三
姉の背中を見送りながら、僕は今まで感じたことのない恥ずかしさに包まれていた。
この半年間、公隆さんは波留子さんの事業を手伝うことが忙しく、僕のために割く時間は全く無かった。そうだ。公隆さんに逢うのは半年ぶりだ。僕の家の中ではなく、明るい太陽の下で久しぶりに見た公隆さんは、少し痩せて、顔色も優れないように見えた。そしてその分、それまでよりも綺麗だった。
あれほど会いたいと毎日願っていたのに、いざ会ってみると何も言葉が浮かばない。公隆さんに僕が言うべきことなど何も思いつかない。そして、ここにはピアノも本も、なにもない。公隆さんと今まで過ごしてきた時間の中で僕たちと共に在ったものが、なにもないのだ。
何か言わなければ。公隆さんが行ってしまう。少しでも長く、近くで過ごしたい。
「唯くん、久しぶりだね。しばらく見ないうちに大人っぽくなった。学校はどうだい。テニスは続けている」
公隆さんは、以前と何も変わっていないような態度で接してくれようとしていた。何も変わってなんていないのかも知れない。公隆さんは結婚しただけで、それは特別なことじゃない。だれでもする当たり前のことだ。特別なのは僕だけなのかもしれない。僕だけが、ひとり公隆さんから遠いところにいるのだ。息苦しい。ここから逃げたい。あんなに焦がれていたのに、僕は、自分の気持ちをどうすることもできない。
「どうかしたのかい、顔色が悪いみたいだ」
公隆さん、やめてください。僕はおかしいのです。優しい言葉など掛けないでください。どうすればいいのかわかりません。僕は、僕は、ここで今すぐにでもあなたにすがってしまいたい。でもそれはご迷惑を掛けることだとわかっていますから、あなたの前で唇を噛み、弱々しく俯いていることしかできない自分が情けないのです。もとより、同性であるあなたにこんなにも魅かれている自分が理解できません。憧れだと、何度も思おうとしました。でも無駄でした。僕は今はっきりと自覚しました。
僕は、あなたが好きです。
『あなたが好きです』。本人を目の前にして、声に出すこともできずに強くそう思うことが、こんなにも苦しいことだと僕は初めて知った。
いや、誰かをこんなに好きになったことなど初めてなのだから当然かもしれない。だが、相手が僕の告白を受け入れることのできる立場の方だったなら、つまり女性だったなら、僕はきっと、こんなに苦しまずにいられただろう。
眩暈がして倒れそうになった僕を、公隆さんは力強く優しい腕で抱きとめてくれた。
ああ、これが好きな人に抱かれるということか。なんて甘くて痛いんだろう。
泣きたくなるほど嬉しくて、死にたくなるほど幸せだ。でも、こんなところを誰かに見られて誤解でもされたら、公隆さんのお立場が悪くなる。だって、おかしいのは僕一人だけなのだから。
「公隆さん、大丈夫です。離してください」
そう言うと、公隆さんは僕を抱く腕に力を込め、さらに強くしっかりと抱きとめてくれた。でも、僕はそれには耐えられない。こんなに嬉しいのに、こんなに幸せなのに、だってあなたは……。
「やめてください。僕に触らないでください」
「どうしたんだ唯くん、具合が悪いんじゃないのか」
「……あなたは汚い。不潔です。波留子さんを抱くその手で、僕に触らないでください」
突然、僕の中で何かが音を立てて壊れた。金属の床に薄いガラス器が落ちて粉々に砕けたような、そんな取り返しのつかない状態にまで、大切なものが破壊されたような音だった。
解っている。これは八つ当たりだ。
それに、僕は何を言っているんだ。妻の波留子さんを抱くことと、病人を介抱するように僕を抱くことが同じだとでも思っているのか。
だが、僕にはもう自分を止めることはできなかった。
「皆があなたのことを何と噂しているかご存知ですか。伯爵の尻拭いのためにあんな醜い女性に身売りした情けない男だと、僕のような子どもの耳にさえ嫌でも入ってきます。あなたを尊敬していたのに。誇り高い方だと思っていたのに。あなたは不潔な恥知らずだ」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。自分の気持ちを受け入れてもらえない腹いせに公隆さんを傷つけるようなことを言うなんて、僕はどうかしている。
公隆さんは顔面を蒼白にされて立ち尽くしていた。殴られる、と僕は目を閉じて覚悟した。しかし、公隆さんは僕の頬に優しく触れ、弱々しく微笑んだ。そんな公隆さんを見たのは初めてだった。
その白くひんやりした指の感触は、僕の皮膚の隙間から沁み込んで胸に広がり、僕を後悔の谷に突き落とした。僕の手は震えていた。その震える手を公隆さんの手の上から重ね、じっとその顔を見つめた。
公隆さんの白く美しく凛々しい顔からは、深い悲しみがまるで花びらを散らすようにはらはらと音もなく剥がれ落ちてくる。
僕はその一枚一枚を残らず拾い集めて、あなたから一番遠いところへ捨て去ってしまいたい。
――ああ、僕は、あなたが好きです。あなたが好きです。あなたが好きです――。
ふっと、公隆さんは小さく息をついた。
「失望させて済まなかった。きみには言い訳のように聞こえるかもしれないが、どうにもならないこともあるんだ」
優しく微笑み、公隆さんは僕に背を向けて歩き始めた。その凛とした背中は、何ものをも拒絶し、この世のすべての不条理を黙って引き受けようとしているようで、僕は取り返しのつかないことを言ってしまった自分に気づく。
さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。さよなら。
心の中で百回つぶやいてみても、僕は悲しみと後悔から救われない。公隆さんが僕から受けた屈辱とは、到底比べものにならないからだ。
暮れかけた英国式の庭に立ち尽くし、僕は僕の中の何かが死滅したことを実感していた。
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