「君が唯くんですか。なるほど、美少年だ」

 お手伝いの人に通されて部屋に入ると、コートを脱ぐようすすめるより先に、僕を上から下まで眺めながらその人は言った。

 画家のアトリエというところに入ったのは初めてだった。僕が想像していたような、つまり学校の美術室のような雰囲気ではなく、まるで姉の部屋に置いてあるような、天板に花が描かれたすみれ色の丸テーブルや、レースの壁掛け、楕円形の大きな鏡、刺繍のクッションなど、少女趣味なものばかりがある部屋だ。外へと続くドアには水色のペンキで塗られた格子に曇りガラスが嵌められ、白いコットンのカーテンが掛けてある。

 そんな場所へと通された僕を、互いに自己紹介をするより先にじろじろ見るなんて随分無礼な人だと思ったが、みぞれの中を駅から歩いてきた身にとって、スチームのきいた柔らかな暖かさに満ちたこの部屋自体は、とても優しく居心地がよかった。

「コートを脱いでもいいでしょうか。そして、僕にどんなご用があるのですか」

「まあ、そう焦らずに。ショコラでも作りましょう。コートを脱いで好きな椅子に掛けてください」

 濃紺のフラノのコートは、年末に姉が見立ててくれたものだ。襟には同じ濃紺のサテンのリボンで縁取りがしてあって、僕はとても気に入っている。それを脱いでこの人に差し出された木製のハンガーに掛けてから、僕はいちばん近くにあった背もたれの高いマホガニーの椅子を選んだ。

 初めて近くで見る画家・乙橘恭一は、とても綺麗な人だった。ほっそりとした身体に女の人のようないい匂いがして、白い手は透けてしまいそうなほどだ。こんなに長身で美しいなら洋装の方が似合うと思うのに、いつも着物を着ているらしい。

「これはね、イタリーの田舎で買ってきたんです。こうして沸かしたミルクとショコラの粉末を入れて、この棒をゆっくり静かに上下させる。するとポットの中で粉末はミルクに溶けて混ざり合い、程よく泡立つ。口当たりの柔らかい、美味しい飲み物ができるんです」

 青い花が描かれた白い陶製のポットから出来たばかりの熱いショコラを注いでくれる。無駄のない美しい所作だ。ポットとお揃いのカップは取っ手の形が白鳥の首のようにしなやかな曲線を描いている。

「どうですか、君には甘さが足りないかな」

 一口飲んだ僕に、乙橘恭一は微笑みながら尋ねた。寒い戸外から暖かいアトリエに入り、甘く熱いショコラをもらって僕は内心嬉しかったが、どうもこの人は捉えどころがないようで苦手だ。

「僕は子どもではありませんから、甘さはこれで充分です」

 むっとしながら答えた僕に、乙橘恭一はくっくと笑って優しそうな目を向けた。

 僕は次第に居心地の悪さを感じてきた。何故、どんな用で呼ばれたのかもわからないまま、こんなところでおやつをもらうなど、子ども扱いされるのは我慢ならない。失礼します、と言いかけて立ち上がったときに彼は口を開いた。

「僕は女性を愛せない人間です。言っている意味が解りますね。君はいくつになりましたか。ああ、十四歳。それならばもう解るでしょう。そう、僕は女性を愛せない」

 僕は、この人が一体何を言いたいのかわからなかった。この人がたった今言っていた言葉の意味はわかる。だがあなたは、波留子さんと結婚していたではありませんか。

「君の考えていることはわかります。波留子さんのことですね。あれはね、ほんのおふざけだったんです。一生に一度くらい結婚してみるのもどうかと、結婚生活というのがどんなものか、他人だった者と家族になるというのがどんなことか、色々興味があったんですよ。それに、彼女は醜いでしょう。君もそう思っているでしょう。外見だけでなく心もかなり醜い女性です。僕の絵のモデルをしてくれるのは、みな美しい女性ばかりですからね、好奇心があったんですよ。ああいった醜女はどんな姿で眠るのか、どんな表情でものを食べるのか、男に抱かれるときにどんな顔をするのか。まあ、幸いと言うかなんと言うか、これを見る機会はありませんでしたけれど。ああ、いや失礼。君のような美少年にこんな尾篭な話をするべきではありませんね、良識ある大人としては。公隆さんも同じですよ。誤解しないでください。同じというのは彼女を愛してはいないという点です。違うのは公隆さんは僕のようにふざけた訳ではなく、お父上のために結婚したという点です。ただ、それを口に出したことはないでしょう。お父上と伯爵家の名誉にも関わることですから。僕は、先ほど言ったように彼女を抱いたことはありません。おそらく、公隆さんもそうでしょう。彼女の相手をするのは金で買われた卑しい男妾だけですよ。君は、公隆さんと僕のことを何か誤解したでしょう。いや、半分は正しい。僕は、彼のことが好きです。とてもね。でも彼は僕を好きではありません。恋愛という意味では。良き友人にはなれました。あの絵のお陰でね。……さて、前置きが長くて美少年が飽きてしまうといけないので、そろそろ本題に入ります。ずばり、君は彼のことが好きですね。いや、怒らないでください。君をからかう気はありません。君にここへ来てもらったのは、ライバルに会っておきたいと思ったからです。君も薄々感づいていたのではありませんか、だから僕が送った曖昧な手紙を読んで、こんな天気の日にわざわざ出掛けてきてくれた。どうです、公隆さんが君のことをどう思っているか知りたくはありませんか」

 この人の言葉が、この人の柔らかい声のまま僕の頭の中でくるくると回っている。

 公隆さんが僕をどう思っているか?

 それを知りたいと思ったことがないわけではない。でも、僕にとってそれは地球が破滅する日を知るのと同じくらい恐ろしい。

 それに、知ったからどうだと言うのだ。あの軽井沢での一件で、僕はもう公隆さんに会う資格などとうに失くしているのだ。あんなに酷い言葉で傷つけてしまった人に、どんな顔をして会えばいいのだ。

 椅子から立ち上がったまま呆然と話を聞いていた僕の前に向き合って立ち、ふいに乙橘恭一は僕の頬を掌で包んだ。

 そして、そのままゆっくりと両腕で僕の身体を抱きしめる。

 冗談じゃない。自ら男色と名乗る人から、こんなところで辱めを受けるようなことはごめんだ。僕は乙橘恭一の腕の中で、魚のように身をよじって逃れようと試みた。

「じっとして。目を閉じなさい」

 耳元で囁かれたその声は、なんだかとても懐かしい気がして、僕の身体から力が抜けていった。

 言われた通りに目を閉じ、この人の肩に顔をうずめる。乙橘恭一の刈安の着物の色が残像となってまぶたの裏に拡がる。甘い香りが鼻腔に満ちてきて、僕は両腕を彼の背中に回す。

 互いの腕の中の二つの身体は、やがて融解しひとつになってゆくようだった。この世に僕一人しか存在していないような、腕の中の細くしなやかな生き物が僕の身体の一部として取り込まれてくるような。あるいはその逆か。

 突然、ホテルの庭で公隆さんに抱きとめられた感触が、僕の腕と背中に蘇ってきた。

 今こうしてこの人と抱き合っている感覚とは真逆で、僕は僕。そして公隆さんは公隆さん。そうだ、僕は公隆さんと一つになりたいのではない。同じになりたいのではない。

 僕は、僕はやっぱりあの人が好きだ。

 ゆっくり目を開けると、乙橘恭一は先に目を開け、僕の顔を眺めていた。彼の茶色がかった瞳は、鏡のように僕を映している。

「そうです。やっとわかりましたね。自分の心を偽ってはいけない。それは罪です」

 僕の前髪を、繊く長い指で梳きながら彼が囁く。それは魔法の言葉のように僕の心の中に沁みこんできた。

 もう一度、公隆さんと向き合えるだろうか。僕に、そんな勇気があるのだろうか。

ストーブの上のポットから細い湯気が絶えずのぼっている。それは、その向こうの壁に掛けてある彼が描いた小さな絵を、真夏の庭にたつ陽炎のようにゆらゆらと揺らしていた。

「きれいな人ですね」

 それはこの人が今まで個展などで披露してきた原色の絵とは異なり、あの軽井沢のホテルで見た公隆さんの絵と雰囲気が似ていた。淡く優しい色合いに、儚げな美しい人。

「ありがとう。僕の唯一にして最愛の女性、母です」

 それは何気ない一言のようだったが、僕にとっては衝撃的だった。この人自身は気付いているのだろうか。僕は、この人の悲しみにほんの少し触れることができたような気がした。お母上と公隆さんを同じように捉えていたなんて、あなたはその性的嗜好ゆえに、孤独な迷子のような人だったのですね。

「乙橘先生」

「恭一でけっこうです」

「恭一さん、僕もあなたの友人の一人に加えていただけますか」

「もちろん。君のような美少年なら大歓迎です。なんならヌードを描いてさしあげましょうか」

 ふふ、と二人で顔を見合わせて笑った。十五歳以上の年齢差があるのに、まるで古くからの親友のようだった。

「帰ります。今日のことは忘れません」

 恭一さんの作ってくれたショコラはまだ温かかった。その残りを飲み干し、コートに腕を通す。

 窓の外はみぞれが雪に変わり、赤い椿と万両の実の上にうっすらと白い影を載せている。

「ごちそうさまでした。ありがとう、恭一さん」

「どういたしまして。不快な思いをさせて悪かったね。なに、嫉妬したんですよ。君のその、若さと命に」

 そう言って微笑んだ恭一さんは、本当に綺麗だった。駅への道を急ぎながら、僕は恭一さんの幸せを心から願った。

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