大広間での豪華な晩餐会のあと、新作を含めた五十点余りの絵画が展示された乙橘先生の展覧会場へと移動いたしました。

 悪趣味な装飾が多く見られるこのホテルの中にあって、この度の展覧会場だけは乙橘先生の演出により、まるでヨーロッパの礼拝堂のような荘厳で透明感のある雰囲気に包まれておりました。

 お気に入りの絵をお買いになりたいと申し出られる方や、酔った赤い顔で作品を眺めてはしきりに首を傾げる方など、会場は賑わいを見せ、どなたも楽しげにしておられましたが、その中で唯だけは終始蒼白い顔をしておりました。お料理にもほとんど手をつけず、どこか悪いのではないかと訊ねても首を横に振るばかりで、もしや公隆さんと何かあったのでは、と私は心配になりました。

 乙橘先生は、緋の布で覆われた最新作の前にいらっしゃいます。他にも今夜はじめてご披露される作品は何点かおありのようでしたが、その一点だけは未だどなたの目にもふれていないとのことでした。

「ではこれより、今夜のために描きました新作をご覧にいれます」

 先生の落ち着いた声が会場に響きます。皆さんが一斉にその大作の前にお集まりになりました。私も、ぼんやりした様子のままの唯を促してそちらに近付きました。

いよいよ先生ご自身の手で、緋色の大きな布が勢い良く取り払われると、一瞬ののち、会場中からどよめきが起こりました。

 その作品からは、今までの乙橘先生の作風とはまったく異なる印象を受けました。

それまでの先生の作品は、鮮やかな原色が折り重なるように塗られた、華やかで強烈な色合いの絵ばかりでしたが、「今夜のために」と自らおっしゃられたその作品には、原色は一切使われておらず、淡い色の羽根とさまざまな形の花びらが降り積もる中、右上にはうす水色の空がのぞき、そこから白く輝く光があわあわと射し込んでいます。その優しく儚い色に照らされ、涼しげな櫻色の綿に埋もれるようにして絡み合う二つの人影。

 蛇のような、あるいは二匹の美しい獣のようなその顔は、乙橘先生ご本人と、公隆さんでした。私には、はっきりとそう見えました。それはとても官能的で淫らであり、ピエタのように美しく神聖な輝きを放っているようでもありました。

 男でも女でもなく、あるいはそのどちらでもあるような滑らかな身体の線、薄紅がかった皮膚の質感は、カラヴァッジオの描く残酷な天使のようでもあります。

 時間も、名前も、立場も、年齢も性別も何もかもを超越した至高の空間にたゆたう神のようでもありました。

 作品に見惚れておりました私がふと見ると、唯の顔色は先程よりもさらに蒼ざめ、その場に立っているのがやっとという様子でした。

「唯、気分が悪いのならお部屋に戻りましょう」

 そう声を掛けると唯はその場にうずくまり、つらそうに背中を丸めたかと思うと、突然嘔吐してしまいました。唇は紫色になり、小さな顔を苦しげに歪めて浅い呼吸を繰り返しています。握った手は氷のように冷たく、指先は小刻みに震えています。

 父と母はテラスにでも出ているのか、会場には見当たりません。グラスを片手に持つ酔った方々の話し声、笑い声がこだまのように響いています。そんな中で大声を出すわけにも参りません。どなたかが気づいてくださらないだろうか、救護の方がいらしてくださらないかしら、と祈るような思いで唯の細い身体をしっかりと抱きしめ、私は己の無力さが情けなくて泣き出しそうでした。

 すると突然、力強い腕が唯を抱き上げ、床にへたり込んだ私を引き起こしてくださいました。

 公隆さんでした。こんなに厳しい表情をされた公隆さんは初めてです。唯の身体を守るように抱き、誰にも気づかれないよう静かに客室へと運んでくださいました。

 お部屋に着くと唯をベッドに寝かせ、私に熱いタオルを持ってくるよう命じると、公隆さんは黙ったまま唯の汚れた服を脱がせてくださいました。汚物が手についてしまうのも厭わずに、公隆さんは唯を介抱してくださいます。公隆さんの手で露になった唯の裸の胸は仔鹿のように頼りなく、ガラス細工のように痛々しい作り物のようでした。その胸を熱いタオルで丁寧に拭ってくださる公隆さん。

 私は、思い切って何かあったのでは、と公隆さんに尋ねました。

 公隆さんは唯の額に冷たいタオルをのせながらおっしゃいました。

「唯くんを失望させてしまったようです。わたしは何も気づかないようにしていたかったのですが、もう以前のようにはいかないでしょう。お宅へ伺うことも、もうありません」

 優しい瞳で唯の顔を見下ろす公隆さんの美しい横顔は、この部屋の空気に溶けてしまいそうなほど、脆く傷ついたご様子でした。私はその時、はっと気付いたのです。

公隆さんも、唯のことをお好きなのではないか。この二人は、お互いが相手のことを思いやる余り、苦しんでいるのではないか。

 唯が気を失うほどの衝撃を受けたのは、おそらく乙橘先生の新作に描かれた公隆さんと先生のお姿だろうと思います。あれは、あの絵は一体なにを意味しているのでしょうか。

 私は、唯のために失礼を承知で公隆さんにお尋ねしました。

「あれは、わたしにもわかりません。乙橘先生とはサロンで何度かお会いしただけで、個人的にお話ししたこともありませんから、彼の嗜好も知らないのです。ただ一度だけ、わたしの結婚披露宴のときに、あなたの絵を描いてもよろしいか、と訊かれたことはあります。彼は女性ばかりを描く画家ですから、その時は曖昧に返事をしておきましたが……。もうずいぶん前のことです」

 ご自分の記憶をたぐり寄せるようにゆっくりと、公隆さんはお答えくださいました。

 唯は、あの絵を見て何を思ったのでしょう。

 乙橘先生が公隆さんに想いを寄せられていらっしゃるか、あるいはお二人ともが同じお気持ちでいらっしゃるのか。どちらにせよ、この愛らしい顔をした私の弟が心に深い傷を負ったことには変わりありません。

 公隆さんには何の責任もないこと、いいえ、それ以前に公隆さんには何の関わりもないことだと解ってはおりましたが、唯の寝顔を眺めながら、私は乙橘先生の作品の中で蠱惑的なお姿をさらしたその人の背中を、苦い思いで見つめておりました。

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