず、たまに授業に出ても先生の話を聞かない息子を案じてのことだったのかも知れない。彼は、その雑誌をよく読んでいた。後の人生で、なんとか大学までは出ることができたのは、この月刊誌の影響が少なからずあったのかも知れない。
集団行事に参加するのは困難であった。集団ダンスなどとんでもない話で、運動会の入場行進や一列に並んで「前ならえ」すらまともにできない。「前ならえ」など、後日父母から聞いた話によると一人だけ列からはみ出ており、横を向いて、両肘をまっすぐ伸ばしていない。教師が「前に~」と声をかけると何故か顔を横に向け、「ならえ!」で両肘が45度程度曲がった中途半端な状態で腕をつきだしていた。本人は、必死で周囲の真似をしているつもりなのである。
音楽も彼には困難であった。楽譜が読めない。どんなに教えてもらっても、解読するのに非常に時間がかかるのだ。四分音符、八分音符どころか、ドレミファソラシドが分からない。妹の晴子など音楽の才能に恵まれており、ピアノ教室にも通わせてもらっていたが、テレビ番組の主題歌などを数度聞いただけで弾ける程の腕前であった。夏祭りなどで行われる、のど自慢大会では、いつも大人にまじって、賞をとっていた。幼稚園の頃から、彼女は誰に習った訳でもなく、小林幸子などの演歌をこぶしを効かせて熱唱できたのだ。
後の話になるのだが、勇二郎のこの問題は大人になっても、ついに克服することはできなかった。就職してから仕事が落ち着いた頃、趣味になればと思い、ギターを習ってみたりもしたが、全くダメ。楽譜がオタマジャクシか何かにしか見えない。中学の頃など、音楽の先生から「君は音楽を舐めているのか!」と叱責されたこともある。音楽の筆記テストはほとんど0点に近く、リコーダーもまともに吹けず、合奏では担当楽器を演奏しているフリだけをして、その場、その場をしのいでいた。いつバレるか心臓をバクバクさせながら---当然、教師は分かっていたであろうが---授業に出ていた。子供心ながら、罪悪感と惨めな思いでいっぱいであった。
発達障害児に見られる一つの傾向として、ある特定の科目はできるが、他の科目はまったくできないということがあるのだ。加えて、勇二郎の場合、学習障害(LD)も合わせ持っていたと思われる。
体育も当然の如く不得意。体育の授業に出ていないので仕方のない部分もあるのだが、多少でもできるのは、父が庭で教えてくれた剣道とキャッチボールくらいのものであった。五十メートル走をしても当然のようにビリ。走るのが遅いというよりも、そもそも、普通に走るための体の動かし方がよく分からないのだ。これは、ADHDよりもASD(アスペルガー症候群)に見られる傾向であるのだが、ADHD患者には、ASDの傾向を合わせ持つ子もおり、さらに、前述のLD(学習障害)などの他の障害も併発していることがある。
妹も弟も勉強、運動とも並み以上にできた。勇二郎は、運動ができるクラスメートに対しては、負けん気や嫉妬心を持てるレベルにさえ到達しておらず、どうしようもない強い憧れを持っていた。
ただ、母の対応が面白かった。
「ジョートーだよ(沖縄で使われる誉め言葉)。駆けっこで人より遅くてもいいじゃん!後ろを振り向いたら、誰もいないんだから勇二郎がトップだよ!」
というのである。
勇二郎は、
「オカン、しょうもないこと言わんといて」
と言い返して、黙り込んでしまったが、母親のその言葉と満面の笑みに、なんだか救われたような気がした。
勇二郎の兄弟は、父の勧めで小学校三年生の頃から、警察署の道場に通い始める。その子供向け教室では、柔道も選ぶことができた。勇二郎は、友人の信一郎が柔道をやっていたので、柔道を希望したが、一人だけ違うものを習うと父母の送り迎えが煩雑になる。
母は、「柔道をやると耳の形が変わるし、剣道って、めっちゃかっこええんやで!」と勇二郎を説得し、兄、妹、弟の三兄弟は、一緒に通うことになったのである。稽古に通って二年ほど経った頃だろうか、試合稽古でなんと一つ下の妹、晴子と当たってしまう。
勇二郎と晴子は、二、三回斬り結び、鍔迫り合いの後の引き技もお互いに決まらなかったものの、その次の瞬間、真正面から、見事なまでの堂々とした飛び込み面を決められ、勇二郎は完敗した。彼は、妹の技に対して動くこともできず、ほぼ棒立ちの状態で打たれた。幼いながら、プライドはズタズタである。三つ下の正二さえ気をつかってなのか、心底から長兄を情けないと思ったのか、その話題には触れなかった。これには、さすがの母もフォローができなかった。「小さい頃は、女の子の方が体の発育が早いからねえ・・・」と勇二郎に言ってきたが、彼には母の言葉の意味が分からなかった。
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