第二話 闇に閉ざされた穴ぐらの中で・・・

 彼は、目の下に微かに溜まっている液体と、半乾きの頬の感触で目を覚ました。

 それが何か、手で触って確かめてみる。

「俺・・・泣いてたのか?寝てたのか・・・。」


 勇二郎は、しばらく放心した後、布団から這いずり出て自室のドアを開け、そのままの姿勢で廊下を這いずり、台所まで四つ足で進んだ。手を伸ばしてキッチン・シンクの枠につかまり、なんとか立ち上がる。水を出して顔を洗う。冷蔵庫の中から缶ビールを二缶、九パーセントの缶ハイボールを三缶、取り出し、足元は定かではないものの、今度は歩いて自室まで戻る。


 懐かしい夢を見たようだ。「なぜ、泣いていたんだろう」、彼は自問してみたが数秒も立たないうちに、「どうでもいいや」と、引きっぱなしの布団の上に座り、缶ビールをあおる。


 平成三十年一月――。彼はいまや妻の入室さえ拒み、自室は、万年床と空き缶の転がる、やさぐれた一人暮らしの独身男性の部屋のようになり果てていた。近くのコンビニに行くことさえままならず、自室内に引きこもってしまっている。もう何ヶ月の間、彼は、このような暮らしを続けているだろうか。


「夢って起きた直後は結構、鮮明に内容を覚えているのに、ちょっとでも時間がたつと思い出せなくなるんだよな。よくあることさ」

 勇二郎は、そのような意味の言葉を、傍からは聞き取れないような小さな声で一人つぶやき、二缶目の缶ビールの封を切って、また飲み始めた。最後のハイボールに口をつけ、その三分の一ほど飲んだところだっただろうか。尿意に我慢できなくなり、トイレへと向かおうとする。しかし、トイレのドアに手が届く前に、足がふらつき、廊下の真ん中で座りこんでしまった。


 ドスーン!!!


「あれ?」

 座り込んだだけのはずなのに、想定外の大音量が響き渡った。

 どうやら、かなり派手にぶっ倒れてしまったようである。


「勇ちゃん!!!」

 数秒の間ほど、そのままの姿で呆けていると、妻が、夫婦の寝室から廊下に飛び出してきて、彼の前にぺたんと座りこんだ。彼女は、パジャマを着ている。


「そうか、夜だったのか」

 最近の彼には、日付、時間の感覚がまるでない。それを知ろうとする興味も沸かない。「そんなこと、どうでもいいさ」と相手に聞こえるか聞こえないか分からない、もつれた口調で、勇二郎は言った。


 彼は目の前に座り込んでいる妻を一瞥することさえせず、トイレに入りドアをしめた。すると、彼を猛烈な吐き気が襲った。飲んだ液体と胃液ばかりで、吐く内容物など、ほとんどないが、小一時間ほど、嗚咽を続けた。妻がドアを開け入ってきて、背中をさすってくれていることに気づいたのは、吐き始めてかなりの時間が経ってからだった。気を失った訳ではないはずなのだが、そのあとのことは全く意識がない。尿意をどのように処理したのかも分からない。何があったのか思い出せなかった、いや、思い出そうともしなかった。


 そうかと思えば、別の日には、やはり深夜に夢遊病のように---医師から処方された睡眠薬の副作用で時々、そうなる---、まるで意識なく自分でラーメンを作って食べて、廊下で嘔吐し、そのまま寝ていたりする。トイレで大便をしている途中、吐き気をもよおし、上と下から、つまり、口と肛門から、同時に、吐しゃ物と排泄物を吐き出したこともある。


 彼は、自分のことを、まるで、家の中を這いずり回る巨大な芋虫のようだと思い、嫌悪した。

「誰か俺を殺してくれ!!」

 誰に向かって叫んでいる訳でもない。

 自宅に妻がいるか不在なのかも全く気に留めていないのだから。


 勇二郎は、転職を繰り返した末、心を病み、重いうつ病を発症してしまっていたのである。


 ***************


 何もかもがうまくいかなかった。新卒入社し長く務めた企業を辞めたあと、彼は、たった一年間程度の間で、三社を渡り歩く。


 そしてついに、四社目となった。勇二郎の汚れた履歴書では、どこを受けても不採用続きだったが、昔の会社で先輩であった人が誘ってくれた会社で、ようやく職を得たのである。平成二八年五月より勤務を開始した。


 新しい会社で働くための勉強に没頭、業務知識を身に着け、会社組織も理解し、各部署との関係作りにも余念がなかった。

『もう後がない、これが人生最後の会社だ』、そう思って懸命に働いた。その結果、一年間かけて、大きなプロジェクトの内定までこぎつけた。


 周囲から業績面や努力に対する評判も上がっていき、仕事をするために必要な他部署との信頼関係も築けはじめていた。


 だが一方で、勇二郎の情緒は日増しに不安定になっていった。納得がいかないことがあると、新人でありながら上司に正面から食ってかかるようなことも増えた。見積や受注処理を行う事務処理のシステムがなかなか覚えられず、ミスも連発し、彼への高かった評価も、次第に賛否両論へと化した。


 この最後の会社で、およそ一年半が経った頃-----、そのときは訪れた。平成二九年十一月のある日のこと、朝、出社のために起きようとしても体が動かせず、起き上がることができない。妻に支えてもらい、かろうじて立ち上がり、リビングまで行くものの、そこで吐き気を起こした。妻が走り持ってきた洗面器に胃の内容物というより殆ど胃液をぶちまける。しばらくしたら落ち着き、出社する。そんな日々が三週間ほど続いた。そして、彼は、ついに布団の中からすら出れずになり、出社不可能になってしまった。


 ***************


 -----その四ヶ月前、平成二九年七月。


 短期間で何社も転職していることに対し、その原因は何だろう、そして何故こんなに物覚えがわるく、簡単なミスを連発するのだろう。イライラするのだろう。

 勇二郎は、そんなことをしばしば考えていた。仕事の傍ら、いくつかの精神疾患系の本を読んでもみた。


 その中で、もっとも引っかかったのが「ADHD」というキーワードであった。そこで、この分野に絞り、何冊もの本も読んでみた。いくつもの自分の特徴がこの障害に当てはまるような気がした。


 悩んだ末、妻とも相談し、この障害を専門としているという精神科医を訪れる。

 妻は、当初、彼の考えを否定した。「それが勇ちゃんの性格なのよ。そして、そんな勇ちゃんをわたしは好きになったのよ・・・」

 しかし、専用のテスト、問診ののち、勇二郎の予想した通り、彼はADHD障害を持ち、さらにそれだけではなく、鬱病を発症していると診断されたのである。医師は言う。


「まずは、鬱病を改善するためのお薬を処方します。ADHDに関しては・・・。

 発達障害とそうでない人には明確な線引きがある訳ではないんです。どの発達障害の特徴も、全ての人が持っています。ただ、その程度が強いか、弱いか、というだけなんです。そして、それが実生活にどの程度の影響を及ぼしているかが、診断基準になります。あなたの場合、確かにその傾向はかなり強めに出ていると思います。しかしあまりご心配は必要ないように思います。ご自分なりに社会に対応するための工夫もされてきたようですし、長い間、一つの会社で勤めることもできた時期もあったようなので・・・。いろいろな対策本が出ていますから、当面はそれをいろいろと研究されてみてはいかがでしょう?薬もありますが、副作用もありますし、効く人、効かない人もいたりして、積極的にお薦めできるものでもありません。あと・・・職場で他人に対してイライラするのは、努力家のADHDの人にたまに見られる傾向です。自分は劣っていると思っているから、人一倍頑張る。そんな人が他の人を見ると、なぜこんなこともできないんだ、なぜもっと努力をしないんだと、他人を責める気持ちが出てしまうんです。今日、ご自身が発達障害者だということをお知りになりましたから、このことを知っているだけで、イライラすることはだいぶ軽減されると思いますよ」


 医師の説明は十分に納得のいくものであったが、問題の解決にはならない。そう思った勇二郎は、自分の職歴を説明する。もう今の会社を辞めたら後がない。会社の中で普通の人と同じように過ごせるように、ADHDに効く薬も処方してもらえないだろうか。藁にもすがる思いで医師に頼む。一時的でもいいから、なんとか、できるだけ早く、この症状を押さえたい。会社での立ち位置が軌道に乗ったら、薬をやめたらよいではないか。


 医師は、彼の懇願に対し、コンサータという薬を処方した。本に書いてあった聞き覚えのある名前だ。効き目が抜群で即効性もある薬である。初めて飲んだ数時間後に、自分でもそれと分かる変化が現れた。ただし、彼の場合は副作用が強かった。喉が異常に乾くのだ。いくら水を飲んでも癒されず、喋ることが困難になる。仕事の打ち合わせ中に気を引き締めていても、話すことにとても苦労する。吐き気にも襲われる。歩いているときに、自分が自分でないような、ふわふわとした不思議な感覚に襲われる。自分で足に動けという指令をして歩いている感覚がないのだ。そして、夜、全くといっていいほど、眠れなくなった。


 二週間ほど飲み続けてみたが、この状態ではもっと業務に支障が出るし、何より自分に出ている副作用の症状を恐ろしいと思った。そこで、再度、医師に相談したところ、今度はストラテラという薬が処方された。この薬は、コンサータのように即効性はなかったが、一ヶ月も飲み続けると、効き目が表れてきた。


 医師の少しずつ増量するプランに従って継続したところ、なんだか頭の中がすっきりしてきたのだ。『雑念が消えた』というのが、勇二郎としては表現が近いと思った。クリアーに物事や状況が見えるようになり、落ち着いて仕事ができるようになった。彼は、驚いた。定型者には、世界がこんな風に見えていたのか−−−。席を離れて歩き回りたい衝動も収まったし、そわそわ、イライラすることもなくなった。


 『行ける!』、勇二郎は思った。


 *****************************


 しかし-----。

勇二郎の心は、既に限界を超えていた。


 抗鬱剤とストラテラを併用しながら、業務に励もうとするのだが、その思いもむなしく、入社して一年と半年の後、勇二郎は、とうとう出社すらできなくなった。人事との相談の結果、休職を勧められ、三ヶ月間の休みを取ることになったのだ。

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