第9話 結局、男とはこういう生き物である
夜九時。朝倉遥にはこれからどうしても外せない用事があった。その内容は仕事に関係するもので、今日中に終わらせないと信用を損なってしまうものだ。それ故に嫌でも外に出なければならなかった。そう、例え夜に外出する事が危険だと分かっていてもだ。
マンションの敷地を出ると、早速ヤツが近くの電柱の陰で隠れている事に気付く。
ヤツにはおよそ二週間前からストーキングされている。一応、一定の距離を保って歩くだけで近付く事は今まで一度も無かった。きっと今日もそうなのだろう。だがいつかは思い切った行動に出るはずだ。それがいつになるかは分からないが、それを防ぐ為には今日も全力で逃げ切る他無い。
全力疾走するタイミングを見計らう。
街灯の下で開始したら確実にヤツも同じタイミングで走り出す。そうなるとヤツから逃げ切る事は不可能なので、やるとしたら街灯と街灯の間の暗がりが良い。
頻りに背後を振り返って相手との距離を何度も確認する。
いつも通りヤツは十メートル程離れた場所を歩いている。が、ヤツが街灯の下に来た時、いつもと違う事に気付く。ヤツが右手に刃物を持っていたのだ。
それを見た瞬間、とてつもない恐怖に襲われ、身震いが始まる。
走り出す。だが震えのせいでまともに走れない。カクカクと不自然な動きで足を交互に前に出すのでやっとだ。これでは全力疾走もクソもない。逃げ切れないどころか最悪捕まって死ぬ。
ここで誰かが助けに来てくれれば非常に助かる。が、生憎遥は即座に駆け付けて来てくれるような優しい友人を持っていない。いるとすればあの顧客だけ。あの、どうしようもなくお人好しでシスコンな男だけである。
電話で呼び出せば絶対に彼は駆け付けてくれる。死にたくないのなら今すぐ彼に電話を掛けるべきだ。
左肩に掛けたバッグに右手を入れてスマホを探す。だがすぐにそれを止めた。理由は彼が殺されてしまう可能性があるからだ。それだけはあってはならない。二人の妹を一人で養っている彼を死なせるわけにはいかない。
それなら大声を出して人を呼んだ方が良いのでは?
そう思いはするが、それだと用事に間に合わなくなるのでどうしてもやる気が起きない。そんな自分が情けなくて仕方がない。
背後の足音が次第に早まり、近付いて来ているのが分かる。距離としては大体五メートルぐらいだろうか。
確実に距離を詰めて来るそれに激しい危機感を覚える。
ヤツの姿を捉えた時から流れ始めていた嫌な汗が滝のように全身から溢れ出す。極度の緊張で喉は渇き、全身は震え、ピリピリと手足が痺れる。
震えに耐えきれなくなった足が完全に動きを止めた。どうやら生きる事を体が諦めたらしい。もう振り返って抵抗する気力すら湧かない。
怖いものを見るのは嫌なので目を閉じる。そして終わりが始まるのをひたすら待つ。
不意に過去の出来事がフラッシュバックされた。良い出来事ではなく、悪い出来事の一コマ一コマが瞬きするより早く入れ替わりで映し出される。そのお陰か死ぬ事が怖くなくなった。
足音がすぐ背後で止んだ。狂気に満ちた禍々しい気配を感じる。
荒い息遣い。それを聞きながら未だ走馬灯を見ていると、途中から良い出来事だけが脳内に映し出され始めた。そして――
「……嫌……死にたく……ない……」
無意識にそう呟いていた。
それに気付いた瞬間、遥は大きく息を吸う。そして大声で助けを呼ぼうとした次の瞬間――
「うおおりゃぁっ!!」
聞き覚えのある男性の声が物凄い勢いで迫って来たかと思ったら、すぐに何かが衝突したような鈍い音が聞こえ、違う男性の「うぎゃっ!?」という悲鳴が上がった。
直後、右後ろから何者かに右手を掴まれる。首を右に捻ってその方向を見ると、そこには瓜生昴がいた。
「何突っ立っているんだ!?さっさと逃げるぞ!!」
そう言うと昴は、物凄い力で遥を右に引っ張りながら走り始める。それに引かれるまま遥も走り出す。
疾走する五十メートル先には大通りがある。そこに出れば危険は無くなるはずだ。
半分まで走ったところで背後を確認すると、不審者は起き上がろうとしている最中だった。
これなら逃げ切れる、と判断した数秒後、やっと大通りへ出る。だがそこで走るのを止める事はない。更に三十秒程走り、人混みに紛れる事が出来たところでやっと足を止める。
※※※※※※
人混みで足を止め、膝に両手を突いて切れた息を整えるべく何度も大きく呼吸する。そして二十秒程で喋れるまで回復したので、直立に体勢を変え、朝倉の方へ前身を向ける。
「怪我は無いか?」
身を案じて訊ねるも、朝倉はそれに答えず、左の腕時計を見ながらブツブツと何かを呟き続ける。
今は話し掛けない方が良さそうだな。
そう判断し、俺は口をつぐむ。
それからすぐ、朝倉はバッ!と顔を上げて道路へ走り、たまたま通り掛かったタクシーを右手を上げて止めた。そして慌てるようにその後部座席に乗ると、こちらを見て言う。
「乗って!」
俺は訳が分からないが、今日こそは悩みを聞くつもりでいるので、それに従う事にした。
※※※※※※
タクシーで走ること十五分。俺達はとあるビルの前で降りた。俺は早速朝倉から話を聞き出そうとしたが、料金を払った瞬間、朝倉がビルに入って行ったので入口前で暫し待ちぼうけ状態になる。で、やっと彼女が出てきたのは一時間半後。それだけ待たされればどうしてもクタクタに疲れるわけで、俺は朝倉に『どこか行きたいところはある?』と訊かれて『休める場所』と答えた。すると朝倉は、何を思ったか唐突に俺の右手を引いて近くにあったラブホテルに入った。疲労困憊で思考がまともに働いていなかった俺は、それに引かれるまま朝倉と一緒に一室に入る。そしてベッドで仰向けになるや即座に気絶するように眠りに就いた。
「うん、そこまでは記憶がある。辛うじてだが記憶がある。けど――」
そこから先、詳しく言うと寝てから起きるまでの記憶がない。夢の世界にいたのだからそれは仕方のない事なのかもしれないが、どうしてもそれを把握する必要がある。その理由は……
「――いつ全裸になったかの記憶がない……」
とまあ、そういう事である。目覚めたら全裸になっていた。
一度、脳内をリセットする為、激しく頭を振る。すると直ぐ様目眩が始まり思考が鈍り始めた。
顔を正面に戻して目を閉じる。数秒後、目眩が治まりリセットが完了した。
「さて……取り敢えずだ」
時間を確かめる為、辺りを見回し、時計を探す。
枕元の棚にそれはあった。時刻は午前一時を少し過ぎた辺りだ。
「何だ、あまり寝てないじゃないか」
俺の記憶が正しければ、ここに入ったのは夜の十一時ぐらいだった。それから即ベッドに仰向けになり眠りに就いたから、俺が寝ていた時間はおよそ二時間である。
それだけしか寝ていないというのに今は脳が冴えている。これは不測の事態に陥っているからだろう。
「そう言えば……」
朝倉はどこへ行った?
俺を放置して帰ったという可能性も大いにある。だが彼女は怖い目に遭ったばかりだし、まだあの不審者がマンションの入口付近で待ち構えているかもしれないんだ。それを考えると、絶対に家に帰りたいとは思わないはずだ。なら一体どこへ?
目を閉じ、耳に意識を集中させてシャワーの音が聞こえるか確認――が、それらしき音は一切聞こえない。
……まあ、そのうち帰ってくるか。
そう判断し、再びベッドで仰向けになる。そして何となくで右に寝返りを打つと――
「……居た」
ジィーッとこちらを見詰める朝倉を発見した。
「おはよう、瓜生君。何て言うか……気持ち良かったよ」
「…………へ?」
「でももうちょっと優しくして欲しかったかな。パル、初めてだったんだからね?」
「…………待て、事後みたいな言い方は止めろ。心臓に悪い」
「……酷い!あんなに愛してるって……パルを求めてくれたのに!あれは嘘だったって言うの!?パルとは遊びだったの!?」
あっ、これマジだ。俺、朝倉とやったんだ。
涙目で問い詰める朝倉を見て、本当に事後なのだと悟る。
でも……でも……
「…………うがあああああああ!!記憶にねえええええ!!俺は!俺は何て勿体無い事を!!クソッ!だったら……」
素早い動きで土下座。そして頭を下げて懇願開始。
「お願いしゃす!!もう何発かさせてください!!」
「…………」
「大丈夫!ちゃんと責任は取るから!だから……だからもう何発か……お願いしゃす!!」
「…………」
「子供の名前は君が決めて良いから!!」
「…………」
「あ、朝倉さん……?」
あまりにも無言な朝倉に疑問を持ち、顔を上げる。
で、朝倉の今にも吹き出しそうな表情を見て、俺は彼女に遊ばれたのだと知る。
「……プッ!アハハハハハハハハッ!!必死!必死過ぎる!ぷぎゃー!!マジ惨め!!ウハッ!!ギャハハハハハハハハッ!!」
腹を抱え、足をばたつかせながら愉快そうにゲラゲラと爆笑する朝倉。それが二十秒ぐらい続いたところで彼女はヒィヒィ言いながら目に浮かんだ涙を右手で拭い、笑うのを止める。
「ごめんちゃい!嘘を吐きました許してね!」
両手を合わせ、左瞼を閉じ、八重歯を見せながら軽い口調で謝罪。そんな朝倉が憎らしくて仕方ないが、可愛いので許しても良いような気がする。でもそう簡単に許すと男の股間、もとい、沽券に関わるのでここは交換条件を叩き付ける事にする。
「じゃあキスさせてくれたら許す」
「うん、良いよ!」
あっさり了承されちゃったよ……
「ほ、本当に……?」
「うん!」
「な、何で……?もしかして俺の事が好きだったり……するのか?」
「いんや、助けてくれたから」
「…………」
……ただお礼がしたいだけなんかい!期待して損したじゃないか!!いや、でも待て。お礼の為にキスを了承するって事は……
「……じゃあお礼に何発か、させて、欲しいかなー、なんて……」
「それは無理。好きになられると困るし」
「…………そ、そっか」
「うん、そっ」
と、ここで俺は疑問に思った。
何でそんなに他人に好かれるのを避けたがるんだ?
誰にでも好かれる人間になりたい。俺の勝手な考えでしかないが、そう思うのが人間という生き物である。それなのにどうして朝倉はそれを避けたがる?その理由がどうしても気になる。なので俺は――
「……やっぱキスはいい」
「え……」
「その代わり教えてくれ。どうして他人に好かれるのを避けようとするんだ?」
――キスの代わりに理由を教えてもらう事にした。
「…………」
考え込むように視線を下に向けて固まる朝倉。俺は彼女がこちらの目を見るのをジッと待つ。
「…………ねえ、瓜生君」
「何だ?」
「…………聞いたら後悔するかもしれないよ……?それでも良いの……?」
「あぁ、良い。だから教えてくれ」
「さっきの事も関係しているからきっと物凄く面倒な事になると思うよ……?」
さっきの事。それは不審者と遭遇した事を指しているのだろう。こちらからすればそれは好都合だ。今気になっている二つの事が一気に解消されるのかもしれないのだから、一石二鳥とも言える。なので俺は当然の如くこう答える。
「構わない」
それを聞いて朝倉は顔を上げた。その表情は強ばっていて緊張の色が見える。でも決心したかのように眼差しは真剣だ。
「……分かった。じゃあ教える」
そして朝倉は話し始める。
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