腐ったみかんと病は気から

 私は中学に入学した。

 道場さんは、中学生になってもそのまま学校へ来ることはなかった。


 少し大人になったような高揚感の中始まった中学生活だったけど、その現実はかなり厳しいものとなる。


 私の入った中学は昭和のスポ根を教育的指導だと思っているような、今だったら問題になるようなことがさも当然のこととして横行しているようなところだった。

 先生数人は竹刀を振り回し、忘れ物をしたという生徒を殴って吹き飛ばし、飛んだ眼鏡が割れる光景も目撃している。


「いいか! 腐ったみかんを想像しろ!」

「一つのみかんが腐ると、その回りもどんどん腐っていく!」

「腐ったみかんを出さないような教育が必要なんだ! お前たちの意思なんて関係ないっ!」


 制服のない私服登校で、のびのびと過ごしてきた小学生からは真逆の、まるで収監された囚人のようだと感じた。

 下着の色まで決められている謎の校則に、同じ髪型同じ服。

 大多数が見知った顔で入った中学だったけれど、同級生はみんなピリピリしていて自分だけがどこか違う世界に来てしまったかのような錯覚さえ覚えた。

 この違和感がとても気持ち悪かった。




 ある日、バレー部の男性顧問に声をかけれれた。


「君、背が高いな! 部活は決めたか? 是非バレー部に入りなさい」

「はい! 小学校でもバレーをしていたので、そのつもりでいます」

「そうなのか! それは楽しみだな!」


 部活を決めなくてはいけない時期がきていた。帰宅部は内進にも響くので、ほとんど入る人はいないとのこと。

 すでにバレー部の顧問から勧誘をされていた私は、迷う余地なくバレー部に入るつもりでいた。

 クラブチームのレギュラーメンバーも全員バレー部にスライドすることが分かっていたので、エースだった自分だけが違う部に入るとは中々言い出せない雰囲気だった。

 しかし、この選択がまた自分を地の底へと突き落とすこととなる。



 バレー部は、運動部の中でも最も厳しいと言われるところだった。

 勧誘をしてきた男性顧問である金田の他に、もう一人女性顧問の清原がいたのだけど、その清原が曲者だった。

 短髪で色の薄いサングラスをかけ、片手にはもはや定番となる竹刀を持っていた。風貌からも言葉遣いからも、教師とも思えなければ堅気の人間だとも思えなかった。


「てめーらー!!」


 と、サングラスの奥に透けて見える目付きは、もはや生徒を憎んでいるようにさえ見える。

 私はこの清原が苦手で、目を付けられないよう、怒られないようひたすら気を配ることしか出来なかった。


 当時部活が始まる前、必ずロッキーのテーマ曲が流れた。


『テレーテー テレーテー テレテーレ テレーレー…』


 曲が流れたら遅刻しないように支度をして、それぞれの場所に向かわなくてはいけない。部活に入って間もなく、この曲が流れると気分が沈んで逃げたくなるような感覚に陥った。


 先輩が数分遅刻し、清原に謝罪しているのを横目で見ていた。

「遅れてすみません」

「ああん? 今何分だと思ってるんだーっ!」

「ごめんなさい」

「走れ!!」

「?」

「体育館五周走って来いって言ってんだよー!」


 こんな光景を日常的に見ていた。


 私は練習についていくのが精一杯だった。

 今まで自分の方が運動能力が高いと思っていた友達にさえ、あっさり抜かされるようになっていた。

 息が切れ、呼吸が乱れ、視界がぼやける。


 私は自分の心身が限界に近いことを感じていて、辞めたいと考えるようになった。

 それを、ある日バレー部のメンバーたちに相談することにした。


「辞めたい…もう嫌だ。 楽しいバレーは好きだけど清原先生怖いしもうしんどい」

「なんかバレー部って辞めるのがすごい難しいみたいだよ」

「え?」

「みんなもれなく辛いけど頑張ってるんだよ! 逃げずに頑張ろうよ」


(逃げずに…)


 私は逃げているのだろうか。


「バレー部の先輩にはね、練習を頑張って月経も止まってしまっている人もいるんだよ。 それでも頑張っているよ」


(生理が止まるってヤバいのでは?)


 それをさも当然のことのように言うのが、とても気持ち悪った。

 辞めることも出来ないのかと、その時更に気持ちが陰った。

 相談した結果余計に逃げ道を塞がれてしまい、自分でもどうしたらいいのか分からなくなっていた。


「もっと頑張れー!」

「はいっ!」


(もっと頑張らなきゃ…もっと頑張らなきゃダメなんだ!)


 頑張っても頑張っても、増すのはしんどさだけ。

 でももっと頑張らなくてはいけないという無限ループ。

 真面目で手が抜けなかった自分も良くなかったとは思うけど、とにかく怒られたくなかったし、期待に応えなければいけないという謎の責任も感じていた。




 部活以外の時間でも体調が悪くなることが増えていた。

 激しい運動量の割に、食欲もなく少量しか食べることが出来ずにいたのも影響していたと思う。

 実は、いつの頃からかご飯が美味しいと感じなくなっていた。味を感じなくなっていたからだ。

 少し重たい風が吹けば体を持っていかれるほど、私は弱っていたのだ。

 授業を受けながら我慢していたけれど、このままでは倒れてしまうかもしれないという不安から、担任勝俣に申し出た。


「先生……気分が悪くて……」

「あ、そうなの?」


 担任の勝俣は、三十代の男性教師だった。


「…岡田さん、病はね気からって言うでしょ」

「…」


 体調が悪いことを申し出た私に、勝俣はそんな風に返答した。


(そっか…私の気持ちが弱いから病気になるんだ)


 勝俣にとっては何気なく言った言葉だったのかもしれない。

 けれど私には自分の心が弱いから病気になるんだと言われたようで、その場からすぐに消え去りたくなるような羞恥心に襲われた。


 ここで私は、腐ったみかんの話を思い出した。

 そして、ああ自分は腐ったみかんなんだと思った。

 青い衣で身を守り、ぶよぶよして水気を出して助けてと叫びながら、回りも腐らせようとする迷惑な存在。


 そこから先の記憶は曖昧だった。

 親には心配をかけたくない。

 でも、早くしないと泣いてしまう。


「汗かいてるから先にシャワー浴びるね」


 そう言うと、お風呂場へ向かう。

 シャワーヘッドから出るお湯をひたすら頭からかぶりながら、たくさんたくさん声を殺して泣いた。

 泣いて泣いて泣いて…ふと我に返ると、剃刀の刃を手首に押し当てている自分がいた。


 ●のうとしている意思はない。

 本当に無意識に、自分の命を絶とうとしている自分の行動に寒気がした。

 もうダメだ。

 もう無理だ。


 このまま二度と、朝なんて来なければいいのに。

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