プロローグ
「あなたは、中度のADHDと診断して間違いないと思います」
「じゅ、重度のADHDですか?」
「いえ、中度です。」
勇二郎(ゆうじろう)の右横に、前かがみの姿勢でちょこんと椅子に浅く腰掛けていた妻が、青い顔をしながら、か細い声で聞き返すと、その少し神経質そうだが誠意の感じられる精神科医は、静かに、しかし、はっきりとした丁寧な口調でそのように応じた。
四十代半ばにして、僅か一年の間で転職三回、環境変化が怒涛の如く続いたことによるストレスからくる過食、酒のせいだろうか、中肉中背とは言い難くなってしまった体型をした中年男性のその患者は、医師の簡単な短い台詞を一言一句すら逃さないような心持ちで聞き取り、ただ、ふーっと息を腹から吐き出した。
そうだったのか。やはりそうだったのか。彼は心の中で何度も呟いた。現代社会で問題になってきている障害、一生治らないその発達障害の名前を聞いて、何故か彼は心の底から安堵し、その安心感をはっきりと自覚した。
一見しただけではどこにでもいそうな中年サラリーマン、佐藤勇二郎。中堅どころの日系商社で営業職として二十年近くの間、勤めてきた。親会社は世界的にも著名な企業だが、そこは世間でよくある構図、彼の勤めてきた子会社の待遇は特に目立って良いものでもなく、平均的なそれと変わらないものであった。
そこに不満があった訳ではない。
若い頃のように仕事に面白みを感じなくなってきて、平凡で新鮮な出来事の起きない毎日を変えたかった。外の世界を見てみたかった。
社内でたびたび起こるパワハラ行為を見るのも、もう嫌になっていた。彼には権力がなくとも、時々、変に正義感が前面に出てしまう一面があった。ある日、見かねた彼は、同僚を助けようと、直接抗議に及んでしまう。その結果、勇二郎の思いとは反対に職場内の雰囲気はますます悪化した。
ここにこれ以上染まりたくない、新しい環境で新しい人間関係を作り、自分を変えたい、と願って転職活動を開始した。
しかし、現実はそう甘くはない。転職エージェントを通じて、あるフランス系の企業でようやく内定が出たにも関わらず、入社わずか三ヶ月目にして、上司より退職を薦められる。白髪が感じよく混ざり、昔風に言うならロマンスグレーといったところか、細見でスタイルもよく爽やかな初老の上司は、無表情で淡々と告げた。
「君は自社で必要としている営業スキル、事務処理能力ともに期待していたレベルではなかった。早めに新しい道を探した方が良いのではないだろうか。」
従業員の定着率が低い会社であり、退職勧奨は日常茶飯事に行われていたようである。自らの意志で辞めていく者も多く、五年勤めた社員は同僚からは「長老」という仇名がつくほどの社内状況だった。
***************
思い返せば、入社して数日後の新入社員向け研修でこんなことがあった。研修担当の講師は、三十数名の新人に向かって───新人と言っても全員三十~四十代の中途採用だが──、一週間の研修期間の最後に、皆さんに言っておきたいことがある、という趣旨の前置きをして、こう告げた。
「ここは大変な会社ですが、三年は辛抱してください」
さらに言葉を続ける。
「各部署の部長さんたちにも、少なくとも入社後三年間は、退職勧告しないで欲しいと依頼をし続けているんです。それくらいは働かないと、会社のことは何も分からない。仕事を進めるのに必要な人間関係も作れない。いくら有能な人でも何もできないはずです。自社の現状は、単に好き嫌いで退職勧奨を行っているに過ぎない、と」
講師は、怪訝な面持ちになった新人たちを前にして、無理に明るさを装った声で話を締めくくった。
「この会社で三年間我慢できたら転職市場での商品価値が上がります。ここで三年以上、務まった人なら是非欲しいという企業が多くあるので、年収アップにも繋がるから今後の皆さんの人生にとって無意味なことではないはずです。こういう会社であっても、こういう会社なりに学べるものはあります。」
入社したての希望を持った社員達にするには不思議なアドバイスではあったが、厳しい出来事が待ち受けていることは分かった。転職エージェントが紹介企業の定着率について自ら説明をすることは少ない。入社してすぐの離職は彼らにとって不利益になるのだが、二年目以降の離職などというのはむしろ好都合なのだ。転職経験のない勇二郎にそんなことは知る由もなかった。
結局、入社五ヶ月後、定められた六か月間の試用期間の期限すら終えず、彼は人生二度目のその企業を後にしたのであった。
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