冷気
石海
冷気
恐らくこれは夢だろう、自分はきっと夢の中にいるのだ。考えずともわかる。道路や街路樹、立ち並ぶビル群、本来青いはずの空までもが絵具を塗りたくった様に白かった。
しばらく待ってみたが何も起こらないので、少し辺りを調べてみることにした。人のいない、生物の気配を微塵も感じられないこの街に好奇心が抑えきれなかったのだ。
とりあえず近くのビルに入ることにした。中に入ってもやはり広いロビーに人の姿はなく、代わりに風化して腕の折れた石膏像が一体、ロビーの中央に無造作に置かれていた。人のいない街や、方向が分からなくなるような白さも十分不気味だったが、このビルは特にひどい。見る人のいない石膏像の気持ち悪いほどリアルな表情に肌寒さと言い知れぬ恐怖を覚える。嫌な寒気から逃れようとドアに手をかけたが、そのガラスの扉は石のように、あるいは凍り付いたように、ぴくりとも動かなかった。
別の出口を探したが少なくともこの階に外へ繋がる扉や鍵の類は一つもなかった。諦めて他の階へと向かうべく、エレベーターのボタンを押す。一分待ってようやく開いた扉の中には散乱した大量の紅いビー玉と、膝を抱えて座り込んだ一人の少女がいた。
見ず知らずの少女に挨拶をする理由もないので、黙って何も言わずに乗り込もうとした瞬間、少女が声を発した。
「乗らない方がいいよ」
見た目の割に随分と落ち着いた声でそう言った。こころなしかその声は元気がなく、震えていた。
「なんでそんなことを言うんだ、何かあったのか?」
「…言いたくない」
理由もなくそんなことを言ったとは思えないが、この位の歳の子供の考えはよくわからない。少女を避けるようにしてエレベーターに乗り込み、ボタンの方に手を伸ばすとまた少女が止めようとしてくる。
「だめ、早く降りて」
「理由を言ってくれたら考えよう」
「……」
再度ボタンに手を伸ばすが少女はもう何も言ってこない、説得を諦めたようだ。適当に二階のボタンを押し、扉が開くのを待つ。一分程待ったが一向に停止する気配がない。むしろ徐々に加速しているようにも思える。
「おじさん、寒くない?」
唐突に何を言い出すのかと思ったが確かに少し肌寒い。
「確かに寒いが…なんでわかったんだ?」
「…痛いから」
答えになっていない。相手に説明する気がさらさらないような返答だ。それとも説明するのが苦手なのか? やはり子供の相手は苦手だ。
ゴトンッ
エレベーターが揺れ、停止する。少し待ったが、ギシギシと軋むような音を立てるだけで扉は開かない。僅かに隙間が空いているので無理矢理開けようとするとやはり少女に止められた。
「触らない方がいいよ」
その言葉を無視してあけようとした。が、
「痛っ!」
指先に刺すような痛みが走り咄嗟に扉から離れる。扉が異様に冷たい。そして扉に触れた指先もまた凍り付いたように冷たくなっている。別の階に行こうとボタンを押すが、どれも反応しない。
もう一度しっかりと少女の話を聞こうと振り返った時、背後で何かが砕けるような音と共に扉が開き、身を切るような冷気が狭いエレベーターの中に流れ込んで来た。無意識のうちに少女の冷たい手を掴み、エレベーターから飛び出す。目の前に見える日の光が差している場所へ向かう。思った通りここは少しだけ暖かい。
「大丈夫か?」
手を引いてきた少女に問いかけるが返事がない。不思議に思って振り返ると、そこに少女はおらず僕の左手は少女の千切れた右腕だけを持っていた。
「ッ!」
驚いて手を放してしまい、持っていた少女の腕は硬い音を立てて床に落ちた。ひどい吐き気や頭痛、そしてそれらを上回る恐怖や嫌悪感、罪の意識で先程とは違う寒気に体が支配され、動けなくなる。様々な悍ましい考えが頭を埋め尽くし、体だけでなく心までもが冷たくなっていく。
不意に一階のロビーにあった石膏像が頭をよぎる。はっとして辺りを見回すと予想通り、何百体もの氷像がこの広いフロアを埋め尽くすように乱立していた。
ふと気配を感じ後ろを振り向く。何故気付かなかったのだろうか。目と鼻の先、手を伸ばせば届くような距離にそれはいた。
白いゾウアザラシとでも言えばいいのだろうか、ツルツルとした五メートル程の巨体はどこか蛆虫にも似ている。しかし立ち上がり、こちらを見下ろしてくる顔はそのどちらとも違う。円盤のような顔の端から端にかけて舌のない青白い色の口が開いていて、顔の中央に寄り合った二つの眼窩から常に目玉のような血の色の球体が湯気を立てながらしたたり落ち、床の上をビー玉のように転がっていく。
気が付けば走り出していた。氷像に躓き、ぶつかりながら無我夢中で駆け抜ける。後ろから聞こえる氷を叩き壊す音から必死に逃げながら出口を探す。しばらくしてようやく見つけた、きた時とは別のエレベーターに飛び込む。
三階のボタンを押し、扉を閉めるボタンを連打する。あの巨大な蛆虫がこちらに向かって突き進んでくる。
それがエレベーターにたどり着く寸前に、堅く重い金属の扉がしまり、エレベーターはゆっくりと上に向かって動き出した。
冷気 石海 @NARU0040
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます